処分
八雲先生とのことが、院長婦人の耳に入ってから数日後、私の処分が下された。久しぶりに、自分の部屋から出て、院長婦人の部屋に行った。どうやら、そこで、私への処分が発表されるらしい。
奥園さんが来る前の、朝の早い時間に、私は呼ばれた。
院長婦人の部屋には、院長夫人と凍りついた表情の院長が並んで座っていた。
「座って」
院長婦人に促され、私は、ソファに座った。鼓動が高鳴り、心臓が破裂しそうだ。
私がソファに座ると、院長夫妻は、死んだような顔でこちらを見た。
「あなたは、とんでもないことをしました。それは、わかっていますね?」
「はい」
強制されたように、コクリと頷いた。院長婦人のあまりの迫力に、そちらを見られなくなった。
「あなたには、ロボトミーを施します。一週間後、それを行います」
平坦な口調で、淡々と院長婦人は語った。
ロボトミー? 聞いたことのない言葉。施すと言っていたけれど、何がなんだか、全く見当がつかない。ロボットかなんかなのか?
「あの・・・・・・、ロボトミー? って、一体、何ですか?」
私が、恐る恐る質問をすると、院長がその口を開いた。
「私が説明しよう。ロボトミーとは、前頭葉を傷つけ、感情を抑制する手術のことだ」
院長は、あまり気の進まない言い方をしていた。
「それをしたら、私はどうなるのでしょうか? そして、それは誰が執刀するのでしょうか?」
私は、少し前のめりになり、院長に質問を投げかけた。青ざめた表情の院長は、少し間を空けて重い口を開いた。
「まず、それは私が執刀する。その手術を施したあと、野高さんが、どうなるのかは、はっきりとはわからない。ただ、可能性としては、下界のことへの興味を失うだろうということだ」
院長が、自ら執刀する。ただ、院長は、脳外科医ではない。ロボトミーが、どんな手術なのか、詳しいことはわからないけれど、院長は内科医なのだから、このような手術をするのに適当なのかは、かなり疑問だ。
「わかりましたね。一週間後に、ロボトミーの手術を行います。それまでは、自分のへ・・・・・・」
突然、扉が勢いよく開かれた。そこには、肩で息をし、血眼になった八雲先生が立っていた。
「母さん! 今、なんて言ったんだ? ロボトミーだって? なぜ、彼女にそんなひどいことをするんだ! 彼女が、クローンだからか? 僕のクローンだからって、彼女に人権はあるんだぞ!」
部屋の中に入ると、八雲先生は興奮して院長夫人の胸倉をつかんだ。いつもの優しい目はそこにはなく、怒りに満ちた瞳を吊り上げ、母親である院長婦人を殴りそうな勢いだ。すぐに、院長がそれを静止しようと八雲先生の腕をつかんだ。
「止めなさい!」
「父さん! どうして、彼女にそんなことをするんだ? 人道的に問題がある手術じゃないか。こんなこと、するべきではない。まして、彼女は、精神的に何か問題があるわけでもないんだ。そんなことをする必要なんて、全くないはずだろう?」
潤んだ目で、必死に院長を説得をする八雲先生の姿に、ロボトミーがただならぬ手術である気がした。一週間後、それを施したら、私は、どうなってしまうのだろう? そう思うと、体が小刻みに震え出した。
「もう決めたことだ」
「父さん! こんなこと、止めるんだ!」
八雲先生は、泣いて顔をぐしゃぐしゃにしながらも、ロボトミーを止めるように説得し続けた。しかし、院長夫妻は決して首を縦に振ることはなかった。
なぜ、八雲先生はあれほど、必死に説得をしていたのだろうか?
そんなに危険な手術なのだろうか? 脳を傷つけるらしいから、危険なのかもしれない。人道的にと言う言葉が出てきた。それほど、ロボトミーで人格が変わってしまうのだろうか?
