21、”私のもの”
21、”私のもの”
「何、これは、一体どうなっているの、」
寒水石のように青ざめたルビーに、ひしりとリラシーラがついて走る。
昨夜のこともあり、また癇癪を起こさないか心配だった。
チルトも併走して、大食堂を出ていた。
左に曲がれば上層へ、右に曲がれば下層への階段につながる。
生徒たちはてんでばらばらにそこを分かれていた。
「上層に行っても無駄だわ。」
ルビーは、昨日のことを省みて言った。
「オランジェ、下層には、検問がある。」
リラシーラが眼を伏せながら言う。
そしてそれもその通りなことを、チルトは知っていた。
生徒たちが寄宿床よりももっと下層に出向く時は、教師の許可が必要となる。
しかも検問は大抵無人で機能しているので(許可が出た時には、不思議なことに、開いている)、あてにならない可能性が高かった。
「あの問いかけが鍵なのかもしれない。」
チルトは閃いたことを言う。
分岐点で立ち止まる。
「あの意味の分からない言葉が?」
「“昨日はないけど今日はあるもなんだ? それを同じ色に翳せ。”」
リラシーラが暗唱する。
「そう」
相槌を打って、チルトは思考に沈む。
「“昨日はあって、今日はないもの”なら分かるけど、」
「“私のもの”」
ルビーが口して、リラシーラがすぐに答える。
「そっちの間違いじゃないかしら」
言って、ルビーは失笑した。
「上はどこも行き止まりだ! 下だ、下を目指せ」
上から戻ってきた三人の生徒が、そう言って横切っていった。
表情には、焦燥。
チルトの頭に上層の様子が思い浮かんで、一つの解答が閃く。
それは昨日、チルトが上を彷徨った挙句、たまたま見つけ出した仕掛けだった。
「花だ」
チルトは右へ駆け出す。
「チルト、」
突然の行動に、二人が戸惑う。
「こっちに来て、」
呼びかけると、二人も走る。
「どうしたって言うの?」
階段を下に駆けると、靴が打ち鳴らされて金楽器のような音が響いた。
厚い雲は未だに離れない。
明度を落とした緑青色のステンドグラスに木霊する。
チルトは言うのを迷っていた、昨日の体験を話す。
硝子細工のこと。擦り抜ける硝子のこと。
先に広がる迷宮のこと。
話しているうちに、チルトの中で何か違和感が増す。
するとルビーに頭をぐしゃりとかき乱され、リラシーラに肘で小突かれた。
「それは、朝、一番に言うべきだと思うわ。それにしても、お花なんて生えていたかしら、」
「ルビー、あたしは、見た。部屋の隅に、ミルクベリー色のカンパニュラが咲いてた。」
「ぼくのところは、ツユクサだった。」
「私のところは、ユリだといいわ。好きだもの、特に土蛍色のが。」
ルビーは勝手な希望を付け足した。
寄宿回廊に辿り着くと、横から声が飛んでくる。
「おいおい、君たちはどうしてそんなに急いでいるんだ。」
言ったのは、左側に壁にもたれて座る少年だった。
いつもトラスと一緒にいる、生徒のアイオリータだった。
短めのブロンドを後ろになでつけた、眼つきに巧みさの伺える少年は、冷静に状況を解した。
「騒ぎは収まりつつあるぜ。感情は静まりつつあるぜ。もうすぐ硝子の割れも、なくなる。にも関わらず、お前たちはどうしてそんなに急いでいるんだ。なぞなぞか、あれなら僕も解けたぜ。部屋の硝子細工だろう。だが、それで上に行って何になる。聞いてみろ、硝子の音を、もう静かに……」
チルトたちは耳を傾ける。
しかし少年の言葉とは反して、硝子がひび割れ、抜け落ちていく音は、まるで留まりをみせない。
「おさまらない……」
チルトは呟く。
「ねぇ、ひどくなっていない、」
ルビーの言う言葉は、おそらく正解だった。
硝子の音が連続している。
何よりも、上から生徒がこのを床を通り抜けた。
「何、故、」
アイオリータは立ち上がろうとして、そのまま床を砕いて落ちた。
不意に垂らした水滴のような、一瞬の光景だった。
瞬間的に短くルビーは悲鳴を上げて、リラシーラは彼女にしがみついた。
部分的なもので、ひびが波及する気配はなかったが、それはチルトたちの意識をさらに乱していく。
「アイオリータ、!」
後ろから丁度階段を下って来て姿を現したのは、トラスだった。
落ちていくアイオリータの姿を捉えて、トラスは咄嗟に叫んだ。
飛散した硝子片と廊下に空いた穴を見て、到底信じられないという顔になる。
「ちっくしょう、」
トラスは悪態を吐いて、チルトたちをねめつけた。
しかしルビーやリラシーラがいるのに気付くと、そのまま横を駆けていく。
「“昨日はなくて今日はあるもの”“昨日はなくて今日はあるもの”行くぞ、カリトーネ、何をやってる、“契約”だぞ、?」
背後から、遅れて姿を現したカリトーネに、トラスは叱り付けるように言った。
何事かを呟きながら、カリトーネを連れて寄宿階の奥へと消えていく。
「どうなっているの、」
ルビーは怪訝に顔をしかめた。
「まさか、」
チルトは思う。
「床が薄くなっている?」
「「まさか、」」
二人はそれこそ信じられないというふうに言った。
チルトも突拍子のない考えであることは分かっていたが、何となく思った、というより感じたことであった。
“怪盗”は優秀で心ない生徒を、ふるいにかけるつもりなのかもしれない。
