トレマ
2016/04/17 改稿。
街道を進み、トレマに向かう。
ナーは既に村を出ていた。同道する理由は何も無い。きっとそろそろトレマに着いていることだろう。
自分の馬に乗って行くつもりだったのが、ダニエルの馬車に同乗することになったので、俺の馬はダニエルの私兵のひとりが引いていた。
街道を進む一行の足取りはゆったりとしている。貴族を乗せた馬車は先を急いで走らせたりはしない。
馬車の中にはダニエルだけじゃなく、出発の直前に紹介された男が乗っている。
嫌な目つきの男だった。
何もなくとも、常に視線に殺意が宿っている。目が合えば、圧力を感じるのだ。
暗殺者と紹介された方が納得がいく。そんな男だった。
銀髪を後ろへとまとめ、その身には豪奢な飾りの黒と金の鎧。いかにも貴族が好みそうな鎧だが、この男自身は貴族ではないことを考えれば、きっと雇い主の趣味なのだろう。
年は俺よりも上。
壮齢でありながらも、この男は今でも剣を握っているようだ。
手を見れば分かる。
今までずっと剣を握り、そして戦ってきたのならば、この男にはどれほどの剣技が宿っているのか。実際に剣を合わせて確認したいとは思わなかった。
なぜ、そう思うのか?
歴戦の勇士というのと戦ったことがない訳ではない。
どんな相手であっても、それなりに戦い、対処する方法というのは心得ている。
それでも、この男と剣を交えるのは危険な気がした。
ただの経験にしては、はっきりとそう思う。
もしかして、どこかで会ったことがあっただろうか?
そう思って顔を良く確認しようと思えば、あの目が俺を見るのだ。
確かな圧力でもって。
そんな目をどこかで見た気がした。
いつだったか?結局、俺は思い出せない。色んなことを覚えているようで、同じくらいにきっと色んなことを忘れているのだろう。
男はイース・ハリスと名乗った。
紹介としてはダニエルの父親の古い友人だと言う。
生憎と、名前に聞き覚えはない。いや、これが本当の名前であるとは限らないだろう。
こいつはおそらくは大戦経験者だ。
それならば、本当の名前なんて、とうに捨て去っていてもおかしくない。本当の名前、生まれた時に付けられた名前をそう言うのならば、俺だって分からないのだから。
ただ、はっきりと分かることはある。コイツは大戦中にろくでもないことに従事していたのだろう。
世の中を嫌う目だ。
世界を呪う目だ。
自分の不幸と同じくらい、他人の幸福が喜べない、そんな目だ。
こういう目つきの奴は大戦中はゴロゴロしていた。
人を人とも思わない。
そういう目つきであり、そしてそれを隠す素振りもなかった。
「そういえば」
イースが口を開いた。
言葉は何かを思い出したかのようだが、その言い方はとてもそんな風ではない。
むしろ、分かり切っていることを確認するための、単なる前置きだ。
「今もこの中にいるんですな?スケルトンが」
そう言うイースの視線の先は、馬車の外。馬で歩くエキオンの姿を見ていた。
問いかけは、ダニエルにしたようだったが、ダニエルが俺を見たので、俺が答えた。
「ええ。勿論です」
この男は単なるダニエルの父親の古い友人などではない。既にダニエルから聞いていた、例のお目付役だ。
ダニエルを縛る者、その使いと考えて差し支えない。
ダニエルは言った。父親の前では俺との関係をしばらくは隠したい、と。
ただの流れの傭兵と何もかもを話し合った、等とは決して思わせてはならないということだ。
だから、当然、この男の前でも俺は貴族に接するように、丁寧に接しなくてはならない。
身の程をわきまえているように振る舞い、貴族の友人であるというこの男にも丁寧に接することにしていた。
「不安じゃないのかね?聞けば、君はずっとあの骨身に守られて、生き抜いてきたのだろう?例えば私が今、君に襲いかかったら、どの骨身も君を守れやしない」
挑発か?