いろいろなことが頭をよぎる。疑問だらけで、頭の中がいっぱいだ。
薄暗い部屋に一日中いるのは、退屈な以上に精神的に弱くなっていくのを感じる。私が何もしなければ、物音ひとつしない。誰かがくれば、廊下から足音が聞こえるくらいで、この部屋には静寂しかない。
ベッドに座ったり、椅子に座ったり。たまに、トイレに行ったり、夜になればお風呂に入って。
そして、一日三食、きちんと食事が用意される。届けてくれるのは、院長か院長夫人のどちらかだ。決して、八雲先生が運んでくることはなかった。
朝食のおにぎりを食べ終え、お皿を机の上に置いた。昼食を届けに院長婦人が来たときに、このお皿を下げる。毎日、それの繰り返し。
今まで、一度も机の引き出しを開けたことはなかった。今日は、無性に引き出しが気になって仕方がない。机の引き出しを開けてみると、折り紙が入っていた。机の一番上の引き出しに、ビニール袋に入れられた百枚入りの折り紙があったので、それを机の上に出した。なぜ、ここにこんなものが入っているのかはわからないけれど、折り紙を開けようと裏返してみると、まだ誰も開けた事がないようだ。
丁寧に、ビニール袋から折り紙を取り出し、広げては一枚一枚を確認するようにじっくりと眺めた。金と銀がちゃんと入っている。赤や黒や青や黄色。子供のころも、よく折り紙で遊んでいたっけ。両親は、兄につきっきりだったから、私は折り紙をわき目も振らずに折っていたんだった。折鶴や、やっこさん、はかまだって作った。
懐かしいな。今でも、覚えているかしら?
遠い記憶を頼りに、やっこさんとはかまを折ってみた。やってみると、意外と簡単に出来上がってしまった。小さいころに、よく折り紙で遊んでいたせいだろう。昨日のことのように思い出し、こんなにも簡単にやっこさんとはかまが出来上がってしまった。
次は、折鶴を折ろう。これは、よく折っていた。千羽鶴を一人で作ったことだってある。兄が、手術をするたびに、私はひたすら鶴を折っていた。千羽折れば、手術が成功して、兄の脚が治ると信じていたからだ。兄の脚が治ったら、公園で思いっきり一緒に駆け回りたいって思っていた。千羽折っても、その願いは通じなかったけれど。
折鶴をひとつ完成させ、机の上にぽんと置いてみた。やっこさんにはかまを穿かせ、鶴の隣に寄り添うように置いてみた。友達ができたみたいだ。それだけの光景に、懐かしい記憶がよみがえり、心が少し和やかになった。
誰かが、ここへやってくる。廊下から、足音が聞こえてきた。コツコツと不思議なくらいにゆっくりとした足取り。幽霊でも出るのではないかと思うほどの恐怖を感じた。本当に、幽霊が出るのではないかと思いつつ、私は折り紙から手を離し、扉をじっと見つめた。
その足音は、ぴたっとこの部屋の前で止まった。
勢いよく扉が開くと、望月さんが鬼のような顔で、勇ましく部屋の中へと入ってきた。殺気を感じるほどの強い視線で、私を威圧すると、何も言わず、椅子に座っている私の前に立ち止まった。私は、何がなんだかわけがわからないまま、立ち上がると、突然、望月さんに頬を思いっきりひっぱたかれた。顔が、ちぎれるのではないかと思うくらいに強く叩かれた。
「あなた! なんて事をしてくれたのよ! 健太郎さんったら、あなたのことばかり考えているのよ! せっかく、私と一緒に暮らしてくれたのに。あなたの心配ばかりして!」
泣き叫びながら、望月さんは言った。
私が、この部屋にいる間に、八雲先生と望月さんは一緒に暮らし始めていたのだ。結婚をするのだから、おかしいことではない。少しだけ、ショックだったけれど、私の中ではあきらめがあったのか、あまり大きなショックではなかった。
「先生と一緒に暮らしていたんですね」
「そうよ! なのに、なのに・・・・・・。ねぇ、健太郎さんの心を返してよ! あなたたちは、結ばれることなんてないんだから。私には、健太郎さんしかいないのよ。だから、お願いよ。あの人の心を返して!」
望月さんは、涙を拭った。鼻をすすり、目を真っ赤にして私をにらみつけると、立ちすくんでいた私を床に力いっぱい叩きつけた。腕が折れてしまうのではないかと思われるくらい、私は床に強く叩きつけられた。
