二歩一撃
椎名さんは立ち上がらないまま、相手の腕や足を的確に打ち抜き、黒服たちはばたばたと階段を転げ落ちていく。
振り返るパンサー。
「……どうやら氏家がやられたってのも、満更嘘ではないようだね。そっちの赤髪の子、こっち側の匂いがするよ」
ゴリさんは立ち上がらないまま、相手の腕や足を的確に打ち抜き、黒服たちはばたばたと階段を転げ落ちていく。
振り返るスネーク。
「……どうやらアラスがやられたってのも、満更嘘ではないようだね。シノ。久しぶりだね。すっかり、こっち側の匂いがするよ」
振り向きざま、パンサーの袖口から、何かが転がる。
「マコト! 逃げろ。手榴弾だ」
むーりー、もう間に合わない。一秒にも満たない待避時間。合計三つの手榴弾は瞬く間に大爆発を起こす。体中が粉々になるほどの衝撃はぼくの鼓膜の片方を突き破る。
耳から流れる血液、割れた伊達眼鏡。ぼくの被害はせいぜいそんなところだ。
しかし椎名さんは、ぼくをその小さな背中で庇い、筋肉質な背中は黒焦げになっていた。
「ちょ、冗談ですよね。椎名さん。しっかりしてください。ぼく一人残したって、何も解決しないって」
返事はない。彼女の呼吸は今にも止まりそうだ。
「あんた。椎名さんとは旧知の仲じゃないのかよ」
「あたしの前に立ち塞がる物は全て壊す。例え我が子同然の弟子でもね」
あーあー、また眼鏡が割れてしまった。高かったのに。
「一応言っとくけどさ……」
パンサーは突撃銃をぼくに向ける。
「なんだい? あたしゃあんたたちを殺したくなかったんだ。なのにあんたたちが」
「知ったことかよ。ああ、もう。まただ! ぼく一人でくれば良かったよ。初めからぼく一人で来れば誰も傷つかずに済んだんだ。中東でぼくは何を学んだんだ」
向けられた銃。ぼくは体を揺らし、抜足、差足、忍び足とばかりにパンサーの視界から消えた。そして、その銃を……掠め取った。
地球上最強の生物、遠藤清虎。ぼくが真似れたのは、その歩法だけである。二歩一撃の擦り足は、瞬時に相手との間合いを詰め、死角に潜り込む。これを縮地法なんて名で呼ぶ人だっている。死角を盗むのは呼吸するのと同じことだった。
「なっ、銃が消えた。あんた今何をした」
「呼吸をしただけさ。パンサー。あんただって隠れるのが仕事だろ?」
氏家にしてやられた殺し屋の業。そんな物が存在するのならば、ぼくたち諜報員は諜報員の魔法で対抗するまで。ぼくらの仕事は隠れることと、騙すことにある。
ぼくには、これしかないのだから。
「命は助けてやる。頼むからこの引き金を引いてしまう前に、どこかに消えてくれないか?」
「そんなわけにはいかないよ。こちらだって、遊びでやってるんじゃないんだ」
自らの銃を突き付けられるパンサーは、ぼくを睨む。
「そっか、じゃあさよならだ」
人を殺める覚悟をするのは、思ってた以上に簡単だった。ぼくは銃が下手くそだ。だがこんなゼロ距離ならば外すことは、まずない。
ぼくの指が勝手にトリガーを引く。否、引こうとした、その手を、その腕を、掴んで止めてくれたのは、他の誰でもなく椎名さんだった。
「あたしはこれくらい大丈夫だから、そんな物騒なのは止せよ」
もう椎名さんは助からないと思っていたが、なんと椎名さんの背中の火傷は物凄いスピードで再生しようとしていた。
「シノは文字通り化け物だからね。その程度で死ぬタマじゃないよ」
「しししし、椎名さん?」
「赤の遺伝子……っていうんだ。ごめん。気持ち悪いだろ。化け物なんだ」
違う。ばかやろう。ぼくの本能は赴くまま椎名さんを両腕で抱きしめた。
「もうダメだと思った。なんでもいい。椎名さんが無事で良かった」
「いてて、なんだよ。傷口痛いよ。ばか。でも……ありがと」
「お願いだから二人とも、あたしの前でいちゃいちゃするの辞めてくれないかい?」
☆ ☆ ☆
その実、椎名さんはノースリーブに大穴を開けて、それでもケロッとしているのがさすがである。
「パンサー。兎に角、あんたの負けだ。いろいろと教えてくれないか?」
「……確かにあたしの負けだよ。でもあんたたちは既にルーシー・ホァンに負けている」
パンサーはため息を吐きだしながら、ぼくたちを、以前、自分が寝泊まりしていた部屋へ連れていく。ぼくが打ち落としたシャンデリアは、綺麗に直っていた。
パンサーはぼくと椎名さんに紅茶を淹れて、テーブルに置き、差し出してくる。
「なんだい? その顔は。毒なんて入れちゃいないよ」
「どういう風の吹き回しなんだ?」
パンサーは咳ばらいをひとつ。
「つまりはあたしも、あんたたちも、我が妹ルーシー・ホァンに躍らされてたってわけさ」
「どういうことだ」
「そもそも、ホァン一族の掟を破り、一族に狙われていたあたしを、能美にめぐり会わせたのは、他ならぬルーシーだよ」
この時点でスズの話と食い違う。そもそもパンサーはロシアのスパイの筈。つまり彼女はトリプルクロス。
「ルーシーは能美に弱みを握られていた。自ら能美の殺害を目論んでいたものの、能美の傍らには馬場と氏家がいた。そこで唯一身内でこいつらに対抗出来そうなあたしを引き入れたんだ」
「弱みって?」
「ルーシーはホァン一族の命令でスパイとして政治家三好宗一郎に近付いた。愛人として。しかし彼女は三好のことを愛してしまった」
そう言いながら、引き出しから例の髪飾りを取り出すスネーク。
「ルーシーが三好に懐く以前、スパイとしてホァン一族の大頭目に流した情報を買い取った能美は、それをエサに三好から百億もの大金を脅しとり、さらにはルーシーの身も心もめちゃくちゃにした」
ショックだった。汚い汚職政治家やヤクザ崩れの能美なんかに抱かれるスズを想像しただけで吐き気がした。




