愛の行方
八雲先生は、私がここにいることを知っている。
一つ屋根の下に暮らしているのだから、こんな日が来てもおかしくはなかったんだ。しかし、思った以上にその日は、早く来てしまった。まだ、心の準備も何もできていないのに。
私と八雲先生の関係を知っているのは、兄だけだ。他の人は、私たちの間に、恋愛感情があることを知らない。兄が、今の状況を知ったら、なんて言うだろう? 優しく頭を撫でて、温かい言葉をかけてくれるだろうか。兄のぬくもりを想像しながら、この生活に耐えていこう。
何事もなかったかのように、私は奥園さんと一緒に、家の中を掃除する。ほこりひとつ残さぬように、丁寧に。業者が来るからと言って、手を抜くわけにはいかない。院長婦人の厳しい目があるのだ。
特に慎重に行わなくてはならないのが、絵画や骨とう品だ。ここに来るまで、見たことがないようなものばかり。廊下や、応接間などに、そこにあるのが当たり前と言っているように、どっしりと飾られている。
それらに、ほこりがつかないように、毎日、丁寧に掃除をする。奥園さんと二人だから良いけれど、ここに院長婦人がいたらと思うと、手が滑ってつぼを落としそうになるくらいに緊張してしまう。
私が掃除したところは、奥園さんが最終チェックをする。今日も、奥園さんのチェックが入る。
「もう、私がチェックしなくても大丈夫なようね。明日からは、チェックするのは止めましょう」
奥園さんは、私が掃除した絵画などを見て、腕を組み、うんうんと頷いてそう言った。チェックのときは、優しい奥園さんでも厳しい目に変わる。その目で見て、お墨付きがついたんだ。明日からは、チェックなしになる。ほんの少しだけ、自信がついた気がした。
掃除を終えると、院長婦人に呼ばれて、院長婦人の部屋へ奥園さんと二人で向かった。掃除道具をしまい終わると、急いで向かった。
院長婦人の部屋の前で、二人そろって立ち止まり、奥園さんがノックをすると、「どうぞ」と言う院長婦人の声が聞こえたので、奥園さんを先頭に入った。
中に入ると、院長婦人が、中央にある応接セットの豪華なソファに腰をおろしていた。その後ろで、腕組みをし、神妙な顔で立っている八雲先生がいた。
「まあ、座って頂戴」
やけに機嫌がよく、不気味な感じのする院長婦人に促されて、私と奥園さんは院長夫人の正面に座った。
「どうかしたんですか? 奥様、今日は、とてもご機嫌でいらっしゃるようですね」
「わかる? 今日は、お二人に、おめでたいお話があるのよ! 健太郎、いらっしゃい」
奥園さんの言葉に、院長婦人の顔は一層朗らかになった。そして、後ろにいた八雲先生を手招きしてソファの横に立たせた。院長婦人は、立ってないで座るように促し、八雲先生は私の正面に座った。
「実はね、健太郎のお見合いが決まったのよ、フフ!」
目を細めて、笑顔を振りまく院長夫人。その横で、青白い顔をしている八雲先生。二人の対照的な顔。私も、素直にうれしい顔ができなかった。院長婦人が目の前にいることを考えると、ここは喜んだ顔をしなくてはならないと思い、強引に口角を上げ、目を細めて私は、拍手を送った。
「あら、ありがとう」
私の拍手に、院長夫人は初めてお礼を言ってくれた。
「奥様、お相手は、どんな方ですの?」
「それがね、製薬会社の社長令嬢なのよ! 健太郎の写真を見て、一目で気に入ってくださったの! 今日の午後、こちらに来てくださるそうなの! さっき、電話をいただいてね。今日、時間ができたから、ぜひ会いたいって!」
院長婦人と奥園さんは、八雲先生のお見合い相手の話で、大盛り上がりだ。私もその輪に加わるべきとは思うけれど、なかなかその輪には入れない。
ちらちらと、真正面にいる八雲先生を見ると、ずっと俯いている姿ばかり。下を向いて手を組んで、肩をかすかに動かしている。このお見合いを快く思っていないのが、その表情を見れば、誰だって一目でわかる。
その理由が、私がいるからなのかと思うと心苦しくて仕方がない。八雲先生に向けていた視線を、ゆっくりと院長婦人の方へと移した。
「健太郎。どうしたの? こんなにうれしい話なのに、どうしたって言うのよ?」
さすがの院長婦人も、全く笑おうとしない八雲先生に痺れを切らしたようだ。上ずった声ではあるが、強い口調で八雲先生に言った。
「僕は、結婚なんて・・・・・・」
少し焦っているような小さな声で、八雲先生は、院長婦人に応戦していた。
「何を言っているのよ! こんなに良い話なんて、他にはないわよ! あなただって、そろそろ結婚したっていい年でしょう? 何を迷う必要がありますか!」
興奮している院長婦人。確かに、話を聞く限り、こんなに良い話はない。相手は、社長令嬢で、八雲先生を痛く気に入っている。喜びのあまり、時間が空いたからと言って、すぐに会いにきてくれるほどだ。八雲先生には、どうかこの結婚を喜んで欲しい。八雲先生の喜ぶ姿を見ることで、私も心からこの結婚を喜ぶことが出来ると思うから。