「何よ、あんたなんて、クローンのくせに」
望月さんは残酷な目で、私を見下した。
――クローンのくせに
何も返す言葉はない。
院長婦人以上に恐ろしい顔。その視線に縛り付けられ、私は身動きができずにいた。
「ロボトミーの手術を来週行うなんて。すぐにでも行ってしまえばよかったのに」
震えた声で、望月さんが言った。
「理由はわかりませんが、来週の今ごろ、私は今の私ではなくなっているんです。私が変われば、先生のお気持ちも、きっと変わるでしょう」
「そうだと良いけれど・・・・・・。私が、何をしても健太郎さんは上の空。私が健太郎さんを抱きしめたって、私を抱きしめてはくれないのよ! あなたみたいに、強く抱きしめてなんてくれないんだから。料理を作ってあげても、何も言わず、悲しそうな目で食べるだけ。健太郎さんが、口を開いたと思ったら、あなたの名前ばかりが出てくるのよ。いつだって、健太郎さんは私とあなたを比較しているのよ。何をしたって、あなたのことが頭から離れないのよ」
目から大粒の涙を流しながら、私を怒りとも羨んでいるとも取れる表情で見ていた。
張り詰めた空気の中、望月さんは何も言わずに扉を勢いよく開けて部屋を出て行ってしまった。その後姿は、悲しみに満ちていた。廊下を歩く望月さんを私は部屋の入り口から見守った。
痛い。心が痛くてたまらない。
床に座り、私は望月さんの言葉を思い出した。八雲先生は、望月さんを受け入れてくれない。それどころか、今も私のことを想ってくれている。その気持ちは、うれしいけれど、来週には私は私でなくなってしまう。どうなってしまうのかはわからないけれど、今の私でなくなることだけはわかる。きっと、来週の今ごろには八雲先生の心が変わっているはず。私には祈ることしか出来ないのだ。
それから私は、無心で折鶴を折り続けた。折り紙は、すぐになくなってしまった。机の引き出しをもう一度開けてみると、一番上の引き出しの奥に紙でできた箱があった。それを取り出してみると、折り紙と書いてある。中を開けてみると、大量の折り紙が出てきた。何枚あるかはわからないけれど、私はそれを使って、折鶴を折り続けることにした。
ベッドの上には、折鶴がたくさん並べられていた。整列しているのではなく、無造作に置いてある。まるで、ここが自分たちのベッドだと言わんとばかりに、折鶴たちは堂々と並んでいた。
この日の夕食は、院長が運んで来てくれた。夕食を置き、昼食のお皿を下げて、すぐに出て行くと思っていたのだが、院長はすぐに出て行かなかった。院長は、ベッドの上にある大量の折鶴に驚き、しばらく呆然と見ていると、「箱を持ってこよう」と言って部屋を出ると、すぐに大きな段ボール箱を持ってきては、院長自らベッドの折鶴を全部その中に入れてしまった。
「院長、すみません・・・・・・」
あまりの手際のよさに、じっと見入ってしまい、何もできなかった。私は、院長に一言謝ったが、院長は目を細めて笑ってくれた。
「良いんだよ。私が、好きでやったのだから。それより、ちょっと良いかな?」
院長は、そう言うと片付いたベッドに座った。私は、椅子に座り、院長の話を聞くことにした。
「どうかしましたか?」
「いやあ、あの・・・・・・。明日は、午後から家内が出かけるんだ。家内が出かければ、奥園さんだけになるんだが、私は早めに戻ろうと思う。表の門には、防犯カメラもあるし、そこから出るのは危険だ。調理場の近くにある勝手口からなら、容易に出られるだろう」
院長は、心細いのか小声で、私にそう語った。
「杏さん、私はこんなことをしたくはないんだ。だから、逃げて欲しい。明日が、絶好のチャンスだ。良いね」
私に確かめるように、院長は言った。
「お気持ちは、とてもうれしいのですが、私は逃げません」
私が断言すると、院長は口をぽかんと開けて驚いた。急いで、ベッドから立ち上がると、私の肩をつかみ強くゆすった。
「何を言っているんだ。ここにいたら、来週の今ごろには・・・・・・」
院長は、言葉を濁した。恐ろしいことを想像したに違いない。しかし、私には覚悟はできている。
