兄と妹
凍っていた感情が一瞬で溶けた。
まるで他人事のように状況を把握分析し、無意識とはいえ口にしてしまったことを、ハル君の表情を見て酷く後悔した。
「ハ――」
「すみません」
私の言葉と視線を遮ってハル君はこちらへ向かって来た。でも視線は合わない。血の気の失せた顔は虚ろで、足元へ落とされた視線と固く結ばれた口は動こうとしない。動き続ける足だけが止まることなく私の横をするりと通り過ぎて行った。
「ごめんなさい」
小さく掠れた呟きは、きっと私にしか届かなかっただろう。
自分の犯した失態に振り返ることができず、扉の閉まる小さな音を背中で聞いた。
あんなことを言われたら責任感の強いハル君がどう思うか。少し考えればわかるのに。
己の軽率さと愚かさを悔やみ視線を落とす。
ふと、先ほどの別れを告げるようなハル君の雰囲気に全身の血の気が引く。
――まさか。
顔を上げる。
部屋の奥で壁にもたれ掛っていたアレクセイが、何か思い当った表情になり目が合った。
嫌な予感が確信に変わり、すぐにハル君の後を追った。
台所でナイフを震える両手で持ち、自分の胸に向けているハル君が目に飛び込んできた。
一瞬で頭が真っ白になる。
「ダメッ!!」
自分でも驚くほどの強く大きな声にハル君の動きが止まる。その隙にナイフを手で払いのけた。柄を掴んで取り上げるという発想や余裕はなかった。
ナイフがハル君の手から離れ、金属音を響かせて床に落ちる。青い顔で驚くハル君の両肩を掴み、正面を向かせた。
小さな体は震えていた。
「何やってんの!」
私の怒声にハル君が珍しく眉をつり上げた。
「ぼ、僕が死ねば、ナツキさんは元の世界に帰れます!」
「帰れないよ!」
間髪入れずに大声で返すとハル君は潤む緑の瞳で見つめ返してきた。
ようやくハル君と視線が合い、そこで私は息を吸うことが出来た。
「リヴァイスが、リアニークスには呼ばれる理由があるって言っていた。それを解決しない限り返還術を使ったところで帰れはしないって」
「それは嘘かも」
「彼女は嘘を吐いていないと思う」
嘘を吐く必要がなかったし言い繕うこともしなかった。言いたくないことはただ口を噤むだけだったから。
「私が呼ばれた理由はわからない。だから今返還術を使えば帰れるかもしれない。だけど――」
ハル君の肩を強く掴む。右の掌に痛みが走ったけど気にしていられない。
「ハル君が死んだって帰れる保証はない。それにハル君の命と引き換えに帰ったって嬉しくないよ!」
私の迫力に怯んだのか、ハル君の肩の力が抜けていく。
「僕はどうすれば――」
ハル君の透き通った涙が紅潮した頬から零れ落ちる。
「ごめんなさい、ナツキさん。僕が間違って呼んでしまったばっかりに」
「さっき言ったでしょ? 呼ばれるには理由があるんだって」
だから、ハル君のせいじゃないよ。
そう言い聞かせてもハル君は肩を揺らして泣いている。
何を言われても自分を責めるその姿は15歳の私だった。
「私にはね、2つ上の兄がいたんだけど」
ハル君は突然の告白に顔を上げた。
「12年前に事故で死んだの。私はずっとそれを自分のせいだと思っていた」
兄の死と家族がバラバラになったのは、ずっと自分のせいだと思っていた。
「だけどこの前、初めて兄が現れて、お前のせいじゃない、って言ってくれた。小さな私がずっと寄り添っているから独りじゃないし、寂しくないって言ってくれた。もちろん夢かもしれないし私が勝手に作り出した幻覚かもしれない。けど嬉しかった。だから私は元の姿に戻れたんだと思う」
あの日死んだ私の心と兄が、私を救ってくれた。
「もちろんハル君やアレクセイやレオナールがいなかったら、今私はここにいないよ」
ウルリーカさんやクムルといった召喚獣仲間もできた。元の世界では多分知り合えないと思う。
だって精霊や魔獣だもん。
「こんなに大切な人達と出逢えて、この世界に来て良かったと本当に思っているんだよ」
もしこの世界に呼ばれていなかったら、私は今でも兄に謝り続けていただろう。今でも兄を苦しめ続けていただろう。曇った瞳で現実を見ようとせず、偽りの人生を送っていたかもしれない。
「ちゃんと元の世界に帰ってちゃんと自分の人生を送るから。だからもう謝らないで」
先日の件を思い出してつい苦笑する。
「お兄ちゃんなんでしょ?」
ハル君もようやく表情を緩めてくれた。
「和んだところ悪いが――」
不機嫌な声が割って入る。
いつの間にかアレクセイが台所の入り口に立っていた。
「い、いつからいたの?」
驚きと恥ずかしさで思わず声が上ずる。
「最初からだ」
悪かったな、存在感が薄くて、と拗ねたように溜息を吐く。
「手は大丈夫なのか?」
「手?」
見ると私が掴んでいるハル君の左肩に血がべっとりと付いていた。
「ハル君、血が出てる!」
もしかしてナイフを払った時に刃があたった?
「ごめん! 大丈夫? 怪我見せて! どうしよう、すぐに血を止めないと――」
アレクセイはパニックになっている私の右手首を掴んで掌を上に向けた。
「落ち着け。怪我しているのはお前だ」
掌は横一文字にぱっくりと裂けていて血だらけだった。
最初は状況ができずじっと掌をみていたけれど、そのうち猛烈な痛みが襲ってきた。
「ぎゃーーーー! いたーーーーい!」