今の少年は、成績があまり良くない生徒ではあった。
「僕たちの体重でも、いつまでいられるか分からない。」
薄さは置いておいても、それは確かなことだった。
いつ落ちるか分からないくらいに、チルトたちの立っている場所は不確かなのだ。
二人は首肯する。
「オランジェ、あたしもそう感じる。」
「急ぎましょう!」
それぞれの部屋に向かって、チルトたちは散開する。
チルトたちだけでなく、問いかけの答えに気付き始めた生徒たちが所々見られる。
チルトは考える。
昨日見た幽霊議会を思い出す。
「選抜試験」という、確かに聞こえたように思う言葉。
「そうか、」
現在の状況を照らし合わせると、先ほどから感じていた違和感の正体が分かった。
チルトたちは、やはり噂に踊らされていた。
食堂に現れたあれは、“怪盗”何かではない。
これは“怪盗”が起こしたように見せかけた、“幽霊”による“幽霊”の選抜試験ではないか。
チルトは自分の部屋へと入ると、隅に生えた露草に手を伸ばす。
硝子の、根元のところを慎重に折った。
それだけすると手に握り締めて、急いで部屋を出て階段に戻る。
走っていると、同じように駆けていた生徒が二人抜け落ちた。
その光景に、チルトは眉間を歪めた。
「速く、」
もし床が薄くなっているなら、それは時間制限をかけているに等しい。
床の許容量より自らの体重が上回る前に、上層へと移動しなければならない。
「床が抜ける、」
チルトは硝子細工を手にしてきた二人と合流。
「何てこと、紫色の釣鐘にんじんだったわ。」
嘆くルビーの手には釣鐘花がうなだれていた。
三人で寄宿階の回廊を逆戻りに駆け出し、階段を駆け上がる。
食堂を越し、いつもの教室と、がらんの教室の二層を通りすぎる。
謎かけに気付き始めた生徒たちが、同じように横を駆けたり逆に行ったり通り過ぎたりしていった。
“僕はきみが嫌いだった”
“あなたより両親の方が、大切だもの、”
階段の途中で、そんな縁切りの声が聞こえた。
少しだけ言い合いになったりケンカになったりもするが、そんな嫌悪を向け合った生徒は、一緒くたになって落ちていった。
交流のない生徒は、そんな端すら見向きもせずに、硝子細工を手に走っていく。
チルトは、例の迷路へ続く階段へ踏み出そうとした時、チルトの肩に手が置かれた。
驚いて飛びのくように振り返る。
「よお、チルト」
それは、見慣れたエルアの精悍な顔だった。
「エルア、」
しかし表情はいつもの余裕顔ではなく、水溜りにインクを一滴零したように、一抹の不安が混じっていた。
そんなエルアの顔を見るのは、チルトは初めてだった。
「先に教室で寝てたんだが、うるさいんで起こされた。どうなっているんだか、これは、」
エルアは皮肉げに笑ったが、当て布で覆い縫った空元気だった。
後ろを走っていた生徒の、硝子が抜ける。
「アクアマリン、もう間に合わない、」
リラシーラは言う。
「エルアも上へ!」
ルビーは叫んで、チルトとともにエルアを引っ張る。
「おい、おい、」
エルアは戸惑いながらも促されるままに走り出す。
四人で階段を駆け上がる。
あの迷路に辿り着くと、すでに硝子に花細工を翳して擦り抜ける生徒たちがいた。
その不思議な光景に、ルビーたちも、他の生徒たちも、誰もが眼を見張っていた。
優秀な生徒たちはすでに謎を解いている。
札にかかれた言葉と、“上へ、上へ、”という言葉をすぐって、糸口を掴んだのだ。
チルトは昨日の経験から先じていた部分があるにも関わらず、彼らに遅れを取っていることに、自分の頭の回転の悪さを呪った。
チルトたちも、花と同じ色の壁を探し、見つけ出す。
しかし、動き出せないエルアがいた。
ほとんど、残った生徒が手早く擦り抜けていった廊下で、四人だけが佇んでいた。
「俺は、それを持っていない、行けよ」
笑顔で言ったエルアの表情は、誰にでも繕っていることが分かった。
「何とか、なるはずよ」
ルビーは青ざめながらも、元気付けるように言う。
「ほら、二人で握って、一緒に持てば」
チルトは提案する。
手を差し出して二人で握り、露草色の硝子に入ろうとするが、しかし擦り抜けるのはチルトばかりで、エルアは通ることができない。
「ほら、さっさと行きな」
エルアは肩を竦めて言う。
暗い、四人の廊下が静寂に沈む。
その時、光に照らされた。
静かな廊下の奥に、灯りが現れた。
ゆらゆらと奥ゆかしく、キャンドルが明滅するようだった。
背に当たる、リラシーラがゆっくりと振り返る。
それを見とめる。
柔らかな息を吐くように、言葉を紡ぎだす。
「カボチャの、ランタン、」
瞬間、リラシーラの床が抜けた。
「リラシーラ!」
三人が叫ぶ。
同時に同じように手を伸ばしたが、先のルビーの時とは訳が違う。
三人のどの手も間に合わない。
落ちゆくリラシーラは、しかしうっすらと微笑んで、最後に身体を捻った。
「アクアマリン、受け取って、アクアマリン」
腕を振ると、闇の中に消え入った。
リラシーラが投げたものを、エルアは受け取った。
ミルクベリー色のカンパニュラの硝子細工。
エルアはしばらく呆然としてそれを握っていた。
「何てこと、」
ルビーは震えた声で言った。