「もう覚悟はできてますから。それに、これが最善だと思うんです。私は、専門家じゃないから、ロボトミーのことは、詳しいことまでわからないけれど、今、とてもつらいんです。その手術を行うことで、この辛さが和らぐのなら、その方がいいと思うんです」
「辛い?」
院長は、落ち着きを取り戻したのか、ベッドにまた座った。
「私と、健太郎さんは結ばれない。結ばれてはいけない関係です。今のままの感情を持ち続けていては、ずっと健太郎さんを想ってしまうかも知れません。それは、私にとって一番の苦痛なんです。健太郎さんを忘れることができるのなら、感情なんてなくなってしまったほうがいい。そして、健太郎さんのためにもそれが最善の方法だと思うんです」
私の話を静かに、腕組みをして、院長は聴いていた。瞳を閉じて、うんと頷くとその瞳を静かに開いた。
「杏さんには、本当に辛い思いをさせてしまったようだね。しかし、杏さん一人の問題ではないんだ。第一、ご家族のことはどう思っているんだね?」
「家族」と言う言葉に、私は衝撃を覚えた。ずっと、家族のことは考えないようにしていた。今ごろ、私のいない生活を送っている家族のことを。両親は、どんな気持ちでいるのだろう? 兄は、一人でちゃんとパン屋に通っているだろうか?
考えたくなかったことが、一気に押し寄せてきた。家族のことを考えると、悲しみで心がいっぱいになる。
でも、そんなことを言ったって、どうしようもないんだ。私は、クローンとしてその役割を果たさなくてはならないと思う。
「家族のことは、言わないで下さい。・・・・・・そうだ、院長、お願いがあるんですけど」
家族と言われ、私は一つ心残りなことがあることに気がついた。院長になら頼むことが出来る。他の人には決して頼めないことだ。
「何だね?」
「大変、申し訳ないんですが・・・・・・。私の家にあるアルバムを取りに行っていただけないでしょうか?」
あつかましいお願いだとは、わかっていた。それでも、急にアルバムが見たくてたまらなくなったのだ。今一度、この目で、思い出を確かめたくなった。小さいころの思い出、大人になってからの思い出。全てが記録されているアルバムを、できることなら、この目で、最後に見ておきたいと思った。
「わかった。しかし、それよりもここから出て行ったほうがいい。これ以上、君や君の家族から築き上げたものを奪いたくはないんだ。それに、杏さん、君は私と血がつながっているんだ。クローンとは言え、君の体には私たちの血が流れている。娘だと言ってもいいわけだ。そんな君に、自ら手を出したくはないんだ」
今にも泣き出してしまいそうなくらいに、院長は顔をくしゃくしゃにした。
「娘」と言ってくれた。私のことをそこまで思っていてくれていたんだ。もう、それだけで十分だ。
「何のために、私を作ったんですか? 息子である健太郎さんのためでしょう? いまさら、そんなことを言ってもいいんですか?」
「良いんだ。私自身、このことはあまり気が進まなかったんだ」
そう言うと、院長はクローンを作り出した経緯を説明しだした。
八雲先生がこの世に生を受け、子宝に恵まれなかった院長夫妻は、とても喜んだと言う。院長の母親から、何度となくきつい言葉を浴びせられ続けた院長婦人も、泣いて喜んだそうだ。
しかし、院長婦人はあまり八雲先生の子育てには参加させてはもらえなかった。奥園さんもそのことは言っていた。
院長婦人は、喜んで八雲先生を育てようと思っていた。その気持ちを知ってか、知らずか、院長の母親は自分の子供のように八雲先生をかわいがり、奥園さんに預けていたと言う。
院長婦人の母親は、八雲先生は心臓が弱いのだから、子育て経験者である奥園さんと自分が育てた方が良いといって、院長婦人に八雲先生を抱かせたがらなかったらしい。
そして、院長婦人に二人目を産むように言うようになった。
自分のおなかを痛めて産んだ子供を抱けず、毎日、泣き続けていた院長婦人に、病魔が襲った。子宮ガンだ。気がついたときには、子宮を全部摘出しなければならない状態になっていたと言う。卵巣まで失い、二人目は絶望的になった。
