04話 フェルタニア公爵領への道中
シリウス様お気に入りのお忍び用の馬車が舗装された石畳の道をひたすら前進する。車窓から覗く美しい山々は見る者の心を癒す自然の絶景だ。
しかし馬車に乗る私の気分は一向に晴れてくれない。行き先のフェルタニアに近付くにつれ、序々にこの異常な車内空間に飲まれそうになっていく。
私はまた、チラリと斜め向かいの席で外の景色を楽しんでいる自分の主人に視線を向けてしまう。窓ガラスを見つめる彼の横顔を追い駆けてばかりの私の両目に辟易としながらも、その衝動を抑えられる回数は減っていく一方。
気付かれないようにゆっくりと溜息を吐いて心を正そうとしても、全く上手く行かない。全部、シリウス様のせいだ。
本来ナザレア帝国の王侯貴族が馬車に乗る時、主人には必ず男女の使用人が側に侍る。例え夫婦であっても2人きりの車内という状況には決してならない。ましては未婚の男女ともなれば非常識を通り越し、狂行だ。それほどこの国の貞操観念は根強い。
だが今、この馬車に乗っているのはシリウス様と側仕えの私の2人だけ。婚約を控えた国の最高位に位置する男性に許された空間ではない。それなのに当の殿下がまるで何も感じていないかのように無反応なのだ。あたふたしている私の方がおかしいのではないかと錯覚してしまいそうになる。
つい、またシリウス様の座る方向に目を向けてしまう。視界に飛び込んでくるのは彼の寛いでいる姿。軍服の上からでもわかってしまう、鍛え抜かれた立派な躯体。逞しい腕は窓際の肘掛に放り出され、力の抜けた指先は妙に艶っぽい。
私は視線が彼の端整な顔に行き着く前に何とか自分を律して目を伏せた。これ以上はいけない。
先日の殿下の言葉が私の胸を締め付ける。こんな破廉恥な状況で恥しげもなくチラチラと彼に視線を送ってしまう愚かな女が、自分に色目を使って来ないだなんてよくも堂々と本人の前で言えたものだ。
本当、人の気持ちも知らないで……
「……おい」
「…ッ、お、お呼びでしょうか?」
突然シリウス様に声をかけられた。慌てて取り繕うことが出来たのは日頃の姿勢のおかげだろう。
「“お呼びでしょうか”ではない。さっきから何をチラチラと見ている?」
「い、いえっ!その……で、殿下がお召になるいつものお忍び用の衣装では地方都市のフェルタニアではいささか目立つのではないか、と考えておりまして……」
咄嗟に誤魔化したが、我ながら悪くない言い訳だ。事実、あの服装を纏った時の彼は見栄っ張りの多い帝都でも少しばかり目立つ。裕福な商人風の衣装でもシリウス様が着替えればたちまち気品溢れる一張羅に様変わり。凛とした姿勢、洗練された優雅な動作、そして宮中の全ての姫君令嬢を虜にするその美貌。皇后様の教育の賜物である彼のその優美な佇まいはどこからどう見ても商人のそれではない。
つまり悪いのは衣装ではなくシリウス様自身なのだけど。
「む、そうか?市井に詳しいイザークはあの衣装でも問題ないと言っていたのだが……」
衣装を纏った自分の姿を想像したのか、むすっと私の意見に不満を述べる殿下。市井に詳しいと言ってもイザークは公爵家の3男で、本人も子爵位を与えられたれっきとした貴族家の当主だ。シリウス様の再従兄にあたる皇家に連なる人物で、平民とはそもそも育ちが異なる。
「……確かにいつも殿下が垂れ流してらっしゃるその高貴な気配に合わせるとなると、平民が着る服ではあのお召し物が最も適切かとは存じますが……やはり現地で買え揃えた方がよろしいかと」
「おい“垂れ流してる”とは何だ、失礼な。褒めるのか貶めるのかどちらかにしろ」
「では選んだイザークの苦労を偲び、貶める意味を込めましょう」
「くっ、相変わらずの減らず口を……っ!」
鼻息荒くこちらを睨みつけて来るシリウス様を無視し、いつも私の心を乱す彼へのささやかな仕返しとした。