イースの目に侮蔑にも似た色が宿っていた。
こんなところで、この男がわざわざ挑発してくる目的が分からない。
分からない以上は、こちらも突っかかっても意味がないだろう。
「あなたは決して襲いかかってこないでしょう。ここにダニエル様がおられるのですから。この方を害するような危険をあなたが犯すはずがない。この周囲にもあなたは気を配っているはずですから、今、この周囲に危険はないはずです。恐れることは何ひとつとしてございません」
俺の言葉を聞くと、少しの間、目を細めて俺を見て、やがてまた口を開いた。
イースは拳を差し出し、手を開く。
そこにはひとつの小さな鍵があった。
ちらりとダニエルを見れば、ダニエルは小さく首を振った。
言われれば逆らっても無駄なのだろう。
「これで骨身を操っているそうだな。ダニエル様から借り受けて、実は少し試させてもらった。護衛の中に既に紛れ込ませている。同じ鎧を着せて、全身を覆い隠せばひと目で人か骨身か、判別するのは確かに難しい。君になら分かるのかな?」
口の端に笑みが浮かんでいる。何がおかしいのか?俺を試せることが、か?
「……その依り代を私の手に預けて頂ければ、すぐにでも分かるのですが、私の手にない以上は、少しの間でも観察しなければ分かりかねます」
分かるか、分からないかで言えば、確かに俺には今の状況では判断できない。
馬車の周囲は騎兵が固めている。ほとんどはダニエルの私兵、いやイースの部下だ。そして騎乗した俺のスケルトンソルジャーたち。
後ろには荷車を引く馬、それを守る歩兵。
依り代のあるスケルトンなら、その依り代でもって魔力的な繋がりを辿って判断出来る。
スケルトンを、魔物を背に乗せることを嫌う馬は多いので、周囲の兵の中にいるとすれば歩兵の可能性が高いと思う。
だが、ブラフであれば、荷車の中に荷として載っていることだって有り得るのだ。素直に分からない、そう言った方が良い。変に何かを言って、つけ入る隙を与えたくはない。
「そうか。依り代がないと、君でも分からないのか」
そう言って、笑った。今までに見た中では一番良い笑顔だった。
俺にとっては不気味極まりない。
本当にスケルトンがいるのか、いないのか、これ以上、突っ込んでも不毛だろう。
話題として終わったのならば、これ以上話す必要はない。
イースがダニエルに最近の村の様子を聞き始めたので、俺はただ外を眺め、時を過ごした。
「で?結局のところどうなんだ?」
街道の中でも開けたところに出たので、休憩をとることになった。
それとなく馬車から離れ、そっとエキオンに近づき尋ねる。
スケルトンはいるかいないか。
エキオンは気配に敏い。
それも、ドジっ子やゴキゲン以上に。
何よりもこちらの問に是か否かという答え方にしかならないスケルトンと違って会話になる。
「おそらくはいないだろうな。いたとしても魔力が通っていないんじゃないのか?」
スケルトンは魔力が切れればまったく動けなくなる。
そうなれば魔力反応なき、ただの路傍の石と同じだ。
さすがにそれではエキオンとて感知はできないという。
「そうか」
普通の人間にとっては、スケルトンは存在そのものが謎のようなものだ。
知っていることよりも、知らないことの方が多い。
同様に、それを造り出せる人間についても知らない。
ただの疑問の解消、それだけだったのかもしれない。
そういう類いの男か?アレが?
