本物のビフロンス
2016/04/21 改稿。
ビフロンス。
ミレニアム1世が生まれるよりも前に存在したという既に滅んだ魔物の名前。
炎を操る厄介な魔物で、その炎に包まれた者が、苦しみから逃れようとして味方に炎を振りまき、酷い被害をもたらすことも少なくなかったと伝承には残っている。そのことから、死人を炎で操るとも言われていたが、実際にはそれは迷信だったという。
そしてビフロンスとは、戦場での俺のアダ名でもある。
だが、これは元々俺のものではなかった。
ビフロンスの再来。そう呼ばれている内に、いつの間にか俺自身がビフロンスと呼ばれるようになった。
本物のビフロンスとはアイツのことだ。
数多のスケルトンを率いて、戦場を地獄に変え、その地獄を嬌声を上げて走り回る狂人。
女の笑い声が響くなら、戦いをやめ、すぐに逃げろ。
当時を知る人間から聞いた言葉だ。
時に戦場だけでなく、街や村を襲い人を殺す。自らの欲望を再優先とし、大戦中期に西方で最も恐れられていた女。
それがビフロンス。
レディ・カラミティ、ウイドウ・メーカー、デッドマンズ・ハンドとも呼ばれ、その本名は俺も知らず、誰にも知られていない。
大戦は終わる気配を見せず、新たな英雄や厄災とも呼ばれるべき殺戮者の登場とともに、やがて戦場でもどこの街でも、国でもその名前は聞かれなくなり、彼女は死んだのだと言われるようになった頃に俺が現れたために、俺がその名前で呼ばれるようになったのだ。
だが、俺だけは知っている。
アレは死んでなどいない。
ただ、興味がなくなっただけだ。
数多の死に包まれることに。
数多のスケルトンを率いることに。
違う欲望があったのだ。
死体を得ること以上に、知りたいことがあったのだ。
ミストレスと呼びなさい。
坊や。
俺がどこの街や村で、国で拾われたのかは定かではない。
まさか、あのババアの血縁ということはないだろう。
お互いに名前を呼ぶことはなかった。
あのババアは俺を坊やと呼び、俺はミストレスと呼ぶことを強制された。
出会いは既に失われている。俺がババアと暮らすようになる、それ以前の生活の記憶と共に。
思い出せるのは、あのババアからいくつかの魔法を、ネクロドライブの基本を教わり始めた頃が最初。その時点で、アレはまるで枯れ木のような容貌の老婆だった。
それ以前のものは、記憶と呼ぶのもおぞましい、痛みと恐れ。
全身が軋む、その感覚だけだ。
何かをされたのだ。
死ぬような、それであって死よりも恐ろしいことを。
あのババアによって。
それがどうして、あのババアの気が変わり、師弟の真似事なんてことをしていたのかも覚えていない。それでも、分かっていたことがあった。
絶対に逃げなくてはならない。所詮は真似事。信頼を寄せ合う関係などでは決してない。どこかで拾われ、何かに利用されようとしていただけだ。
だから、ババアにその目的を達成される前に逃げ出した。逃げられたのは幸運だった。いや、教会じゃないが、奇跡と言っても良かった。
あの恐ろしい死の騎士から逃げられたのは。
あのババアには常に1体のスケルトンが側に仕えていた。
通常のスケルトンとは明らかに規格外の力を持つ、人の手による魔物。
それがデスナイトだ。
名前をアーレスといった。
何か意味があったのか、ババアが唯一名前で呼ぶ相手がこのアーレスだけだった。
見上げる姿は大きく、真っ黒な瘴気に身を包んだスケルトン。
剣技も、膂力も、絶望的なまでに優れていて、俺はそんな相手から剣を学んだ。
エキオンと同じく意志を持ち、言葉を話すスケルトンだった。
そして合理的なスケルトンだった。
ババアとは違って、苛烈ではなく、達成するべき目的のために、淡々と動き、言葉を使った。
そんなアーレスを、俺は嫌ってはいなかった。
どんなにその剣によって打ちのめされようとも、だ。
剣による痛みは、痛みでしかない。
