いつだって清々しい気持ち
まさかのバトル回
男は咳ばらいを一つ入れ、少し高くなった岩に登る。
「ケースオフィサー候補諸君。ようこそスパイの聖地へ」
ぼくを蹴りあげた中年のおっさんは、ぼくたちを横二列に並ばせ、演説をし始めた。手に職でもなんて思ったこともあったが、ここが職業訓練所なら、ぼくは今とんでもない職を手に付けようとしているのであろう。
「俺様の名はドナルド・ダーウィン。この度は特別講師としてこのファームの奥底に呼ばれた。いいか、よく聞け。ここでは俺様がルールだ」
まるで怒鳴り付けるようなダーウィンの言葉。
「あんたなんかに従うものか。なんだこのマコトへの仕打ちは! なぜ私たちに称賛の言葉は無いのだ」
一人の女がダーウィンに突っ掛かる。
神秘的な澄んだ青い瞳、光るブロンドの髪、滑らかな白い肌、薄ピンクの唇、シャロン・オールグリーンはぼくとダーウィンの間に立った。女の子に守られて情けない気持ちと、みぞおちを蹴られた苦しさでぼくは呼吸することも、ままならない。
自分は理不尽な癖に、理不尽なことが大嫌いな彼女。たった数日間だが共に過ごし、真っ直ぐな心根を持つ彼女のことはよくわかっていた。
ぼくの天敵はもがき苦しむぼくを庇い、ダーウィンを睨みつける。
そしてきっといつもみたく口より先に手が出るのであろう。
若干の溜めと同時に放たれる光速の拳。目で追うことは困難なそれは、日頃ぼくが食らっているものの数倍のスピードだった。彼女もケースオフィサー候補の一人なのだ。ただ者であるわけがない。
誰もがダーウィンという太ったおっさんが倒れるのを予想したであろう。それくらいリズミカルでテンポの良い一撃だ。しかし中年はそれを紙一重で躱す。
そしてその体型では考えられないほど、軽やかで俊敏な腰の振りと共に、クロスカウンターを一発。
顔面に一撃をもらい鼻血を垂らすシャロン。
シャロンが女であることを微塵も意識しない、顔面への打撃が一発、二発、三発。更に倒れた彼女に馬乗りになり、何度も何度も殴りつける。何度も何度も何度も何度も。
それを見ていたマリーさんは両手で目を塞ぐ。ミノルは動けない。
その場にいたほとんどの人間が青ざめる中、椎名さんがいてもたってもいられなくなって、止めに入ろうとするがぼくは腕で制止する。
それは昔昔の話、ぼくは幼馴染に何回もぼこぼこにされた。いつも悪いのはぼくで、正しいのは彼女だった。
なぜあの時ぼくは動かなかったのであろう。もう後悔はしたくはない。
「ぼくが行かなきゃ主人公が廃るんですよ」
女が苦手なぼくでもたったの一度だけ、異性に恋心を抱いたことがある。なぜだかあの頃のスズとシャロンがダブって見えた。
それは昔昔の話。
威勢よくダーウィンの前に踊り出たのはいいが、勝算は少なかった。
「また生意気そうなのがいやがる。調教し甲斐がある」
気味の悪い薄笑いを浮かべるダーウィンは、腰から特殊警棒を取り出す。
あ、タイム、武器使うんすか? やっぱおとなしく引っ込んでいようかな? 椎名さん代わってくれます? なんて思ったが今更言葉にはできない。だって恥ずかしいもの。
ぼくは遠藤清虎から空手を習っていたが、剣道三倍段という言葉がある。
得物を持った相手に対してこちらが勝つには、相手の三倍の段数が必要だってことだ。
シャロンの拳を軽やかにかわした、ダーウィンは間違いなくただの中年ではない。でも、だからといって引き下がるわけにはいかなかった。勝てる方法を何度も計算してみる物の、勝算がないことなんて、重々承知している。普段のぼくならこんな相手に喧嘩を売ることはない。
一つ賭けになるが、ダーウィンを倒す方法がある。空手の真髄で一撃必殺という言葉がある。
わかっている。確かに清虎直伝の切り裂くの拳は、岩をも砕く。恐らく一撃でダーウィンを沈めることができるであろう。
しかしだ。こんな賭けを選択する時点で精神的に相手に呑み込まれている証拠なのだ。この拳は、相手に当たることなく不発に終わることは間違いないのだ。
わかっている。わかっているんだ。
だからぼくは自分の優秀な脳みそから狂い鳴る警鐘に耳を塞いだ。
その突き出した拳が相手に届かないことなんて、最初からわかっていたんだ。だから後悔なんてしない。
特殊警棒を振るうダーウィンの一撃。頭蓋骨から鈍くて嫌な音がした。
これでぼくは死ぬのかもしれない。脳みそを損傷して優秀な頭脳を失うのかもしれない。なのに意識を失う時は、いつだって清々しい気持ちだったりもする。
☆ ☆ ☆
目を覚ませば見慣れない部屋のベッドで眠っていた。心地よい風が真っ白のカーテンを揺らしている。
「やっと目を覚ました」
心配そうな顔のマリーさんがベッドの隣のパイプ椅子から身を乗り出し、ぼくの顔を覗き込む。
「ここは?」
「宿泊施設の医務室だよ」
なぜ自分が医務室にいるのか? ぼくは頭痛のする頭で記憶の海を辿る。
ダーウィンとの一戦を思い出したぼくは、錯乱したい衝動を無理矢理押さえ付け、シャロンの安否を訊いた。
「オールグリーンはカーテンで仕切られた隣のベッドにいるよ。マコトの傷は大したことないって。でもオールグリーンは……」
マリーさんの言葉にいてもたってもいられなくなって、カーテンを開け隣のベッドを覗こうとするぼく。
「お願いマコト、どうか見ないでほしい」
凄く細く弱い消えそうな声が隣から聞こえる。
「シャロン、大丈夫なのか?」
「問題ないよ。ただ顔を潰されただけ」
マリーの説明によると、シャロンは顔面の骨を所々粉砕骨折しているらしい。とても人に見せられる状態ではないらしい。
暫くすると、この施設の担当医師と名乗る女医が室内に入ってくる。
「きみがマコトね。気分はどう?」
「若干吐き気が」
「脳波に異常は無かったから、まあ、安心していいと思う」
白衣を身に纏った女医は、椅子に腰掛けすの綺麗な足を組む。
「シャロンの顔は」
「あはは、顔は女の命だからね、明日ヘリでホスピタルに飛んで貰う。当分入院だね」
ワシントンまで行けば美容整形外科もあるのだろう。胸とかもついでに大きくしてもらえるのであろうか。
「さあさあ、この娘を安静にしてあげて。あんたたちは、部屋へ帰る」
そういって医務室を追い出されるぼくとマリーさん。
ぼくはあのおっさんが許せないと思うと同時に、ここに来る前に訊いたフォースター氏の言葉を思い出した。
『恐らく彼女はこのキャンプで殺される』
ほくは軽く頭を振る。まさかね。
初めて歩く見慣れない広いフロア。宿泊施設の一階はロビーになっていて思ったよりも広い。暫し開放感に浸る。
売店を見つけ喉が渇いたぼくたちは、水でも買おうと中に入るが、財布が無いのに気づく。
「マリーさん、そういえばぼくたちの荷物は?」
「イスラムの使徒って子供たちが運んでくれたはずだけど」