例え疑問があっても、己にとってプラスになることじゃなければ、どうでも良いと断じるような男に思えた。
きっとスケルトンのことをダニエルから聞いて、おそらくはダニエルの父親への報告としてイースは聞き、そして知りたかったから、あのタイミングで聞いてきたのだろう。
もうひとつの依り代が手元にないことを悔やむべきか。
ここにあれば、はっきりと答えられたのに。
無い物はない。仕方無い。
俺の様子に何かを感じたのか、エキオンは気楽そうな声で告げた。
「単に本都に行くのにそうしただけだろう。何を気にしている?」
スケルトンに魔力が通っていない理由としては、エキオンの考えは妥当なところだ。
進んでいけば、他の村にも立ち寄るし、その先には街だってある。
そこで万が一、何かがあって鎧の下が魂無き人造の魔物であると知れれば無用な混乱が生まれる。事前に避ける方法があるなら、そうしておくべきだ。
魔力が通っていなければ、ただの骨格標本と変わらない。どうとでも言い訳は出来る。
だが、それを言ってしまえば俺の兵だってその対策をしないとマズイだろう。自らのスケルトンだけ隠して、そして俺の方に何もしなかったら意味が無い。
「……あの男が、な。アイツの目を見ていると、昔を思い出しそうになるんだが、はっきりとは何も出てこない。道中、気を抜くな。あの目からは悪い予感しかしない」
「少しは信頼してもらいたいものだな。あまり無能だと思われるのは癪だ」
そう言いながらも、エキオンの声は気楽そうな、それだった。
ふと気配を感じて振り向けば、着ている筋肉の意匠の鎧で俺の兵だと知れるスケルトンがスキップでもするように近づいてきた。
鎧の色がソイツだけ違うので、すぐにその中身が何であるかを察する。
後ろにはカタブツがついて歩く。
新しい景色を見て浮かれているのかもしれない。
エキオンと俺の側まで来ると、そいつは例の大げさな敬礼をして固まる。
カタブツも釣られたのか、意味なく俺に敬礼をしてきた。
そんなカタブツに違和感を覚える。
……カタブツ、お前はそんな奴だったか?
何かを命じた訳でもなく、戦いに出る前でもない。
意味のない敬礼。
それをカタブツがした。
スケルトンがスケルトンに影響を受けるのか?
それもあまり記憶がない。
「バンザイ、あまり浮かれるな。カタブツ、コイツが余計なことをしないように道中ちゃんと見張れ」
バンザイになんと命じたものか、悩んで結局はエキオンに命じるようなかたちになってしまった。
実際、なんと言って良いのか分からない。
スキップをするな?
問題はスキップじゃない。
周囲に護衛の目がなければ、何よりもあの男の目がなければ、頭を抱えたいところだ。
カタブツにはバンザイを見張って、妙な行動を起こせば止めるように命じていた。結果を見れば、カタブツはバンザイの後を追っていただけに近い。
そしてバンザイには他のスケルトンとともに荷車の護衛をさせていた。兵力としてあてになるかどうかはともかくとして。
それがふらふらと抜けだして、こうして俺のところまで来るというのだから本当に謎だ。
護衛に戻れ。
そう言うと、カタブツもバンザイも敬礼をして、荷車の方へと戻っていく。
「なあ」
「どうした?マスター?」
「……いや、なんでもない」
エキオンなら何か分かるかとも思ったが、何と聞くべきかに迷って結局聞かなかった。戻る途中の護衛の兵たちに大げさな敬礼をしてまわるバンザイに、休息中でヘルムを外していた護衛の兵たちはなんとも言えない顔をしていた。
あれがスケルトンだと、護衛達は皆分かっている。
だからこそ、不気味に思うのだろう。
一見すれば普通の人間と変わらない。まるで新米兵士がおどけているようにすら見える。
実際にはただの骨身なのに。
人ではない。だが、ただの魔物でもない。
ならば、これは一体なんなのか?
そんな困惑が顔に表れていた。
その顔を見て、困惑しているのはむしろ俺の方だ、そう言ってやりたくなった。
警戒を、そうエキオンには言ったものの、何事も起こらずにトレマへと向かって行った。
さすがに貴族が通る街道だけあって、事前に魔物の掃討が行われていたのか、魔物の襲撃もない。
これならば自分の馬に乗っていた方がまだ気が紛れただろう。馬車に押し込まれて、ただただ待つばかりでは体が固まってしまう。
イースとダニエルが交わす退屈な話に耐えながら進んでいき、やっとトレマへと到着したのは3日後のことだった。
最初に見えたのは、石造りの高く、分厚い塀、いや壁だ。
街の全方位を覆うその壁は上空から見たら6角形になっているという。その角のひとつひとつには見張りの塔。
一見すれば大仰な要塞にも見える。
だが、人と魔物、その両方を警戒するのには、これくらいの備えは必要になる。
おさまりの悪い周辺国家との小競り合いも絶えない。そのための対策として堅固な塀が築かれるのは、別に珍しいことではない。
貴族の馬車だけあって、塀の中へと入るのに、一切の手続きがなく、あっさりと正門を通された。
門の先に広がるのはきっちりと整備された通り。均一に切り出された石畳が美しさすら感じさせるように続いている。通りの両端にはぎっしりと詰め込まれたように並ぶ石造りの家々。
西方にいた頃には誰もが言っていたものだ。
東方なんて、田舎どころか辺境に過ぎない、と。
この光景を見ても、そんなことを言う奴がいるとしたら、単なる偏屈だと断じることが出来るだろう。
「見事な街並みですね」
俺の言葉にダニエルが顔をほころばせた。それは存外に素直な表情に見えた。
「そうだろうとも。こここそがウムラウトの本都。そして我らが築き、治めてきた街だ」
治めるのは貴族院。
街に住むのはそれに属する貴族たち。
そして武を司る軍。
その両者によって富をもたらされた商人。
国内の富はここへと集められ、そして再分配されると言うわけだ。それは決して公平ではない。ダニエルはそんな国の仕組みを変えたいと言う。
貴族であれば、自動的に富は集まる。飢えることはなく、他人を自由に使うことが出来る。
それで貴族は何をするのか?