俺はその頃には痛みそのものには慣れていた。
動かなくなるのが困るだけで、それそのものには頓着しなくなっていた。
機嫌なんてもので、母親のように優しく触れ、殺人鬼のように血を求め、師のように理論を話し、道理の分からない子どものように他人の傷と恐怖に哄笑する、そんな常に別人のように振る舞う狂人を相手にするよりも、淡々と毎日決まって痛みだけしか与えてこない相手というのは、相対的にマシな相手だった。
周りにはスケルトンが、死体があふれていた。
斜面を覆い尽くさんばかりの死体がババアの隠れ住む山にはあった。その中では無数のスケルトンが動き回り、魔物も人も一度山に入れば区別なく殺すのだが、俺の知る限りでは、魔物も人も滅多に寄り付かない、静かな山だった。
魔物がはびこるはずの野山の中に、ぽっかりと開けた空白地帯。そこには言葉を話さず、カカシのように立ち尽くし、時折ババアの命令によってのみ、敏捷に動く魔物たち。
それがどんなに恐ろしいものだったか。
死んでいる。
それなのに動いている。
あのババアによって。
言葉もなく、意志もあるのか分からず。
死んでいるのに動いている。
そして、俺もそれにいつか加わるのだ。
それが逃れられない運命なのだ。
そう思っていた。
ババアは言う。
まだなのかい?と。
お前はアタシのものだよ。
坊や。
良い子だ。
早く大きくおなり。
お前が大きくなった時、アタシの努力が報われる。
まだなのかい?
まだなのかい?
まだなのかい?
世界には俺と同じくらいの小さなものなどなく、何もかもが大きくて俺を押しつぶしてくるように感じていた。
あらゆる感情が取り去られても、この圧迫感は消えることがなかった。
ババアの腹の中にいるのだ。
小さな手をどれだけ振り回しても、意味などない。
欲を、望みを、自分を持っても、やがては消えてしまうのだから。
あの、ぽっかりと空いた眼窩のように。
器が残るのみで、中はがらんどう。
ただの抜け殻だけがそこに残る。
名前のない子どもの抜け殻だけが。
そんな中で、まるで死が形を持っているような骸骨騎士に、理知的とすら感じられる言葉を話すスケルトンを、どこか頼るべき相手のように感じてしまっていたのは、あまりにも幼かった。
アレもまた魔物。
ババアによって創りだされた人形だったのだ。
絶対なる創造主に従い、何があっても離反することなどない。
アーレスによって刻まれた恐怖は、今もこの身体に実際の傷痕として残っている。あまりにも間近に迫った死の気配と共に。
デスナイト。
本物のビフロンス。
開けた草原を馬で走り、ハルモニアに語って聞かせる。
周囲には警戒するスケルトンたちだけ。
ハルモニアの兵の姿はない。
ハルモニアにだけ聞かせたかったからだ。
レッドスケルトンを倒してから一夜が明けたが他にはその姿は認められていない。他にあんな化け物がいないか、その警戒のためだったが、これはただの名目にすぎない。
だが、俺はアレを造り出した相手を知っている。
他にいるはずがない。
少なくとも、この周辺には。
アレはただのメッセンジャーだ。
俺に対するメッセージ。そして、確かに俺がこの国にいることをババアに知らせるための。
もうメッセージは伝わっている。あのスケルトンは一言だけだったが、それで何が言いたいかは分かっている。
見つけた。
次は直接会いに行くよ。
次に現れるのは、自らを置いて他にないのだから、あのババアに、ここにスケルトンを寄越す理由はない。
時も場所も選ばない。
己の都合のみによって動くネクロマンサー。
それはまるで魔物の所業。
あのドラゴンと変わらない。
さらにはアレは快楽で人を殺す。
どれほどの猶予があるのか。それはもう無いに等しいのかもしれない。
そんな相手が迫っていることを俺は話した。
ドラゴンを倒すなんて派手なことをしたのだ。それはあのババアの耳にも入るだろう。
余裕があると思っていた。