院長婦人の子宮を摘出すると、クローンを作ろうと院長婦人は言い出し始めた。二人目を産むことは、もうできない。ならば、あの子のクローンを作ろうと。八雲先生に何かあったときのためにも、クローンを作るべきだと。
院長は、最初は反対した。強く反対していたのだが、院長の父親にその話が伝わると、院長の父親は、二つ返事で賛成したと言う。
院長の父親は、産婦人科医。院長と二人で、クローンを作ることにした。
そのためには、子宮が必要だと言うことで、私の両親に白羽の矢が立ったと言う。両親は、最初こそ断っていたのだが、最終的には承諾し、私が生まれた。
院長夫妻は、女の子である私が生まれたので、裏切られたと思ったそうだ。そして、両親を痛烈に非難したらしい。しかし、両親は院長たちに言われたとおりにしたと言い、しっかりと検査をして欲しいと申し出た。そこで、本当にクローンであるかどうか、徹底的に検査をした。そして、どこをどう検査しても、私は八雲先生のクローンとしか考えられないと言う結論に達した。
院長婦人は、私が成人するまで大事に育てるように両親に約束したと言う。しかし、成人したあとも、私の両親は私を手放そうとはしなかった。
それでも、自分たちの病院の近くに住んでいるという事もあり、強引なことをすることはなかった。
私が、交通事故で、偶然あの病院に入院することになり、このタイミングで引き渡してもらおうと言うことになった。
「それで、突然、私に全てを話してくれたんですね」
うなだれながら話す院長に、私は話し掛けた。気がかりだったことが、全て明らかになった。そして、院長婦人は想像以上に、辛い経験をしているということも。
「だけど、なぜ、私にロボトミーのことを話したんでしょうか?」
これだけは、どうしてもおかしいと思った。私にそのことを話せば、私がここから逃げることも考えられる。それに、一週間の猶予まである。どう考えたって、おかしいではないか。
「私が、話そうと言ったんだ。どうしても、君には逃げてもらいたいと思ってね。ロボトミーを施すことを言い出したのは、家内の方だが」
握りこぶしを作り、肩を震わせながら院長が言った。
「院長は、手術を行いたくないと言うのなら、なぜ、反対しなかったんですか?」
「・・・・・・反対は、したんだ。しかし、家内はどうしても駄目だと言った。これを拒めば、家内の実家からの援助を一切断ち切ると言われたんだ。そんなことをしたら、あの病院から産婦人科や小児科、救急医療がなくなってしまう。これら三つの科は、赤字なんだ。家内の実家の援助があってこそ、やっていけているんだ。その援助がなくなったら、患者たちはどうなる? 困っている患者は、たくさんいるんだ。患者たちのためにも、そんなことをするわけにはいかない」
院長は、声を詰まらせた。あの病院には、産婦人科も小児科もある。最近では、どちらも数が少なくなっているとか。そのどちらも問題なく、医師も看護士も十分に確保してやっているんだ。それは、院長婦人の実家からの援助があるからこそできていた。
「それに、私がやらなければ、父が行うと言っていたんだ。父は、院長の座を退いたとは言え、まだまだ現役で医師を続けているんだ。だから、私が断っても意味がないんだ」
院長は、今にも泣きそうな顔をしている。
「私には、何の力もない。だから、こんなことくらいしかできなくて。本当に、申し訳ない」
そう言うと、院長は私に深々と太ももに鼻がつきそうなくらいに頭を下げた。
「謝らないで下さい。これは、運命なのですから。それより、さっきのお願いをどうか聞いてもらえませんか?」
しばらく頭を下げていたのだが、院長は、ゆっくりと頭を上げて、私を虚ろな目で見た。
「本当に、いいんだね?」
静かに、私は頷いた。
アルバムは、次の日、すぐに届けられた。院長から、アルバムを受け取ると、私はすぐにそれを机の上に広げた。懐かしさがぎっしりと詰まっている。初めて旅行に行った箱根の写真や、野球が好きな兄のために、家族そろって東京ドームに野球を見に行ったときの写真、私の成人式の写真まである。
院長は、私の横で、アルバムを覗き込んでいた。私は、隠したりせず、院長にも見えるようにアルバムを広げた。