ただ守り、富の上に富を築き上げる。
家を守り、領土を守り、攻め込んでくる他国をどうしようとも考えない。
そうしていれば、少なくとも自分たちだけは守られると信じている。
民がどれだけ血を流そうとも。
実際に戦っている兵士がどれだけ死のうとも。
今まではそれでもバランスが取れていた。領土を一気に失うこともなければ、兵士が死にすぎることもない。
ずっとそれでやってこれた。
だから、これからも何も変わらないと信じている。
それが今の貴族だ。
革新は必要無いと断じ、軍や商人が力を手に入れるのを過剰に恐れる。
この国には展望がない。
周辺の国々に対して、自国がどうあるべきかというのが何も無いのだ。
夢。
国としての未来。
それを描けるだけの貴族がいない。
だからこそ、ダニエルはなろうとしているという。
自らが未来を描き、革新をもたらすと。
そして、同じ未来を描けるならば、その人物こそが新しい貴族に相応しいと。
さて、未来を描くにも、まずは現実の敵を排除しなくてはならない。
ドラゴン。そしてフェレータ。
何も変わらない日々はすぐにも終わりを告げる。
それが分かっている。
ダニエルは言った。
俺であれば、将軍にも、貴族にもなれる、と。
確かにドラゴンもフェレータも倒せれば、なれるかもしれない。
だが、倒せなければ、夢も未来もない。
ただ死ぬだけだ。
この街はやがて戦場になるかもしれない。
望むと望まないとに関わらず。
俺は馬車の外を食い入るように見た。
そして、思い描く。
この街で、どうやって戦うかを。
それこそが、俺の未来なのだと確信して。
こうして俺は遂に、スケルトンを連れて、ウムラウトの本都たるトレマへと辿り着いた。
馬車が向かったのはダニエルの本家、有り体に言ってしまえばダニエルの父親であるジャック・ノヴァク子爵の邸だった。
門をくぐると見えたのは、やや黄色がかった堂々たる石造りの邸。
ここに至るまでに見た邸よりも大きく、それは子爵の権勢を示しているようでもあった。正直、この国の権力構造には詳しくない。
誰が有力貴族で、どういう派閥があるのかなど、他国で知りようがなかったのだが、ノヴァク家というのがこれほどとは思ってもみなかった。
「君がカドモス君か。ダニエルから話は聞いている。道中、疲れただろう。まずはゆっくりと休まれよ」
年の頃は50か60か。
顔には刻まれた深いシワと、丁寧に整えられた髭が威厳を感じさせる。
年齢の割に豊かな白髪。
年齢相応の体つきだったが、決して太っているとは見えない。
なるほど。
一筋縄ではいかなそうな御仁だった。
スケルトンたちは邸の中に入れられず、ホールに留め置かれた。
微動だにせず立たせておけば、置物のようではある。
俺にはひとりの従者がつけられ、応接間へと通される。
通されてからが長かった。休む、と言えば聞こえは良いが、実際には親子で俺のことを話し合っているのだろう。
今頃、ダニエルは話しているはずだ。
スケルトンに関するプランを。
そして、ドラゴンとフェレータについてを。
ここまでドラゴンとフェレータに関する話題は何もなかった。
イースは口にせず、ダニエルもまた口にはしなかった。
それは馬車の周りの護衛に聞かれたくはなかったからかもしれない。
街は平静を保ったままだった。
少なくとも、誰も彼もが知っているような話題ではないということだ。
エキオンすらもホールに置き去りだったので、今、この場には話し相手らしい話し相手はいない。従者相手にペラペラと余計なことを話す趣味も無い。
さして興味のないインテリアを眺めながら暇を持て余した。
日が陰り、部屋が茜色に染まる頃、ようやく呼び出しが入り、食堂へと向かう。
ささやかながらと言って開かれた晩餐会は、あの村でのそれとは比べ物にならないくらいに豪華だ。
