間章 ルーシー・ホァン2
揺れ動く私。見透かしたような彼。きっと私の心で遊んでいるのだ。弄んでいるのだ。
私は彼が昔から嫌いだ。目的を達成することよりも、自分が楽しむことを優先する。そんな彼を知っているからわかる。彼は恐らく本気だ。
「おっとこれじゃ人質にならないかな? 心の醜い女だ」
「あんたこそ心の醜い男よ。ターゲットの名前は?」
彼は意外そうな顔をした。これも演技だ。まだ私が揺れていることも、彼はとっくに見抜いて見透かしている。
「ホァン一族頭目の一人。ジャッキー・ホァン」
「ねぇ、私に仲間を殺せと? ホァンを裏切れと?」
「とっくの昔に裏切って今に至るのだろう? あんたはいつだってそういう女さ」
ぐぅの音もでない。悔しいけれども。
「まあ、よく考えてくれ。また連絡する。これは俺のメールアドレスだ。足がつかない捨てアドだがな」
彼は銃を下ろすと土足で人の部屋を歩き、堂々と玄関から出ていく。
「おっと、言い忘れてた。マオランから訊いたのだが、寄り道していたらしいな。街中でどんぱちするなんてあんたらしくない」
☆ ☆ ☆
土曜日。週末の込み合うレストランの駐車場。その男は私の前に立ち塞がる。
望月 重幸。我が最愛の人。三好 宗一郎の秘書兼ボディーガード。
「ルーシー嬢。今、大臣はご婦人とぼっちゃんと一緒です。お引き取りを」
勿論ただの政治秘書ではない。敵の多い三好を影ながらガードする、闇の住人でもある。
「三下は引っ込んでて。ここを通して頂戴」
「仕方ありませんね」
望月は私が闇の住人であることを重々承知している。なので油断なんかはしてくれない。
ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩める望月。拳をぱきぱきと鳴らす。
彼はこんな目立つ場所でやり合う気だ。常識人の彼が、そんな非常識に及ぶほど、私は今現在重大なタブーを犯そうとしている。
私は隠しもっていたナイフを投げ付ける。
いとも容易く弾かれるナイフ。だけれど甘い。二枚目のナイフが肩口に突き刺さる。一枚目とほぼ同時、同じ軌道で投げたナイフ。一枚目はダミー。二枚目を隠していたのだ。
顔をしかめる望月。大男の望月ならこれくらいで死んだりしないと思うから、安心して傷つけられる。
すかさずパンプスを脱ぎ捨て、素足になる私。距離を詰め、望月の顎先を蹴る。蹴る。蹴る。
三発目はガードされたけれど、彼は二発の蹴りで軽く脳震盪を起こしている。
そしてとどめ。小さな頃何回も男子を沈めてきた私の拳。警官を、軍人を、犯罪者を、数多の立ち塞がる障害を薙ぎ払ってきた必殺の拳。
それをみぞおちに受け、泡を吹いて気絶する望月。女を舐めるな!
気絶した望月を引きずって、三好の車のトランクにほうり込む。
そして入店。
庶民では入ることも許されないような、高級レストラン。ピアノが生演奏される店内。
「お一人さまですか? ご予約は?」
「予約はしてないわ。なんとかならないかしら?」
「ふむ。なんとか席をご用意できるか支配人に訊いてまいります」
ウェイターが離れたのを見計らって私は店内に乗り込む。颯爽と店内の風を切る。早歩きで周囲を見渡す。
数人のマダムが座るテーブルから、通りがかりざま、紙ナプキンをばれないように拝借。だってわたくし、怪盗ですもの。ブラウスに飛んだ望月の返り血を拭う。
私は辺りを見渡す。いた! 三好のテーブル。窓際のとても良い席だ。夫人はとても優しそうで綺麗な人。子供は小学校高学年ってところだ。奥さんに似て知的で賢そうな顔立ちだ。くりんくりんした猫っ毛が特徴的である。
そして私が観たことのないような、優しい笑顔の三好。一度でいいから、そんな顔、私にも向けて欲しいものだ。
苦しくなって化粧室に逃げ込む私。個室に篭って、バッグを開ける。
泣くな。ルーシー・ホァン。女は化粧を変えれば、その心まで切り替えられるじゃないか。まあ、私の場合はちょ-っと特殊ではあるのだけれども。
お化粧を済ませて鏡の前に立つ。
うむ。完璧にどこからどう観ても望月稔である。
私は一人の怪盗として、美貌、戦闘、頭脳、技術、どれを取っても一級品と自負している。けれども最もその突出した才能があったのは、変装能力、いや変身と言っても過言ではない。
現に以前ハウスオブホラーに単身男性として潜入したことがある。半年以上も訓練された兵士たちを騙し抜いてきたのだ。
変装したまま化粧室を出る。出口ですれ違うマダムがびっくりしているが、かまっているほどヒマではない。
緊張しながら三好のテーブルに近づく私。
「んっ? どうかしたか? 望月」
間もなく初老に差し掛かる男は、ミディアムレアに焼かれた肉にフォークを突き立て、振り返ることなく言った。
「お食事中申し訳ありません。少しトラブルが発生しまして」
「そうか……すまんな佳代子、海人。少しだけ外へ行ってくる」
ナプキンで口を拭い、立ち上がる三好。私の後ろを辿り駐車場までくる。
白髪混じりの髪をかき上げ、「で、望月はどうした?」なんて見透かす三好。
「トランクの中よ」
「素っ裸にひん剥かれてか? 可哀相に」
ため息。咳ばらい。僅かな沈黙。私は次の言葉を待つ。
「どういう用件だ? こんなやり方、きみらしくもない」
「ある男が私に殺しを依頼してきた。断ろうと思ったけど人質がいるの」
誰だ? 私か? 面倒なのか、三好は口にせず目で語る。
「貴方の奥さんと子供よ」
三好は驚きもせず頷く。
「きみは優秀だ。これ以上私を不安にさせたりはしない」
「相手は手強いわ」
「私は心配などしない」
三好は煙草に火を点ける。政治家がこんなところで煙草だなんて、マナー違反もいいところだ。紫煙と共に漂うハイライトの匂い。私の好きな三好の匂い。
ああ、私はどうしようもないくらいに、彼のことを愛しているんだな。
「喫煙者には辛い時代だ」とだけ言い、それ以上は何も言わず、三好は店内へ戻っていく。
取り残された私は、やはり独りぼっちで、時折ネオンで照らされる深くなった夜の闇に溶け込んでいく。
どうか我に光りを。




