03話 フェルタニア公爵領への視察準備
「職人たちに過酷な労働を強いているのか、更に遠方の国々から我が国のものより安価な糸を輸入しているのか……様々な可能性は考えられますが、やはり最も警戒するべきなのは共和国の技術革新でしょう」
「技術革新……」
「一度他の共和国商人たちの取り扱っている反物や糸の価格を調査した方がよろしいかと。何よりまずはロフォース共和国にこちらの手の者を送って、今の彼の国の繊維業界の実体を調査させましょう。今はまだ情報が少なすぎます」
“ふむ……”と何か考え込む小振りをするシリウス様。その顔には悪戯小僧のような悪い笑顔が浮かんでいた。
「……これは大仕事になるぞ!直ちに人を準備しなくては!」
「随分とご機嫌ですわね」
「当然だ!もしこの調査が上手く行けば我が国の産業の危機を未然に防ぐことが出来るやも知れん」
シリウス様が思いもよらない大発見にはしゃいでいる。おそらく事の大きさに興奮しているのだろう。どうやら想像以上の大事になりそうだ。
兄君のルキウス第一皇子殿下が病でお倒れになられている今、確かにシリウス様の働きは国にとってとても重要なのだけど。無理をせずにこっそり情報を集め、いくつか行動方針を皇帝陛下に提案するだけで十分な働きになるはずだ。無茶はいけない。
だけど殿下がはしゃいでしまうのも無理はない。シリウス様の宮中での活躍は、社交会で令嬢たちのダンスの相手をすることばかりが不本意に目立ってしまっているのだ。ここで一つ、殿下の実務能力を宮中に示すのも彼の将来につながってくれるかもしれない。
それにご自身にも何か、仕事に対する皇族としての使命以外の感情を覚えてもらうのも良い。いつも執務中はつまらなそうにしてばかりだったから、何か大きな達成感を得られればまた皇子として大きく成長してくれるかもしれない。
「お手柄ですわね。ですが慎重に調べなくてはなりませんよ?」
「わかっているさ。ふっふっふっ、くだらんよいしょか私の外見しか見えぬ馬鹿貴族どもめ。今に見ておれ、ロートシルデの皇子に無能は居ないと教えてくれる!母上も大層お喜びになられるだろう!」
相当鬱憤が溜まっていたのだろう。手を顎に当ててニヤリと不適な笑みを作るシリウス様。彼の整った顔に浮かんだその野生的な表情に、私の胸がドキッと警鐘を鳴らす。咄嗟に目を逸らして湧き上がる雑念を何とか心の奥に封じ込めた。
本当、心臓に悪い……
「…ッ、で、では私は明日より3日ほど休暇をいただきフェルタニア港へ市場調査に行ってまいります。その間の側仕えはイザークに任せます」
「いや、フェルタニア港へは私も其方と共に行く」
「……は?」
突然シリウス様がそんなことを言い出した。一拍置いてようやくその言葉を理解した私は、あきれて我侭小僧に言い聞かせるように殿下を窘める。
「……ご冗談を。宮中から皇子が消えたとあっては一大事になりましょう。ここは私にお任せくださいませ」
「どの道そろそろ領地へ視察に行かねばならぬ。明日の朝発てる者のみを連れて行く故、大所帯にはならぬであろう」
「いえですが────」
「護衛は現地の代官に任せれば良い。そもそもフェルタニアは私の領地だぞ?自領で発覚した問題を解決するのは領主の義務ではないか」
冷静にそれらしい理屈を述べているが、本心ではただ居ても発ってもいられなくなっているだけようだ。意地でもご自身で調査に行きたいらしい。
気持ちはわかるが……これはあまり褒められたことではない。
「ではアリア、明日までに馬車を用意しておけ」
「なっ!お、お待ちください殿下!ご自身のお立場を────」
「父上には抜き打ち調査だとお伝えしろ。アリアも自分の支度を急げ」
「身の回りのお世話をする侍女たちの準備が間に合いません!殿下、このような我侭は────」
「身の回りのことならアリア一人で十分であろう?其方がついて参れ」
「わっ、私一人でございますか!?」
想像すらしていなかった浅墓な命令に私は素っ頓狂な声を上げてしまう。側仕えとはいえ未婚の年頃の女一人に道中のお世話を全て任せるなんて、そのようなことが周りに知られたらどんな噂を立てられるか馬鹿でもわかる。だというのに、今の命令は一体何だ。
シリウス様とヴァネッサ姫様との婚約は既に宮中では周知の事実なのだけど、実はこの話は未だ正式には公表されていない。姫君の祖国、イヘニア二重王国と我がナザレア帝国との間にあった100年の確執が根強いからだ。お2人の婚約はその不毛な現状を打開する重要な手段。その大事な婚約をこんな些細なことで台無しにしてしまう訳にはいかないのに。
殿下は一体何を考えておられるの……!?
「殿下っ!あなた様にはもうじきイヘニア二重王国の姫君が嫁がれるのですよ!?以前のような身勝手な行動は謹んでいただかなくては────」
「フェルタニア港の館にも常に使用人たちを控えさせている。其方の仕事はその者たちの指揮だ。それ以上でも以下でもない」
「そういう事ではございません!使用人とはいえ年頃の女性と2人きりで馬車に乗るなど、そう不必要に隙を作ることが愚作だと申しておるのです!」
「やかましい!行くと言ったら行くのだ!…………大体其方が私に色目を使った例など一度もないではないか」
「……ッ!そっ、それは……っ」
あまりに無神経なその言い草に私は思わず言葉に詰まってしまう。ずっと秘め続けた想いがぶわっと吹き上がり、やり所の無い切ない衝動に駆られて心が悲鳴を上げる。
「……私は……そんな、こと……」
胸が苦しくて、痛みに耐えるようにブラウスの胸元を握り締めた。これでいいの。私は間違ってない。だから耐えて、お願い。……ああ、でも……
自分の中で複雑に絡み合う感情に思い乱れている隙に、シリウス様が好機と言わんばかりにこちらを言いくるめにかかって来る。
「ふん、他の女ならともかくアリアとなら間違いも起きまい。決まりだな」
「…………ッ」
「明日は1の鐘で出立する。そのように計らえ、わかったなアリア」
「…………かしこまりました」
本当は決して認めてはいけない我侭。
それなのに……自分の何かが崩れる前に、シリウス様の側から離れたくてつい了解の返事をしてしまった。
やり場の無い気持ちが毒蛇のように胸中を這いずり回る。私は顔を伏せたまま執務室を退室した。
私は締め付けられるような胸の痛みを堪えながら、皇帝陛下の側仕えの控え室に向かってとぼとぼと歩き出した。