02話 シリウス第二皇子の執務室
私の本名はアウレーリア・エスターラントと言う。
かつて、支配域のシャンディア半島の名を冠すシャンディア王国と呼ばれた国を治めたエスターラント王家の末裔だ。
シャンディア王国は9年前、苛政に苦しむ民衆を味方につけた分家のジューノ公爵のクーデターで滅んだ。私の父、前シャンディア国王も権力闘争に敗れ貴族たちの傀儡となり、酒池肉林に溺れた暗君として兄王子たちと共にジューノ公の手により処刑された。
私は当時10歳。
王女に王位継承権は無いが、王族最後の生き残りとして次期国王を産む権威は持っている。私はクーデター政権の権力の正当性の都合で、万が一のためにと地下牢に幽閉されて命を奪われなかった。
紆余曲折の末シャンディア国はその後シリウス様の祖国、ここナザレア帝国に戦うことなく併合され、エスターラント王家で唯一生き残った私は廃嫡を受け入れることと引き換えにこの国に保護されたのだ。
「アリア、これを見ろ」
シリウス様が執務中に後ろに控えていた私に書類を見せてきた。ふわりと漂ってきた彼の匂いに思わず胸がドキッとする。私は動揺する心を無視して手元の紙を覗き込んだ。内容は自身の治めているフェルタニア公爵領の交易収益の明細書のようだ。
フェルタニアはナザレア帝国最大の港がある国の経済と文化の心臓とも言える領地である。代々皇族の皇子がこの地を治めるフェルタニア公爵の爵位を一時的に与えられ、日々膨大な量の報告書や明細書と格闘しながら実務を身に着け成長していくのだ。数年前まではシリウス様の兄君ルキウス第一皇子殿下も、病弱なお体を引き摺ってフェルタニア公爵領を治めていらした。
側仕えとしての仕事にはこの領地経営の補佐も含まれている。シリウス様の成長を間近で支えることが出来るこの役目は、私にとって、最もやりがいのある大好きな仕事だ。次世代を担う優秀な皇子の力になれるのだから、こうして高揚感に心臓が高鳴るのは仕方が無い。
……互いの肩が触れ合うほどの距離で書類を覗き込んでいるからでは断じて無い。
「……今月のロフォース共和国の商人たちが持ち込む反物の平均価格が随分と安いですわね。廉価製品という訳ではございませんよね?」
「実物はまだ宮殿まで届いていないが部下の鑑定では我が国の物と遜色ない品質だそうだ。先月の明細書ではそのような情報はなかったはずだが……」
毎日何十隻もの商船が訪れるフェルタニア港は、各国の経済や産業の動きを知る重要な情報源である。今回の明細書からは、海を隔てた隣国の島国であるロフォース共和国の繊維産業の変化の兆候と思しき情報が見て取れた。
私はふと、昨日整理していた執務室左手の書類棚で見かけたある冊子の事を思い出した。シリウス様に一度断ってその書類を探しに書類棚まで足を運ぶ。側に控えている時に感じる彼の微かな体温をほんの少しだけ恋しく思ってしまうのは、まだ肌寒い季節だからだ。
……本当、女々しい自分が嫌になる。
「殿下、こちらもご参照くださいませ」
「これは……母上の御用商会の商品型録か?」
「はい。皇后様が贔屓になさっているこのロフォース共和国の政商は近年我が国の絹糸の取引を停止しております。代わりに扱っているのが自国産の物のようですが────」
「……反物はあまり我が国の物と価格に差がないな。これは一体……」
「共和国に我が国に匹敵する養蚕技術があるという話は一切伝わっておりません。しかし先ほどの反物の価格変化のことを踏まえますと……絹糸だけでなく彼の国の繊維産業そのものに何か大きな変化が生じた可能性がございます」
「……其方はシャンディア出身ゆえ美容や服飾に関して詳しかったな。何かその繊維産業の変化とやらに心当たりは無いか?」
旧シャンディア王国領を治めてきた我がエスターラント一門は代々美彦美姫が多く、婚姻外交と揶揄される政略結婚を繰り返すことで小さなシャンディア王国領を治め守ってきた。
女を他国に嫁がせることで国を守ってきたエスターラント一門は、その女の価値を高めるために高い美容・服飾技術を有していた。『匠爵』と呼ばれる独自の爵位を有し、国内外の優秀な職人を貴族に引き立て技術の向上を図るなど、国を挙げて姫たちを美しい化粧品や衣装、装飾品で飾り立てていたのだ。
そんなエスターラントの姫の一人であった私も当然、匠爵位を持つ職人たちに侮られないようにと王室教育係に最低限の知識を叩き込まれている。
「そうですね……」
「どんな些細なことでも構わん。下らん噂話でもよい」
シリウス様の期待に満ちた視線に晒されて、また頬が熱を持つ。こんな小さなことに一々乱される自分の心の弱さに内心溜息を吐きながら、悟られないように可能な限りそっけなく、ふいっと顔を逸らした。彼の疑問に答えるため手の中の書類にもう一度目を通す。描かれているのはロフォース共和国で織られた絹織物の絵様だ。どれも前衛的でかなり印象に残る独特な意匠の物ばかり。
ふと、その冊子に描かれている全ての意匠にある共通点があることに気付く。
これはもしや……
「……これらの布の意匠はどれも質の良い糸でなくては織りの粗が目立ってしまうものばかりで、織り師ではなく糸紡ぎ師の高い技術が必要な絵柄のようです。単純な幾何学模様を多用されてますし、織り師にとっては比較的簡単な作業なのではないでしょうか」
「……“簡単”というのはその分早く、大量に生産出来るという訳だな?」
「おっしゃるとおりかと。……ただこの意匠を実現するための高品質の糸を大量に準備するのはシャンディアの誇る匠爵たちでも難しいでしょう。ロフォース共和国がそれほどの名匠を有していたとは9年前の匠爵たちの噂にはございませんでしたし……」
「……つまり共和国の糸紡ぎ職人に何か秘密があると申すのだな?」
「はい、おそらくは」
考えられるのは新型の糸紡ぎ機の発明だ。幼いころ、シャンディアで新型の機織機を開発したある職人がお父様――――亡き国王陛下から匠爵位を与えられ、そのことを随分と教育係が話題にしていたのを微かに覚えている。
あの時のように新型の機械がロフォース共和国で開発されていたとしても不思議ではない。
ライバル国の技術革新。
……どうやら新たな面倒事のようだ。