劇場裏廃バス
全くもって客が来なかったのは長旅に疲れたぼくと、那覇空港までぼくを迎えに来ていた椎名さんには不幸中の幸いだった。
仕事の説明を受けるのは苦痛ではなかった。ぼくは二年もあの地獄にいたのだ。その二年は過酷なだけでなく孤独でもあった。
「しかしよく椎名さんにぼくをこっちに引っ張る権限がありましたね」
「蛇の道はエルダードラゴンってな。パンサーを相手するならあんたが適任だしな」
なんだ蛇の道はエルダードラゴンって。相変わらず意味わかんない。まあ、黙って訊く。
「マダムパンサーのことっすか。久々にその名前聞きました。今日本にいるんですか?」
「そう。そしてこの作戦は大詰めだよ。詰み将棋みたいなもんさ。だけれど駒が足りなくてね。そこであんたを呼んだってわけさ」
どうせ捨て駒なんだろうな。
ぼくは椎名さんがいるにもかかわらず着替える。時は金なりである。
椎名さんは顔だけ背け冷静な振りをするが耳が真っ赤だ。可愛いとこあるんだよなぁ。この人。
「あたしの息の掛かったエージェントが今パンサーのわりかし側にいる。来週会う予定だ。一気に畳むよ」
「それよりマリーさん、なんでここにいるんすか」
「それを詳しく説明したら後戻りできないよ」
まるで訊かなかったら、後戻りしてもいいみたいな言い草である。
「あ、着替え終わりました。部屋に案内してください」
「あんたの部屋? それならこのビルの下にあっただろ」
はっ? ビルの下に何があるかなんて覚えていないが、ビルの下にあると表現されること自体、それが建物ではないとわかる。
「廃棄してあったバスあるっしょ。あそこ情報局の土地なんだよ。心配すんな。ああ見えてちゃんとシャワーとトイレにキッチンまで付いてる」
☆ ☆ ☆
日本に着いて二日目。沖縄で一泊してきたので本土に上陸してから初めての朝を迎えるぼく。
二層式の洗濯機のわんぱくな怪音で目覚める午前九時。劇場裏にある廃棄されたバスの中、新たな自分の定位置であるソファーから重たい身体を起こす。
鼻歌を歌いながら、ぼくの分まで朝食を用意しているエプロン姿の椎名さんが気持ち悪い。
「ほら、朝だぞ。マコト! いつまで寝てる気だ?」
スクランブルエッグとトースト。どこから持ってきたのか古ぼけたラジカセから、爆音で鳴らすエルトンジョンがやかましい。
廃棄されたバスが自宅ってだけでも死にたくなるのに、そこはぼくが来るまで椎名さんが一人で使っていた。つまりこれからは彼女と一つ屋根の下で暮らすわけだ。人生初の異性との同棲。全然嬉しくないや。
「なんか新婚さんみたいだな」
「やかましいわ」
ケースオフィサーになっていろんな修羅場を潜り抜けてきたが、アダルトショップの店員でホームレスになったのは初めてのことである。しかし我ら誇り高き住所不定。そんじょそこらのホームレスと一緒にしてもらっては困る。ぼくも椎名さんもユナイテッドステイツから派遣されたれっきとした誇り高き工作員なのだから。
日本はいつからこんな大人になれりきれなかったアダルトチルドレンを囲うネバーランドになったのか。
そしてそんなダメな大人の中でも、最も頼りになるピーターパンが、今現在ぼくの正面でトーストを頬張る椎名さんなのである。
「ぼけっとしてないで早く食って着がえろよ。働かざる者食うべからず。お仕事お仕事」
「ああ、もう。ある意味中東よりも過酷な環境だ」
「朝からなにぶつぶついってるんだ」
椎名さんが急かすから、朝食を平らげ、渋々ところどころステッチのほつれたジーンズを履く。引き出しから取り出した身の丈に合わないエックスエルのティーシャツには、水鳥の翼がプリントされていて、それがぼくの自由への願望を象徴しているかのようだった。
「相変わらずセンスわりーな」
軽口を叩いている内、次第に眠気が醒めてくる。
我らが城、廃バスの入口に乱暴に置かれた靴箱から、スニーカーを取り出し、靴紐を結ぶ。そして扉を開ける。
劇場の斜め向かいにある時計塔ビルと隣の雑居ビルの間から、太陽の光が差し込む。今日はよく晴れた日だった。
「まてよ。洗濯物干してからいくぞ」
「へいへい」
ぼくはそう言いながらも、伊達眼鏡を掛けて椎名さんを待つ。
「いや手伝えって」
顔を赤くしながらぼくのボクサーパンツを干している姿は、とても滑稽だ。
「次回からは、ちゃんとネットに入れて洗ってくださいね」
「いい加減にしろよ」