「幸せだったんだね」
「えぇ。兄は、私にとても優しくしてくれました。幼い私が、泣いて帰ってくると、兄は私の頭を撫でてくれたんですよ」
無意識に、懐かしい家族の思い出を話していた。すぐにまずいと思い、院長を見上げると、院長は複雑な表情を浮かべていた。
「気にしないで下さい。今では、兄も結婚して離れて住んでいますし」
すぐに、アルバムに目を落とし、焦りながら言った。かえって、院長を心配させてしまったような気がした。
「いい家庭に恵まれたんだね。実は、アルバムを取りに行った時に、ご両親にロボトミーのことを言ったんだよ。大変、悲しまれていたよ。あまりにもひどすぎると、怒鳴られてしまったよ。どうか、それだけは止めて欲しいと、泣きながら言われてね。ご両親は、本当に杏さんを思っていらっしゃるんだね」
苦笑しながら、院長は話してくれた。
両親の耳に、ロボトミーの話が入ってしまったんだ。できることなら、言わないで欲しかった。両親には、私はここで幸せに暮らしていると、思っていて欲しかった。
「今は、家内もいない。私は、奥園さんとゆっくりと私の部屋で話をしようと思う」
院長は、そう言うと、私の肩に手を置き、何か念を押すかのようにその手に力をこめた。とても温かい手。八雲先生の手を思い出してしまった。
そして、院長は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。哀愁のある背中。そこには、強い願いがこめられているように感じた。
きっと、私に逃げて欲しいのだろう。そうでなければ、あんなことは言わないはず。これが、院長先生なりの親としてのやさしさなのかもしれない。
私が、手術を受けることで、みんなが幸せになるんだ。それに、私がこの世に生まれてきたのは、八雲先生を助けるため。それを全うしないといけないんだ。
来週の今ごろは、このアルバムを見ても何も思わなくなっているのかもしれない。
その日は、あっという間に訪れた。
目覚し時計をかけたりしなかったけれど、やけに早く目がさめてしまった。時計を見ると、まだ午前五時。ベッドから出ると、いつもと変わらず、顔を洗った。普通に顔を洗おうと思っているのに、その手が震えているのがわかった。石鹸で、うまく泡立てようとするのに、手が震えてうまくいかない。石鹸は、するりと私の手からすぐに落ちてしまう。石鹸を拾って、また、泡立てようとするけれど、すぐに石鹸は床に落ちてしまった。何とか泡が立ち、それを顔中に塗るけれど、謝って目に泡を入れてしまいそうになった。昨日までは、こんなことはなかったのに。
直前にそれが迫り、私は急に怖くなってしまったみたいだ。
いつも以上に丁寧にすすぎ、タオルを強く自分の顔に押し当てた。
何とか、顔を洗い終えて、自分の部屋でそのときを待つことにした。ベッドに座り、ベッドの脇においてある段ボール箱に入っている自分で折った鶴をじっと見つめた。
突然、騒がしい音が聞こえてきた。とうとうその時が来てしまったようだ。私は、迎えが来るのを待った。扉の奥をじっと見つめて。
足音が近づいてきた。静かな廊下から、足音がこだまする。私は、固唾を飲んで、扉が開くのをじっと待った。鼓動が、どんどん早くなる。そして、恐怖心もどんどん高まっていく。どうせなら、早く済ませて欲しいとさえ、思うようになってきた。
扉が開き、私は一度、目を瞑った。そして、ゆっくりと眼を開けると、見知らぬ男性がいた。
院長が、極秘で行うはずなのに、どうして違う人が来たのだろう? 不思議に思ってその男性を見ていた。
「野高杏さんですね。署まで、ご同行願います」
知らない男性が、冷静な表情を崩さず言った。
わけがわからないまま、男性に腕をつかまれて、私は部屋から出された。
「一体、どういうことですか?」
腕を強くつかまれたまま、私は男性に尋ねた。
「実は、あなたのご両親から通報がありましてね。あなたが監禁されていると言われました。それに、あなたがクローン人間であるとまで言っていましてね。詳しいことを署で、聞かせて欲しいんですよ」
両親が、通報した?
