06話 フェルタニア公爵邸での夜(2)
元は皇后様の側仕えだった私は、殿方であるシリウス様のお召替えを行ったことなど一度も無かった。異性の裸なんて以ての外。使用人として男に対する免疫が圧倒的に低い私は、シリウス様の前に立った瞬間早くも自身の選択を後悔した。
軍服のボタンを外すために彼と真正面から向き合った途端、目の前の青年が何倍にも膨れ上がって見えた。近衛騎士たちも悲鳴を上げるほどの厳しい鍛錬を積み、鍛えられた肉体。その強烈な“男”を感じさせる彼の前に立つと、今にも押し倒されてしまいそうな淫らな恐怖を覚える。
思わず息を呑む。こんな偉丈夫に組み敷かれたらきっと成す術もなく、私はシリウス様の思うがままに身体を許してしまうだろう。
そんな破廉恥な想像をしてしまう自分に、顔が火を噴きそうになるほど熱くなる。
「……安心しろ、誰にも見られてはおらぬ」
俯いて黙り込んだ私に向かって、ばつが悪そうにそう呟くシリウス様。
ドクンと心臓が飛び上がる。こんな状況で何てことを口走っているのか。自分が何を言っているのか本当に理解しているのか。“誰にも見られていない”から、私にどうしろと言うのか。
おそらく噂が広まるのを恐れる私の懸念を払拭しようとしてくれているのだろう。だけど今はその言葉の意味は、余計に私の心をかき乱す禁断の呪文にしか聞こえない。
胸がドキドキと早鐘を打つ。私は呑み込まれそうになるほどの大きな存在感に向かって震える指先を伸ばし、決心して軍服のボタンを無言で外し始めた。
ぷつり、ぷつり、ぷつり……
一つずつ外れていく純金のボタンと共に、自分の理性までも一緒に外れていくかのような錯覚に飲み込まれる。耳に聞こえるのは2人きりの夜の寝室に微かに響く、硬質な金具と柔らかい衣擦れの音。閉じられたカーテンは月明かりを遮り、たった1つの小さなランタンが若い男女の体をぼんやりと照らしている。あまりに淫猥で倒錯的な空間に気が狂ってしまいそう。
シリウス様の上半身が上着、直着、襯衣……と、衣服を一枚一枚脱がされていく度に、まるで獣を檻から解き放つような背徳感が私の胸をいっぱいにする。
気付けば息がかつて無いほど荒くなっていた。心臓はもう肋骨を突き破りそうなくらいに暴れまわっている。顔は耳まで茹で上がり、肩は振るえながら上下している。目の前に残された肌着は彼の素肌を隠す最後の砦。見事に仕立てられた純白の綿の生地の下からでも、殿下の力強い躯体がわかってしまう。
私は今からこれを脱がさなくてはならないのだ。
瞼をぎゅっと閉じ、極力目の前の男性を意識しないように、私はボタンを全て外した彼の肌着の前を開いた。
すると突然、ふわっとシリウス様の匂いが鼻腔をくすぐった。
―――しまった。
目を閉じたのが裏目に出た。視覚を封じたせいで余計に彼を意識してしまった。
幼い頃とは違う強い“異性”を感じさせる、彼の汗の匂い。燻るような彼の体温の熱。その全てに体の芯まで貫かれ、思わず理性が飛びそうになる。
ああもう、だから侍女達に任せるべきだと言ったのに……
私は残った理性を何とかかき集め、ふらつく足で踏ん張りながら着替えの紳士服に手を伸ばす。無心で半裸のシリウス様に衣類を着せ───上着の最後のボタンを掛け終えた時には、もう立っていることさえ精一杯だった。
「……ッ、お待たせ致しました。……それでは殿下、食堂まで……ご案内致します」
「……ああ。すまなかった、アリア」
シリウス様に一礼し、私は倒れそうになる身体を必死に堪えながらランタンの灯りを頼りに廊下を先導する。踝丈の長さの制服のスカートが小鹿のように震える足を隠してくれたのは本当に幸いだった。
「殿下!侍女を下げたとの事は誠でしょうか!?」
廊下の途中で代官のロベルト卿が小走りで近付いてきた。そのまま咎めるようにシリウス様に問いかけてくる。
私は卿の静かな剣幕に自分まで責められているように感じて、思わず詫びるように俯いてしまう。
「ふん、人の体を凝視して来る躾のなってない若い侍女どもに着替えなど任せられるか」
「……それは一体どの侍女でしょうか?直ちに解雇致しますので顔の特徴をお教えいただきたく」
「知らぬ。日も沈んだ故暗くて顔などわかるものか」
「では侍女がお嫌いでしたらお召替えは従僕にお命じくださいませ。淑女のアリア様お一人にお任せするなど、あまりにも軽率ですぞ」
2人の言い争いの横で私は首を窄めて縮こまった。ロベルト卿は侍女のことを聞いた時点で誰がシリウス様の着替えを行ったのか見当がついたのだろう。時々こちらに飛んでくる卿の鋭い眼光に怯えてしまう。今更ながら、先ほどまでの私の行動がどれほど非常識であったのか、自覚する。
「どうせ宮中の下らん噂のことを申しているのだろう?名高い“美貌の一族”であるアリアにとって私など……ただの揶揄い甲斐のある幼稚な主人に過ぎん」
「……アリア様のお心ではなく周囲がどう見るのかが問題なのです。成人された皇族がその程度のこともわからぬようでは話になりませぬぞ」
「ふん、アリアは一度も私の裸に動じずただ黙々と服を着せて来たのだぞ?余程異性として私に興味が無いのであろうな」
ズキンと胸に哀感の棘が刺さる。シリウス様の不機嫌そうな声色も、責めるような含意も、その言葉の意味も、全てが私の心を切り刻む刃のよう。この想いを悟られてはならないと今までそっけなく振舞って来たけれど、ここまで救いが無かったことに鼻の奥がツンとする。
「只の杞憂だ。其方が黙っておれば何の問題もない」
「……かしこまりました」
横目で私を睨みながら殿下に頭を下げるロベルト卿。今彼がここで私を責めて来ないのは、主の手前、側仕えの私を部外者の卿が叱る訳にはいかないからだ。
でもシリウス様が離れれば、私は卿に叱られてしまうのでしょうね……
「……殿下、晩餐のお食事が冷めてしまいます。そろそろ……」
「む、そうだな。アリア、其方も長旅で疲れていることだ。明日も早い故、早目に休むが良い」
ロベルト卿の内心に気付いているのか、殿下がさり気なく私に逃げ道を作ってくれた。卿に叱られるまでも無く、既に胸中がボロボロな私はありがたくその厚意に縋ることにする。
「……お心遣い忝く存じます。それでは明日に備え本日はこれで失礼致します」
「うむ。……おやすみ、アリア」
「…ッ、は、はい。……おやすみなさいませ、シリウス様」
カッと熱を持った顔を伏せ一礼し、彼の優しげな目から逃れるようにその場を離れた。思わぬ不意討ちにまた心が激しく乱される。私の気持ちに気付いていないのなら、“おやすみ”なんて……そのような特別な挨拶をしないで欲しい。心臓が幾つあっても足りないではないか。
去り際に視界の端に写った殿下の姿が、廊下の窓から差し込む月明かりの下で妖艶に浮かび上がって見えた。