例え、生きていたとしても、そう簡単に、すぐに来るとは思っていなかった。
何の噂もないということは、あのババアが人の世に出ていない証ともいえる。
ダニエルは何にも情報を掴めなかった。この周辺で掴めないならば、この周辺にはいないはず。そのはずなのに。
山の中で、潜んでいるババアが俺のことを耳にする機会は全くないはずだった。
人の話は人からしか聞けない。人と接しなければ、聞き得ない。
それに情報が伝わるには、時間がかかる。
国をまたぎ、地域を超え、誰もが知るまでになるには必ずだ。
それまでに、俺はウムラウトの内部に今よりも深く入り込み、より大きな力を手に入れるはずだった。
そのための英雄なんて派手な称号だ。
英雄という称号には、例え居所を知られるリスクがあろうとも、それ以上のリターンが得られるはずだったのだ。
それこそ、一国の軍に等しい戦力のスケルトンが現れようとも、こちらも一国の軍を動かせれば、十分に対抗できる。
そう考えていた。
それが、あまりにも近くにあのババアの存在を感じる。
俺はまだ力を得ていないのに。指揮権もなければ、軍を想いのままに編成する権限もない。
それでも俺は決めていた。
戦う、と。
どこまで逃げる?どこへ逃げる?
かつてのように、西から東へ?
ここから東に向かっても、あとは海に出るだけだ。そこから先はない。
北へ?南へ?
それで俺はどこへ行き着くんだ?
俺は街にいたい。
街に暮らす人々のように、人として生きたい。
野山でただ生きながらえるだけの命にはしたくない。
それに、ベストでなくとも今の状況はそう悪くはない。
隣にはこの国の兵士、その指揮官のひとりがこんなにも側にいるのだ。
自分の自由にはできなくとも、協力を得ることはできる。
私が、あなたを助けます。
言葉が蘇って、思わず顔が熱をおびるのを感じた。
いつも助けるのは俺の方だった。
どこの国でも、どこの街でも。
どうにもならない。
助けてくれ。
その声に応えて、力を振るった。スケルトンを率いて戦った。
助けられることもあった。
だが、いつもその相手は死んでいった。
俺を助けて死んでいった。
グリパンは死んだ。
山猫はもういない。
西の国の傷兵も、陽気な暗殺者も、歴戦の猛将もいないのだ。
ハルモニアを見た。
金色の髪がたなびく、その横顔を。
「なにか?」
「いや、気にするな」
確かに俺は助けられた。いや、救われたと言って良い。
だからこそ、死なせるわけにはいかない。
ババアの欲しいものは分かっている。
アイツが欲しいのはたった1体のスケルトンだ。
それさえ手に入れば、他はもういらないのだ。
アーレスですらいらなくなる、そんなスケルトンが欲しいのだ。
そのために俺が必要なのだろう。
俺もスケルトンが欲しかった。
アーレスを打ち倒し、ババアが用意するすべてのスケルトンを滅ぼせる、そんなスケルトンが。
ひとり、またひとりと人が死ぬ度に、余計にそれを欲しいと思っていた。
俺は気づいてなかった。
かつては恐怖からだった。
でも今は違っていることに。
俺の前で俺を助けて人が死ぬ。
俺のいないところで俺を助けた人が死んでいく。
その度に思っていたはずだ。
力が欲しいと。
俺は今、かつてないほどにその力が欲しいと思っている。
間近に感じるババアのためにじゃない。
もっと身近に感じる人のために。
だから戦う。
だから逃げない。
逃げれば俺は力を失うだけだ。
俺は力が欲しい。
今、この瞬間にあるものを、より確かなものにするために。
俺を静かな目が見ていた。
俺もその目を静かに見返した。
先に逸らしたのは相手だった。
その様子に少し笑って俺も前を向く。
いくつもの岩が重なりあう山が間近に迫っている。
力を手に入れる。
今までの成果をすべて注ぎこむ。
それを、俺はハルモニアにも見てもらいたいと思った。
これが、彼女を助ける力になればと、心から思っていた。




