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07話 フェルタニア公爵邸での夜(3)


「ふー……っ」


 自室に戻った私は肺に溜まった熱を溜息と共に吐き出した。ベッドにつっぷして、きゅっ、と枕を抱きしめる。

 目元の枕が少しずつ湿っていくのを瞼で感じながら、いつものように、今日一日の出来事を強く後悔する。



 全部、自業自得。


 やはり一人でシリウス様の視察に付き従ったのは間違いだったのだ。

 侍女でも従僕でも、あと一人でもお忍びに協力的な使用人を帝都から連れて来ていれば。

 あの着替えの我侭を無視して館の侍女たちを呼び戻していれば。

 こんなことにはならなかったはずなのに……




 現在、シリウス様に直接仕えている女性使用人は非常に少ない。

 その原因を作ってしまったのは他でもない、この私自身なのだ。




 つい先週のことだ。

 後宮の噂で私はシリウス殿下に隣国の王女との婚約の話が持ち上がっていることを知った。普段から"いつか必ず彼の側から離れなくてはいけない時が来る"と覚悟していたはずだった。しかし突然聞かされた殿下の婚約者の存在に、私の覚悟は脆く一瞬で砕け散ってしまった。

 理性で何と言おうと、心の中では何よりも恐れていた未来。

 その突然の到来に、私は目の前が真っ白になり酷く狼狽してしまった。



『19歳になったシリウス様に今まで婚約者が居なかったことがおかしかったのだ』



 辛うじて残った理性をかき集め、そう自分に暗示を掛け己の心を整理しようと試みた。でもそれは、結果的に自分がどれほど彼に強い感情を抱いていたか自覚させられただけだった。


 その日の夜は偶然にもイザークが出払っており、私はシリウス様と夜更けまで執務室に2人きりになっていた。若い未婚の男女が蝋燭の灯りのみの密室で2人きり。宮廷の常識ある者なら卒倒するであろう、あまりに倒錯的な行為だ。

 泣きそうになるほどの罪悪感と───それを容易に押し潰すほどの、偽りきれない大きな大きな期待感。必死に平静を装いながらさり気なく注意しても、彼は生返事を返すばかり。


 シリウス様の婚約の話に絶望し、半ば壊れていた私は、あの時ばかりは自分の感情を押さえ込むことが出来なかった。



『殿下はようやく婚約者を迎えられるというのに、夜中に女性使用人と2人きりになるなんて、ヴァネッサ姫様に失礼だとは思わなくて?』



 私はつい自暴自棄になってそんなことを口にしてしまう。

 ヴァネッサ姫様の話題を聞かされ悲嘆に暮れていたはずの自分を棚に上げ、暗に"私から距離を置いて欲しい"と彼に詰め寄った。


 嫌、ずっとあなたの側に居たい。


 そう理性の蓋を突き破ろうとする自分の本音を歯を食いしばりながら封じ込め、私は蝋燭の灯りに照らされた彼を精一杯睨みつけた。

 些細な仕草に発言、行動で私を惑わす酷い人。


 嫌い、嫌い。私の心を弄ぶシリウス様なんて大嫌い。


 そんな一人よがりで理不尽な怒りを向けてくる私に対し、殿下は一言こう答えた。




『なら私がそうならぬよう、其方が見張りを勤めればよかろう』




 あの時の私は冷静ではなかった。

 婚約の話に心身ともに疲弊しきっていた私はその言葉の意味も考えず、“ではそのようにいたします”と安易に返してしまったのだ。


 平静を取り戻した後にシリウス様に言ったことを改めて振り返り、私は唖然とした。

 それは四六時中、自分の側に控えろという本末転倒な命令。

 慌てて撤回しようと彼の下に走ったが、最早後の祭り。殿下は既にお付きの侍女たちの業務目録から自分の近くに侍る仕事の多くを取り除いてしまっていた。

 流石にご自分の身嗜みを整える仕事は侍女に任せてくれたものの、それでも減らした分のしわ寄せは私が解決しなくてはならなくなって……その日から私はシリウス様に仕える女性使用人の中で公私問わず最も身近な人間になってしまったのだ。



 自分の頼みとは間逆の結果。それが皮肉にも、自分の本音の願い通りになっている。



 私は馬鹿だ。

 こんなこと、自分の首を絞めるだけなのに。

 こんな現状を放置し続けていたら、二度と戻れなくなってしまうのに。


 今日のお召替えなど、その最たるものだ。

 理性では何度も“侍女に任せなくては”と言い聞かせていたのに、結局最後まで私はあの2人きりの着替えの時間を壊せなかった。本当はあの非常識な空間に、心の奥底では────ありえない何かを期待してしまっていたのだ。

 私はもう、本当に取り返しの付かないところにまで来てしまったのかもしれない……



 命令するシリウス様も、シリウス様だ。

 彼が一体何を考えているのか、全くわからない。

 何故よりにもよって、婚約者としての振舞いを窘めようとした本人の私が、殿下の女避けの見張りをしなくてはならないのか。

 先ほどのお召替えも、着替える衣服で代官のロベルト卿にお忍びを悟られたくないのなら、お召替え担当の侍女たちに黙っていろと命令すればよかったのだ。

 あんな暗い中で私1人に任せるなんて……もし、万が一、億が一、2人きりのあの状況で間違いが起きたらどうするつもりだったのか。

 国許を離れ、祖国のために両国の橋渡しになろうと殿下に嫁いで来られるヴァネッサ様に、何と詫びればいいのか。


 女避けの見張りだなんて、2人きりの空間でお召替えを任せるなんて、殿下は私を女として見てくれていないのだろうか。


 それとも、本当は……




「…ッ」



 私は浮かんだ憶測を隠すように、布団を頭から被って顔を覆った。側仕えの制服である露出の少ない禁欲的なドレスのままベッドに蹲る、元王女。シリウス様に見られたら品の無い女だと幻滅されてしまうだろう。

 それでも……1人きりの世界で一晩かけて気持ちを整えないと、私はシリウス様が望む、色目を使わない優秀な側仕え“アリア”を維持出来ないのだから。こうして一人きりの時くらいは“アリア”の仮面を外しても許して欲しい。



 日を追うごとに大きく育ってゆく愚かな私の、女の欲。

 彼の何気ない言葉や態度から、“もしかしたら”と調子のいい妄想に走って勝手に期待してしまう、馬鹿な女。


 この願いは叶わないのに。

 この想いは届いてはいけないのに。

 シリウス殿下の側から離れなくてはいけないのに。


 とっくの昔に、わかっている。



 わかっているのに、今夜もこうして“明日からは”と出来っこない嘘を吐き、私は濡れる瞼を閉じ続けて迫る現実から目を逸らしている。




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