供された酒は高いものなのだろうが、不思議とフェネクスから出された物の方が味は良かった。
晩餐会のメンバーは子爵であるジャックとダニエル、イース、ここに来て紹介されたダニエルの弟、テネシー。それに最近、準貴族としてジャックに取り立てられたというルーク・ハドモンという男だった。
「ここにいるのはすべて君のことを知る者たちだ。忌憚なく、思うことを話されるが良い」
ジャックが場を代表して告げる。
俺の両隣はジャックとダニエルだった。
対面にテネシー。その両隣にイースとルークがいる。
テネシーはどこか不機嫌そうな顔を俺に向けている。
イースやルークと話をするつもりはないようで、黙って食事に手をつけていた。
「さて、話は既に聞いているのだが、それでも確認の意味も含めて話しておこう。君がダニエルに話したドラゴンとフェレータの話は真実だった。調べたところではアキュートはその本都たるティルデすらも陥落しているという。どれだけの人間があの地に生き残っているかすら、定かではない」
どうやら北はフェネクスから聞いた話通りのようだ。
「それについては、現在、この国のどれくらいの人間が知っているのでしょうか?」
「貴族院の中でも主立った者が、それに軍の方でも上の階級の人間は知っている。商人の中にも、耳聡い者ならば知っていよう。しかし、表向きは誰も知らないような、そんな状態にしてある」
「混乱が起これば、どう人々が動くのか、その予想は誰にも付かないからね」
ジャックの言葉を補足するように、ダニエルが続けた。
ドラゴンが北に出た。そう聞いて、人々はどうするか?
少しでも離れるように、南に逃げるだろうか?
どらくらいの人間が逃げるだろうか?
どれほどの物を持って?
混乱は起きるか?
それとも、意外に今まで通りの日常を続けるだろうか?
ドラゴンなんて、世迷い言だと笑って。
ひとりひとりの人間の行動ならば、予想というのは簡単だが、それが群衆となって、しかも混乱を起こせばどうなるかなど分かったものではない。
それで国が空にでもなったらことだ。
人が大勢移動するというのも、それだけで騒動になる。
食べる物はどうする?水は?休む場所は?
そんなことをひとつひとつ冷静に考える前に、もしも民衆が行動を起こしたら、この国は滅茶苦茶になるに決まっていた。
だから、ひとまずは情報の秘匿をはかるというのは妥当な線だった。
「商人の中に、財産を南に移そうとする者がいくらかいるようです。いえ、商人だけでなく、貴族の中にもおりました」
そう告げたのはルークだった。口ぶりにはどこか面白がるような響きがあった。
10代といっても通用しそうな若い男だ。聞いたところでは22らしい。長い金色の髪を後ろでまとめ、馬のしっぽのように垂れ下げている。礼服に身を包むその体系はスリムを通り越していてやせ過ぎだ。
「……嘆かわしいことだ。それではこの国も北と同じく滅ぶと言っているようなものではないか」
大仰に、溜め息まじりでジャックが言う。
「そうならないためにも、私が今、この場にいるのかと存じます」
「そうだな。軍からの情報では、あのドラゴンに唯一、一矢を報いたのは君だけだと言うではないか」
軍の方でも情報を集めていて、俺がドラゴン相手に一度は戦ったことも、報告として入っているようだ。俺が逃げ延びたように、多少はあの場の兵士も逃げ延び、そして情報を残し、それがウムラウトにも入ってきていた。これで、少なくとも詐欺師の汚名は着なくてもよくなった。
「しかしながら、あの場では用意出来るものは少なく、その場しのぎにしかなりませんでした」
「それでも、だ。ドラゴン相手に、その場しのぎでも善戦したというのならば、まるでミレニアム1世のようではないか」
ダニエルが俺を持ち上げるように言う。
その言葉に、冷たく反論したのは対面の男だった。
