最愛の怪盗
「くそ! シャロンを返せよ」
こう見えて、ぼくは幼少の頃より空手師範に鍛えられた、ちょっとした武道の達人なのだが、この女の前では軽くあしらわれてしまう。
スリットの入った女のドレスは彼女の動きにあわせ、ひらひらと優雅に舞う。強い。格が違う。女の足技に翻弄され、気がつけば何度も床にキスをしていた。
しかしだ。負けてシャロンを連れ去られましたじゃ洒落にならない。こうなれば向こうの手に渡ってしまったシャロンを奪い返すのみに全力を注ぐまで。切れた唇を拭いまた立ち上がるぼく。
こちとら悪の秘密結社の諜報工作員(見習い)。戦闘では遅れをとったとしても、人を欺くという一点に置いては、負けるわけにはいかない。
「彼氏。命は粗末にしないほうがいいよ」
長い脚を活かした、女の蹴り。見切ることはできないので、両腕でガードする。生物学的に女性とは思えないパワー。単純な力では男が勝ると今の今まで思っていた。それは大きな間違いであった。
「これで終わり」
ぼくがガードすることを読んでいた女は、フォルスターのマグナムを抜いていた。そしてぼくの頭部目掛けて引き金を引く。
これで終わり。女はそう思ったはず。しかしぼくは彼女の視界から意図的に姿を消したのだ。
『人間の視覚情報とは脳に依存する割合が大きい。見えていると思う半分はただの空想の産物や経験による予測なのだ』
これは幼い頃、虐められっ子だったぼくを見兼ねた父が、無理矢理通わせた空手道場の師範、遠藤清虎の言葉である。
ちなみにこの他にも清虎は、『透明人間になりたい。女湯に真っ裸で忍び込みたい。寧ろ、透明でなくてもいい』や『働きたくない。働いて経済が潤い、国が潤う。俺はそれがいやだ』など、数々の名言を残す。この神田川誠史上ワーストスリーに入るダメ人間である。余談ではあるが、この三強には椎名さんもランクインしている。
「男神田川 誠、ど根性ぉぉぉ」
「……えっ?」
かつて人類最強の空手家と呼ばれた遠藤清虎に教わった高等技術である。
彼女の死角に入りこんだぼくは、さらに接近して……彼女のおっぱいを揉んだ。大事なことなのでもう一度言おう。おっぱいを揉んだのだ。
わしづかみと言えばいいのであろうか? その場にいた全員が凍りついた。白けた空気の片棒を担いだようで恐縮である。
「今だ。シャロン逃げるぞ」
「えっ? あ、うん。マコト……あんた最低」
命の恩人に向かって酷い言い草である。
未だ動揺を隠せない女をフロアに残して厨房に逃げる。
厨房にはチョウシと呼ばれた男がいた。チョウシはセミオートマチックの拳銃を横に構えこちらに発砲しながら突っ込んでくる。
「来来来来来来!」
ぼくはさりげなく女からチョッパってきた五十口径のマグナムでチョウシの爪先を撃った。見事小指の爪辺りに命中。
「嗚呼」「痛!」
絶叫するチョウシとぼく。
「やばいよ。なんて銃だ、これ。絶対に肩を脱臼したよシャロン」
このIMIと刻印の入った拳銃、なんと恐るべき威力。
「さっきから活躍してるのに格好悪いんだけれど」
しかし上手いこといったのは、ここまでだった。
裏口から逃亡しようと思っていたのだが、マオランが先回りしていた。肩を脱臼して戦闘することもできないぼく。
後ろからは、鬼の形相のリーダー格の女。まな板の上の豚肉を投げつけるがマオの銃弾で打ち落とされる。
「マオランは大陸一のガンマンよ。あまり怒らせないことね」
女がゆっくりぼくらに近づく。近づく。近づき過ぎる。その美しい顔が近づき過ぎる。整った鼻筋がとても魅力的である。
その甘い息がかかるくらいぼくに近づいた女は、ゆっくりぼくにキッスをする。ここだけの話だがファーストキッスである。しかもベロいれられた。
「意味わからん」
「あら、その気だったからあんなことしたんじゃなくて? この責任はどう取ってくれるのかしらね」
くすくす笑うものだから、それが冗談なのだとわかる。わかるのだが、彼女がやけに上機嫌なのも確かだ。
「彼氏、可愛いから見逃してあげる。どうせきっとまた巡り会うのだから、その時は敵同士じゃないといいね」
くるりと後ろを向き、撤収しようとする女。その後ろ姿はこれまた美しい物だった。
「おいおい。パーティーは始まったばかりだろ、ルーシー・ホァン。どこ行くつもりだ?」
せっかく見逃してくれるっていうのに、その後ろ髪を引くのは、いつも厄介事を運んでくる我らが椎名さんだ。
図った様なタイミングで椎名さんは、何処からともなく現れた。きっとずっと登場するのにカッコいいタイミングをどこかで図っていたのであろう。
「あらら、しのぷーじゃない。ハウスオブホラー以来ね。元気にしてた?」
「おいおい。同中みたいに話しかけるの止めてくれよな。ルーシー。盗賊のあんたがこんな所にいるなんて、どういった風の吹きまわしだ?」
「この二人がイチャイチャしててムカついただけよ」
会話だけ訊くと世間話をしている様だが、椎名さんはずっと銃をこのルーシー・ホァンと呼ばれた女に向けているし、そのルーシーの部下であるマオランも椎名さんに銃を向けている。
「本当についでなのよ。確かにそこの穢らわしいオールグリーン家の出来損ないは、とっとと始末してしまいたいのだけれど、わざわざアメリカまで遠路遥々きた目的は達成したの」
ルーシーと呼ばれた女は溜息を一つ、近くにあった椅子に腰掛ける。そして煙草を取り出しマオランに火を点けさせた。
「お嬢。時間が」
静かな口調で小男のマオランが女の耳元で言うのが僅かに聴こえた。「煩い。わかってるっつーの」と見かけに似合わず乱暴な言葉で返す女。
「しのぷー。なんであんたがラングレーにいて、そいつらと知り合いなのかは知らないのだけれど、こっちも手を引くからそっちも見逃してくれないかなー」
「何しにわざわざラングレーまできやがった」
「明日の朝、ホワイトハウスにある大統領PCに向け送信される大統領日報に添付される、とあるファイルの一つを盗みにきたの。内容は明かせないけれども」
という事はだ。こいつら中央情報局本部に忍び込んでいたわけか。




