05話 フェルタニア公爵邸での夜(1)
夜の磯の香りが漂う港町。ナザレア帝国最先端のガス灯が照らすフェルタニア港は12の鐘が過ぎてもまだ、明るい市民の喧騒に包まれている。
その温かい街並がまるで隣に座る領主の心の写しのように思えて、思わず頬が緩んでしまう。
「お待ちしておりました、フェルタニア公爵殿下。新鮮な魚介を用いた晩餐をご用意致しております」
「うむ、出迎え大儀である。ロベルト、後ろのアリアに事情を聞け。アリア、ロベルトへの説明を終えたら私の部屋に来い」
「かしこまりました、殿下」
フェルタニア公爵邸では20名の使用人たちとフェルタニア公代官のロベルト伯爵がシリウス様の到着を出迎えてくれた。彼は白髪が良く似合う老人で、今上皇帝陛下がフェルタニア公爵位に就いていらした頃よりこの領地の代官を務めてきた皇家の忠臣だ。殿下も何かと頭の上がらない御仁である。
馬車が館に着く直前、伝令の騎士を休息の名目で無理やり車内に座らせたおかげで、シリウス様と私の2人きりの異常事態をロベルト卿に知られることは避けられた。殿下があの道中の状況を意識していない訳では無かったことに少しだけ複雑な気持ちになる。
彼の本心を考えようとしてしまう愚かな自分を叱咤して、館の奥へと消えて行く殿下を見送った後に卿に今回の視察の事情を説明した。
「……なるほど、確かにイザーク卿の子飼いたちに任せるのが最善でしょうな」
「あの者たちは今どこに?」
「しばしお待ちを。直ぐにお連れしましょう」
「いえ、私は殿下よりお側に控える命を戴いております。ロベルト卿に彼らへの指示をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「わかりました。私にお任せください、アリア様」
ロベルト卿の実家は私の祖国シャンディア王国に隣接するノルトゼー侯爵領を治める貴族だ。そのためか、関係の深かった元エスターラント家の人間である私に対しては必ず敬意を払ってくれる。とても名誉に思う反面、廃嫡と言う処分の意味が薄れてしまいそうで控えてほしいと頼んではいるのだけど……今のところ効果は無いようだ。
本当に、シリウス様の周りは居心地が良過ぎて不安になってしまう。
***
「アリアです。只今戻りました」
「そうか、ご苦労。入れ」
「失礼致します」
2階のシリウス様の私室に上がると直ぐに奥の寝室に通された。何故ワザワザ寝室まで呼ばれたのかわからず首をかしげながら扉を潜ると、広い寝台の前に殿下が一人で立っていた。
「なっ……!?」
私はびっくりして閉めかけた扉を慌てて押さえてスキマを作る。密室の、しかも寝室に2人きりだなんて男女の営みを目的とすること以外の何事でもない。
何故お一人で!?
何故このような空間に私をお呼びになったの!?
殿下のお召替えを任された侍女たちはどこへ!?
動揺、羞恥、怒気が渦巻きカッと顔に熱が広がる。
「殿下っ!他の召仕えをどこへお遣りになったのですか!?」
「追い払った」
「は!?」
“追い払った”って、一体どういうこと……!?
「私の服はそこの椅子に置いてある。此度の視察期間の身支度は全て其方に任せる故、朝は2の鐘に起こしに来い」
「…ッ、わ、私がでございますか!?」
「何を驚いている、昨日のうちに伝えただろう?人目を忍んで港まであそ───視察に行くのだ。侍女たちに着替えを任せたら服装からお忍びだと悟られてしまうではないか」
私は唖然として、はしたなく顎が開いたまま固まってしまった。
確かに昨日シリウス様の執務室でこのお忍び視察を計画した時にそのようなことを言われた気がする。
だが今は夜。夜間に寝室で若い女性側仕え一人に着替えを任せるなど、馬車で2人きりになること以上の凶行だ。目の前の貴人が一体何を考えているのかさっぱりわからない。久々の外出に舞い上がっている子供のように周りが全く見えていないのではないだろうか。
「何をしている、早くしろ。晩餐が冷めてしまう」
……殿下は明日の港町散策が楽しみなのだろうけれど、私はそれどころではない。
急かしてくるシリウス様に苛立ちを覚える。
馬車での対応を振り返るに、彼が私と2人きりでいる事の問題性をわかっていない訳ではないはず。なのにこの非常識な態度はなんだ。昨日もイザークが側に居たのに、私が色目を使って来ないだの勝手なことを。
私がいつもどんな気持ちであなたの側に立っているのか、少しくらい考えて欲しい。
……でも、その願いは決して叶わない。この気持ちは墓まで持っていくつもりなのだから。
私は深い深呼吸をして、自分に言い聞かせるようにシリウス様を窘めた。
感情を抑えようと意識して出した声は、消え入るような擦れ声だった。
「……殿下。せめてお召替えは侍女たちにお命じくださいませ。以前も申し上げましたが、殿下は近日中にイヘニアの姫君とご婚約されるご身分。側に置く女性はそのことをご配慮なさった上でお選びいただきますよう……」
ナザレア帝国における“側仕え”は、最初は下男下女から従僕侍女を経て最後に昇格する最高位の使用人のことを指す。旧シャンディア王国では“侍従長”、イヘニア二重王国では“側近”などと呼ばれるが、ナザレアでは例え貴族家の者であっても必ず下男下女の雑用事を完璧にこなせなければ側仕えに昇格出来ない。そのため爵位を持つ側仕えは、貴族の身分より地べたを這い蹲ってでも主人への奉公を選んだ真の忠臣として、周囲から一目置かれている。今上皇帝陛下も下男下女として御身に仕えた高位貴族出身の側仕えを重臣に採用され政務を任せておられる。
この国における側仕えとは、主人に強い崇拝、忠誠、敬愛、親愛の心を持つ者を指す言葉なのだ。
では元王族の年頃の姫が、そんな”主人に特別強い想いを抱く使用人”の代名詞である『側仕え』として、未婚の皇子に仕えている今の状況を他人が見たらどう思うか。そんな2人の関係をどう考えるか。
答えるまでも無い。
「……宮中では私のことを噂する反イヘニア派の貴族もおられます。ヴァネッサ姫様が帝国に嫁がれることを好ましく思わない方にとって私の存在は大変利用価値が高いことでしょう。既に過分なご恩をいただいている身で、これ以上のご迷惑を皇家におかけする訳には参りません」
そう。
私はロートシルデ皇家に救われた大恩がある。側仕えとして皇家に使えているが、それでも恩返しとしては些細なもの。だというのに……もし私のせいで100年ぶりのイヘニア二重王国との友好が台無しになってしまったら、私は一体どうやって命の恩人に償えばいいのだろう。
「……ふん、グチグチと小言の多い側仕えだ」
そうふて腐れながら複雑な軍服を自分で脱ごうとボタンを弄り出すシリウス様。略装とはいえ皇族のための軍服だ。慣れない彼が一人で脱ぐのは難しいだろう。そのための侍女たちも既に追い払ってしまっている。
側にいるのは私だけだ。
……仕方ない。
「……失礼します」
私はワザとシリウス様に聞こえるように大きく溜息を吐いて、上着と格闘している彼の下に近付いた。