***
「して、殿下。今後のご予定はどのようになさいますか?」
馬車も大分進み、日が天に昇りきったところで私は殿下に尋ねてみた。行き先であるフェルタニア港の代官には夜明けのうちに早馬を飛ばしてあるけれど、多少は騒ぎになるだろう。自領なので歓迎式典などは執り行われないが皇族の領主への最低限のおもてなしは必要だ。私も到着次第に準備に借り出されるだろうし、今のうちにこの行き当たりばったりなお忍び調査の目標くらいは決めておきたい。
「まずはなんといってもロフォース共和国の商人たちに会ってみる事だ。そしてその問題の反物の情報収集だな」
「技術革新の件はいかが致しましょう?」
共和国の政商が我がナザレア産の絹糸を買わなくなったのはもう2年も前の話。もし取引を止めた理由が自国の繊維産業の急激な発展に起因するのならば、共和国の絹織物含む全ての反物が同時に安くなっていたはず。でもそのような話は昨日確認した今月の貿易収益の明細書を覗けば、今まで一切報告されていない。
だけど、それをただの杞憂と判断するには危険過ぎる。
「……其方はその技術革新とやらの危険性は如何程のものと考える?」
「もし共和国が質の良い糸を大量に生産出来る優れた糸紡ぎ機を実用化していた場合、旧式の機械しか持たない我が国の繊維産業では太刀打ち出来ません。早急に問題を究明し対策を取らなくては最悪、彼の国の商品に我が国の市場を制圧されてしまうでしょう」
絹糸の需要を全て自国で賄えるほど養蚕産業が進歩しているのなら、当然その生産技術は他の織物にも応用されているはずだ。なのに持ち込まれる実際の反物商品にこれまで大きな価格変動が確認出来なかったのは、何か作為的なものを感じる。
「……まさか共和国が今まで商人たちに反物の価格統制を強いていたというのか?糸の生産性が向上していることを他国から隠すために?」
「ありえない話ではございませんわ。強かな商人たちは商品の原価が下がったとしても即座に販売価格を下げるようなことはしないでしょう。他国の商品を相手に最低限の価格競争を演じつつ、密かに原価率が低下した分の利益を上げ続けていたのかもしれませんわね」
「その動きを共和国が影で後押ししている、か……」
共和国で何か大きな経済的な動きが起きているのなら、それにしっかりと対応しなければ国が大打撃を受けることになりかねない。
「丁度良いことに先週末に皇后様が例の政商の代表の謁見をお受けになりましたわ。おそらく彼の者たちはまだ帝国に滞在しております。その帰りの船に商人や巡礼者に扮した間諜を紛れ込ませてはいかがでしょうか?」
「……確かイザークの手の者が港に拠点を一つ持っていたな」
「あの孤児達を育成した隠密衆でしたら殿下の指示通りに動いてくれるでしょう。今は別の任務についておりますが、緊急性は今回の問題の方が高いかと」
イザークは以前、王族教育で忙しいシリウス様に代わって孤児院の視察を代行していたことがあった。その時に見所のある少年少女を引き取って密かに間諜の訓練を積ませていたのだ。当時はコソコソと何をやっているのだとあきれたものだけど、その孤児たちが今やシリウス様の目と耳、手と足になっているのだから彼の先見性には誠に頭が下がる。
「……よし、アリア。其方はあの者らとの調整を急げ。指揮も任せる故何としてでも共和国の商船に人員を紛れ込ませろ」
「かしこまりました。館に隠密が数名程待機しておりますので到着次第その者に命じれば今晩中に動かせるでしょう」
「うむ、頼んだ。私は代官の歓迎を受けるついでに例の事情を話しておく。一応視察の体故な」
「ご随意に」
シリウス様の力になれる。
彼に必要とされていることに心に沸々と湧き上がるものを押さえつけ、私は優秀な側仕えの仮面を被り頭を下げた。