序章~赤黒い~
それは、霧のかかった朝の出来事。
蠢く大きな黒。
飛び散る沢山の赤。
少年はそれを見ていた。
遠くをおぼろげに近くをはっきりと映し出す白い霧は、赤と黒で彩られた光景を、くっきりとその無垢な瞳に焼き付けていく。
錯綜と逃げ惑う人々が運ぶのは、胸を締め付ける叫喚に、鼻を突く鉄の臭い。
全てが、まだ物心のついていない少年にとっては分からない事。そんな少年が今感じているのは、言い様のない不安と、未知への恐怖。
そう、少年の見据える先。そこには大きな黒がいた。
「たっ、助けてくれぇーっ!」
一つ、今にも泣き出してしまいそうに震えた悲鳴を少年の耳が捉える。
その主は、大きな黒を目の前にして立ち竦んでいる六十歳ぐらいの老翁。
少年のよく知る人物だ。
少年は人と違う所がある。それは容姿。例えるなら、瞳は宝石の紅玉、髪の毛は貴金属の白金。異様ながらも〝綺麗〟という言葉がお似合いな容姿だ。
世間には、その容姿を気持ち悪がって疎外する人がいた。でもそれは一部の人。大半の人は少年に優しく接していた。今少年の目に映っている老翁もその一人。畑仕事をしている最中に少年を見かけては、いつもにっこりと微笑んで見せる。その顔は、笑い皺に温かい眼差しが映えていて、今でも鮮明に少年の記憶やその心に残っていた。
だけど、今の老翁の顔はひどく強張っている。
大きな黒。
老翁の目の前にいるそいつは、先程から沢山の人を殺してきていた。
「こっ、これでも食らえっ!」
老翁は側にあった畑仕事で使う鍬を拾い上げると、大きな黒に攻め掛かる。
震えた声はどこか迫力に欠けていたが、それでも鍬を大きく振りかぶるおじさんは果敢。
猛威を振るう一撃が、大きな黒に命中した。
その瞬間。
二つの音が、その場を埋める。
聞こえたのは、甲高い金属音に、何かが折れる音。
そして少年の目に見えていたのは、柄の折れた鍬を手にした老翁と、先程と何も変わった様子のない大きな黒だった。
人に当たれば恐らく致命傷では済まないであろう老翁の一撃は、どうやら大きな黒には全く通用していないらしい。
その様子に目を見張る老翁は、口をあんぐり。大きな黒に圧倒されるが如く尻餅をついてしまう。
でも少年は見て知っていた。老翁の他にも、大きな黒を攻撃した人がいた事を。
ある人は斧を使い、ある人は猟銃を使っていたが、大きな黒は全て弾いていた。その時に鳴る金属音から、体が硬いのかと思えばくねくねと素早く地を這い、次々と逃げ惑う人々に襲い掛かる。遠くにいる人々は触手のようなものを伸ばして狙い撃ち。空気を滑るように鋭い音を立てながら伸びるそれからは、人間の足では到底逃げ切ることが出来ず、至る所で赤を撒き散らしていた。
貫いたり、千切ったりと好き放題に人の体を弄んでは、獣のように咆哮を上げることも、人のように喚声を上げることもない大きな黒。そいつはただただ無声にひた殺戮をしてきた。
このままでは老翁がどうなってしまうのか、少年は容易に想像がついただろう。
恐らくもう二度と、老翁の微笑みを見ることはない。
少年はもう止めてと、そう叫びたかった。けれど言葉が出ない。
ならば老翁の元へ行こうと思っても、足が凍ったように動かない。
少年は、じっと見ていることしか出来なかった。
この惨劇を。
そして、
「ぎゃああぁぁーーっ!」
老翁が殺されるのを。
辺りは真っ赤だった。
畑の土が、野菜が、人が赤に染まり上がり、静かに朝霧へと溶け込んでいく。
そしていつしか少年の綺麗な瞳も、その残酷な赤色の闇に飲み込まれていった。