「……結局は逃げ帰ったんだろう?それで、ウムラウトまで逃げてきた。調子の良いこと言ってるが、ただの敗走者じゃないか」
「テネシー、無礼なことを言うな。この場に客人としてカドモス君を呼んだのは私だ」
言葉には冷気すら含まれているような気がした。
自分の判断が間違っていると言いたいのか?そう聞いているようだった。
冷厳なひと言に、テネシーは怯んだ。
「しかし、父上。スケルトンなどという得体の知れないものを私は信用できません。それを造り出せるというこの男も。父上も常々言っているではありませんか。自分の目で確かめることが重要なのだと。人から聞いただけの話など、信じるに足りないと。私は見ていない。どれほどの実力なのか私は知らない。イース、知っているか?」
テネシーは生意気にも自分の倍以上の年齢であろうイースに聞く。イースは黙って酒を飲んでいたが、その言葉にグラスを置いた。
「多少、見てはみましたが、実力のほどとなれば、実際に打ち合ってみなければなんとも」
「そうか……ならば打ち合ってみれば良い!父上もそうは思われませぬか?兄上はさぞお宝を拾ってきたと言わんばかりですが、私にはそうは思えませぬ。やはりこの目で確かめてみませんと」
「テネシー。わきまえろ。報告に偽りはなかった。私はそれを確信している」
「普通の兵と変わらぬ程度でしょう、あれは。ホールにいるのを見ましたが、あれでドラゴンが本気で倒せると?話のできる兵のほうがよほどマシだ」
尚も言いつのるテネシーの態度にジャックが眉を潜めた。
その表情から、次男坊の信頼があまり厚くないらしいことが窺えた。この男の方こそが典型的な貴族のお坊ちゃんという訳だ。
ジャックが一喝でもして、話は終わるだろう。
そう読んだところで、意外な声が入った。
「実は、私からもお願いしたいと思っておりました。一度、彼の兵がどれほどのものか、この身で試したいと」
イースが口の端に笑いを浮かべて言った。その顔には自信が見える。
イースがそんなことを言い出すのが意外だったのか、ジャックの目がそれまでのものから、変化していた。
どこか面白げにイースを見ていた。
「……お前がそんなことを言い出すのは珍しいな。これも剣士の性というものか。お前ももうそんなに若くはないと思っていたのだが」
「血気に逸ってのことと思われても仕方ありませんが、実は昔、カドモス殿のことは戦場で聞いたことがあったのです。そして願っておりました。いつか戦いたい、と」
イースが俺を見て、笑った。
俺にはひどく残忍な笑いに見えた。
そう思ったのは俺だけなのか、ジャックも、ダニエルも、思うところはないらしく、逆に提案すら受けてしまった。
「そうか。どうだろうか?カドモス。君さえ良ければ、ひとつ、模擬戦でもどうだろうか?」
あまり戦いたいと思えない相手だった。
しかし、俺を招いたというホストの頼みでは、聞かない訳にもいかないだろう。
それに、どこかでスケルトンの実力を披露することにはなるだろうと覚悟もしていた。
まさか、ドラゴンが迫っているかもしれないこの状況で、何のためらいもなくスケルトンごと俺を斬り殺そうとはしないはずという打算もある。
「分かりました。戦うスケルトンはこちらで選んでも構わないでしょうか?」
「勿論だとも。イースは凄腕だ。最も強いスケルトンを選ぶのが良いだろう」
「ありがとうございます。では、皆様にとって、良い余興となりますよう、こちらもしっかりとスケルトンに命令しなければ」
イースがじっと俺を見ていた。
殺気じみた意志をにじみませて。
やはり、どこかで会ったことがあるのだろう。
俺を知っていたという科白を聞いて、確信を抱いた。
それでも俺には思い出すことができなかった。
この壮齢の剣士の姿からは、何も思い出せるものはなかった。




