時間よ。止まりたまえ。
「そしてルーシー・ホァンという人間は、怪盗としても恐ろしい才能を持つ」
「そんなこと知ってるやい」
パンサーは紅茶の香りを楽しみながら、一口だけティーカップに口を付ける。
「あんたたちが知らない能力があるとしたら?」
「どんなだよ」
「あいつはね、獲物は何年掛かっても追い詰めるらしいよ。どうする?」
そんなプレッシャー、ぼくには耐えきれない。この場でカタをつけておきたいものである。
「例えば他人に擬態することだとか」
ぼくと椎名さんは顔を見合わせる。一度椎名さんから訊いたことがある。
「ねえ、椎名さん。椎名さんはさあ、いつからこの桃源町にいたんですか?」
「マコトに置いて行かれたからな。お見舞いに行ったのが初顔合わせだ」
ああ、そういうことか。
「ここを出たら、少し別行動しましょう。マリーさんと一緒に帰ってくれますか?」
「ああ、でもその前に、馬場の野郎探すよ。パンサーあの野郎は?」
「さあねえ。でも、あいつのことだから、今もどこかからあたしたちのことを見ているかもね」
そう言って窓の外を見やる。
「防弾ガラスだけど、あいつのライフルなら突き破るかな」
馬場政臣、人類最悪。ある意味最も敵に回したくない異名である。
しかし待てども暮らせども、馬場が襲撃してくることなどなかった。
☆ ☆ ☆
結局この一件は、ぼくらの完全敗北で締めくくられた。能美は行方不明。人類最悪の馬場も行方不明。幼馴染である深津スズも行方不明。コインパーキングの料金はすんごい金額。
唯一の戦利品は紫陽花を模った髪飾り。
負け戦の後、ぼくはうんざりしながら愛車のハンドルを握る。
ぼくの隣で鼻歌を歌う椎名さん。勿論彼女は、椎名さんであって、椎名さんではない。
「結局よく解らないまま終わっちゃったな。情報局裏切るなんて夢にも思わなかったよ」
「結局スズは、あの後、最後まで会えませんでした」
「忙しかったんだろうよ」
「そりゃ忙しかっただろうさ」
きっと能美を殺害していたのだから。
あくまで憶測に過ぎないが、今頃能美は魚のエサになっているに違いない。もちろん椎名さんは、その間ぼくとホテルホールインワンでマダム・パンサーと交戦していた。やったのは、椎名さんではなく、ぼくの隣で鼻歌を歌っている女である。
「しかし、性格悪いとこまで椎名さんにそっくり」
「はて、なんのことやら」
すっとぼけるので、それ以上追求はしない。これもきっと惚れた弱みである。
「おっ、海が観えてきた」
能美は今頃コンクリートに詰められ、この海のどこかに沈んでいるのであろうか? ぼくは窓を開ける。潮の匂いがする。帰ったら椎名さんと海にでも遊びに行こう。あの幼児体型にはスクール水着がさぞかし似合うであろう。
ぼくはダッシュボードから戦利品の髪飾りを取り出し、窓から海に放り投げた。
「ポイ捨てはだめだって」
「また困ったことがあれば、声かけろよな。いつでも助けてやるから」
もう一度言おう。
この物語は深津スズことルーシー・ホァンが能美を殺害するという、ぼくにとっての完全敗北で幕を閉じた。最悪の結末で幕を降ろした。
スズが手を汚さなくても、笑って暮らせるような未来がどこかにあったはずだ。暮れ泥む夕日が、右隣りのオーシャンビューをオレンジに染めていた。
「もしも助けてくれって普通に言ってくれてたのなら」
「まこちゃんに呪われた運命を背負わせたくはないの」
この世界も物語も全部嘘っぱちで、全てが馬鹿らしく思えた。
それにしてもよくぞ幼児体型まで真似たものである。どうやっているのか、教えて欲しいぐらいだ。
「神様はね、分け隔てなく我々に選択肢を与えるの。それに間違えた私たちは、もう流れに沿うしかないんだ。ねえねえまこちゃん」
「その顔でまこちゃんって言うなよ。最後まで嘘突き通せよ」
「もしかしたらさ、もう二度と交わることないかもしれないね。今回のお礼しなくちゃ。何がいい? 情報局から解放される自由? 私ね、まこちゃんのことなんでも知ってるよ。自由に出来るよ」
「へん、ぼくも男だから女の手助けなんていらないね」
「あ、委員長にそんな口聞いてもいいんだ」
「そういえば委員長だったな。昔のまんまブスだ。でもさ、ぼくの好きな鼻筋のままでよかった。次は素顔で会おう」
「嬉しいこと言うね。すっぴんはブスだよ。それに私たちに次なんてあるのかな。マオラン覚えてる? そうそう大陸一のガンマンの。あいつホァンを抜けた私を狙っているのさ。ストーカーってやつ? モテる女はつらいね」
「ぼくさ、日本にいるときスズのことさ、ずっと……」
「シャラップ。まこちゃんはあのクソビッチに取られちゃった。ヤキモチだったんだ。あの時まこちゃんに絡んだの。本当に目的とは関係ないの」
「ああ、ぼくはシャロンと一緒になりたい。約束したんだ」
「振られちゃったなー。ああ、どっかのいい男が慰めてくれないかなー」
お喋りは続く。この車を一歩でたら、もうスズと会うことはなくなるんた。そう思った。そう悟った。なのに高速道路は、ちっとも渋滞なんかせず、ぼくらの身体を新須賀町へ近づけていく。
どうか、時間よ。止まりたまえ。




