間章 椎名志乃1
マコトのフライトを見送ったあたしだって自分の任地に行かなくてはならなかった。
その土地に染み付いた匂いと言うものがどこにでも必ずある。上海浦東国際空港を出て直ぐに感じたのは、島国生まれのあたしが感じたことのない、古来より発展し続ける大陸の強烈な匂いだった。
「ディーゼルエンジンの匂いかね?」
「ああ、それもあるかもね。でも風土が違えば、空気も変わる。マリーが日本に初めて行った時は、何だかじめじめカビ臭く感じたし、アメリカは乾燥してホコリの匂いがした」
ツアーコンダクターのマリーゴールドは連邦捜査官のくせにこんなところにまでいる。意味がわからない。
「インターポールにでも転職したのかい?」
「何言ってるの? よくわかんない。マリーは親友のあんたと旅行に来ただけだよ」
シニカルという言葉を具現化したような表情か鼻につくけれども、いちいち反応したのでは相手を喜ばせてしまう。彼女は身分を隠しているのかは定かではないが、今はエージェントとしてここにいる。
空港を出てメガロポリスの玄関口を見渡すあたしは唸る。東洋のパリとはよく言った物で、天を突く高層ビル、幾重にも重なる高速道路の他に、場違いな西洋的建造物も多く残されていた。
☆ ☆ ☆
過ごすこと数日。女二人色気のない生活にも少しだけ慣れる。そんなある日。
「ノンホ、ノンホー」
あたしたちは街に紛れる偽装工作のため、このため息のでるような大都会のど真ん中で、大八車を引いて、露店を開いていた。
「なんだよ。マリー。ゴリラにでもなっちまったのかよ。頭大丈夫か?」
「こっちの言葉で『こんにちは』だよ。ミス椎名」
「ミス椎名は辞めろよ。志乃でいいよ。それに『こんにちは』は、『にーはお』だろ?」
「頭が悪いのがばれるから、ミス椎名。あなたはあんま喋らないほうがいい」
「それにしても売れねーな。マリー、あんたの選んだ商材が悪いんじゃないか?」
「肉体労働者が頭脳労働者に意見するわけ? フルーツの王様だよ。マリーみたいな女王にこそ相応しい商材だとおもうのだけれど」
大八車を引いて露店でさばいているのは、悪臭放つドリアン。まじで勘弁してほしい。これだから大使館のバックアップがないノンオフィシャルカバーは辛い。
「もう臭せえ。辞めとこうぜ」
「晩御飯が食べたかったら、真面目に働くといいよ。これも任務だよ」
「経費なら会社から支給されるっしょ」
「ミス椎名。それでもあなたスパイなの? これだから軍人出のエリートは。基本全ての物資は現地調達が基本だよ」
あたしたちはその後も、悪臭を漂わせながら、何箇所もリースした大八車で場所を変えるが、ドリアンが売れることはなかった。
「喜んで。夕食はドリアンだよ」
「勘弁してください」
摩天楼に囲まれる夕暮れ、衣服に染み付いた悪臭が嫌で着替える。
「アメリカ国民の血税で買ったドリアンだよ。真の愛国者なら、残さずに食べるべき」
「これをチョイスした責任を人になするんじゃない」
舌打ちするマリーは舌を出す。全然可愛くない。
あたしは今回の任務を大恩人である合衆国から言い渡された。
あたしの生まれはドイツ。アウシュビッツの地下研究所の試験管から生まれた。
その昔、第二次大戦のころ、大量のユダヤ人たちが犠牲になった末、生まれた悪魔の遺伝子。『赤の遺伝子』と呼ばれる。あたしの髪は本来赤茶色をしている。
極秘に地下で地獄の実験を繰り返す毎日を繰り返す、呪われたあたしたち『赤い子供たち』を連れ出してくれたのが、アメリカ合衆国の陸軍。
地獄から救われたその日から、あたしみたいな『赤い子供たち』は合衆国の奴隷となる。初めての任務は九歳の時。日本の義務教育を受けることであった。その時にもらった椎名志乃という名前を今でも使っている。
そして最新の任務は神田川家の末裔である神田川誠の観察、保護、見張りと、場合によっては暗殺だ。今はその愛しのダーリンと離れ離れになっているのである。
そう、あたしは最初からみんなを騙していた。
シャロンを、ミノルを、そしてマコトを。
「どうしたの? ぼーっとして」
ドリアンをたらふく食って、ご満悦なマリーは銃の整備を始める。
「べつに何でもねぇよ。それよりあたし手ぶらなんだけどさ、何か武器貸してくんね?」
マリーは親指で部屋の隅にあるトランクを指す。ふらふら立ち上がるあたしはそれを開ける。
「中古の中古で悪いけれども、AK-47。中国ライセンスじゃなく、れっきとしたロシア製だよ」
「ああ、悪くない。ロシア人は嫌いだが、カラシニコフはリスペクトしている偉人の一人だ」
シンプルな構造をした、このアサルトライフルは、世界で最も製造されている、信頼と実績の名銃である。