信じられなかった。私が、クローンであることを警察に言ってしまったのだ。そんなことをしたら、両親はどうなってしまうのだろう? クローン人間を無理やりではあるが、産んでしまったんだ。私のために、両親は自分たちのことを省みずに、通報したのだろう。
階段を上ると、そこには、抵抗する院長婦人がいた。警察官が手をこまねいている。
その後ろには、観念したのか肩を落とす院長の姿があった。そして、玄関には八雲先生の姿が。八雲先生も警察署に連行されるらしい。
静かに、私は警察官に連れられて外に出ようとすると、玄関にいた八雲先生が、私に話し掛けてきた。
「杏さん。よかったよ。これで、君の身に危険が及ぶことは、もうないだろう」
安堵の表情ではあるが、その瞳の奥には、悲しみが見え隠れしていた。
「どうして、ここに?」
「両親を止めようと思ってね。でも、その前に杏さんのご両親が、助けてくれていたようだ」
いるはずのない八雲先生に、質問をすると、八雲先生は私をじっと見つめて私の質問に答えてくれた。いつもの優しい瞳で、声で。
外に出ると、覆面パトカーが何台も止められていた。それらを珍しそうに眺め、私は一番後ろの車に乗った。一番前の車に院長が乗り、次の車に院長婦人、その後ろの車に八雲先生が乗った。
後部座席に警察官と並んで座った。なんだか、妙な気分だ。
空は、いやみなくらいに青く晴れ渡っていた。まぶしい光が、車内に入り、それに面食らっていると、車は静かに動き出した。
無言の車内。私は、外に目をやらず、下を向いていた。
私は、両親は、みんな、これからどうなってしまうのだろう。みんな、離れ離れになってしまうのだろうか?
私と八雲先生は、二度と会うことはないのだろう。さっき交わした言葉が、最後の言葉になると思う。同じ歯車を持っているのだから、また、会えるかもしれない。なのに、私はあの言葉が、最後のような気がしてならない。
八雲家の門を出ると、私は顔をあげた。前の車両の後部座席にいる八雲先生が見えた。八雲先生の後頭部を見ていたら、八雲先生との思い出が、走馬灯のようによみがえってきた。
初めて会った日のこと、初めてのデート、その腕のぬくもり、腕も唇も全てを。
あんなに医者を嫌っていた私が、ここまで医者である八雲先生に心を奪われてしまうなんて。こんな自分を嘲笑った。
小さいころから、医者はみんなうそつきだと思っていたのに。全く医者を信用なんてしていなかったのに。パン屋のはす向かいのクリニックの先生のことだって、好きにはなれなかったのに。
もう一度、ゆっくりと八雲先生と初めて会ったときのことを思い返した。
鋭い日差しの中、ふと窓の外を見た。車は、少し広い通りを走っていた。両サイドには、街路樹が等間隔に植わっていた。まだ、朝早いこともあって、人影はほとんど見られない。
朝もやの中、信号が赤に変わり、車が止まった。
私は、相変わらず外を見続けていた。交差点の角に、パン屋があった。もちろん、私が以前勤めていたところではない。こじんまりとした、とても小さなパン屋だ。あのパン屋の目玉商品もクロワッサンだったらと祈っていた。
今ごろ、兄夫婦は、どうしているだろう。まだ、夢の中にいるのだろうか。
信号が青に変わると、車はゆっくりと進みだした。
同じ速度で、四台の車が並んで走っている。外から見たら、異様な光景に見えるのだろう。
スーツをビシッと着た警察官に囲まれて、私が肩身を狭くしている。そこには、会話などない。無機質な空間の中、警察官越しに見える窓から外の景色を私は見ていた。
視線をもう一度、正面に向けた。そして、八雲先生の後頭部をじっと見つめた。決して振り返ろうとしない八雲先生に吸い込まれるように。心の中で、素直な気持ちをつぶやいた。「あなたのことが、好きです」と。
周りの景色に目を向けることなく、鋭い日差しを浴びながら、一生、その姿を目に焼き付けるかのように、まっすぐに正面を見続けた。
以前あるコンテストに出して落選した作品を少し直してみました。
よろしければ、感想を聞かせてもらえたらと思います。