お昼前に、八雲先生のお見合い相手が来た。私と奥園さんは、車寄せで待ち構え、お見合い相手である望月さおりさんを出迎えた。
社長令嬢と言うことで、やはり、リムジンで来た。運転手がリムジンのドアを開けると、望月さんが現れた。白く透き通る肌、清潔感のある白のワンピース姿、風になびくロングの黒髪がバラの香りを放っていた。品のある、とても女性らしい人だ。
望月さんと軽く挨拶を交わし、奥園さんが先頭にたって望月さんを応接室に案内した。私は望月さんの後ろを歩いた。応接室には八雲先生が一人で待っていた。悲しげな表情を浮かべる八雲先生とは対照的に、望月さんは子供のようにはしゃいで八雲先生の方へと駆け寄った。
その光景を見届けると、私と奥園さんは応接室を後にした。
「小柄で、かわいらしい人ね」
応接室から離れ、調理場に行く途中の廊下で、奥園さんが微笑みながら思い出しつつそう言った。
「えぇ、そうですね」
「八雲先生とお似合いだったわ。このお話が、うまくいくと良いわね」
奥園さんは、心底そう思っているのだろう。さっきから、ずっと笑顔を絶やしていない。
窓からさす光に照らされて、奥園さんの横顔が、よく見える。その顔は、わが子が結婚するような喜びに満ちていた。
こんなにおめでたく、うれしい話なのに、私はどうしても心から喜んであげることが出来ない。早く、吹っ切らないといけないって、毎日、自分に言い聞かせているのに、なかなか吹っ切れないでいる。
望月さんは、それからちょくちょく八雲先生に会いに来た。家だけではなく、病院にも顔を出しているようだ。八雲先生とは、ほとんど顔を合わせることはないけれど、院長婦人がうれしそうに大きな声で話しているのを、何度も聞いた。
八雲先生と一緒の食事時になると、決まって食堂で、院長婦人は八雲先生に望月さんの話をする。八雲先生の声は、聞こえないけれど、院長婦人の声は甲高く、大きいので、調理場にいる私たちにまで聞こえたのだ。
「今日も、望月さんは八雲先生に会いに行ったのね」
「よほど、気に入っているんでしょう」
そんな話をしながら、調理場で奥園さんと話をするのが、習慣となってしまった。
私自身、何も変わらない毎日を過ごしていた。朝起きて、奥園さんと合流して、朝食を作って、食べて、家中の掃除をして、洗濯をして。休みなんて、一日もない。ずっと、八雲家の中にい続ける。庭に出るときだけが、外の空気を吸える瞬間だ。
自分の部屋は、地下の悲しい場所にある。誰もが、近寄りたがらないだろうと思われるような場所。そんなところに、夜、一人でいるのは想像以上に怖い。
お風呂やトイレに行くときは、薄気味悪い廊下に出なくてはならない。隣にあるとは言え、暗くひんやりとした空気が漂っている廊下に足を踏み出す怖さになれることはない。
私は、早めにお風呂に入り、早く寝るように心がけている。
今日は、早く夕食が終わったので、お風呂にも八時過ぎには入れた。お風呂は、リフォームしてあるのか、壁一面が白くて清潔なお風呂だ。小さなバスタブにお湯を入れ、肩まで入ると体の芯がぽかぽかと温まってくる。
ぬるめのお湯に、ゆっくりとつかると、なんだか疲れが全部抜けていくような気がする。極楽極楽といったため息が、毎日のように出る。
真っ白い壁を見ると、自分の心も真っ白になるような気がした。
お風呂から上がり、お気に入りの緑のパジャマに身を包み、ぬれた髪をタオルで拭きながら、急いで部屋に戻る。
ドアを開けると、ガチャリと大きな必ず音がする。この音を聞き、中に入ろうとすると、信じがたい光景を目にしてしまった。ドアを開けたまま、ドアノブを軽く握り締め、髪を拭いていた手は止まった。あまりの衝撃に、どうしていいのかわからない。金縛りにあったことはないけれど、金縛りにあったかのように、私はその場で動くことができなくなっていた。
その私に気づき、ベッドに座っていた八雲先生が、すっくと静かに立ち上がると、私をまっすぐに見つめ、強く私を抱きしめた。
「会いたかった」
私の耳元で八雲先生がささやいた。私の全身から力が抜けていくと、ドアが大きな音を立てて閉まった。
いけないと自分に強く言い聞かせ、私は八雲先生から離れた。
「どうして、ここに?」
「自分の気持ちを確かめるためだよ。やっぱり、ここに来てよかった。僕にとって一番大切な人は、君だと言うことがはっきりとわかったよ」
嬉しい言葉なのに、素直に受け入れることは出来ない。
八雲先生の言葉をかき消すように、急いで顔の手入れをはじめた。
「あの結婚は断るつもりだ。愛のない結婚なんて、僕には出来ないから」
鏡越しに映る八雲先生の顔は、真剣だった。真剣なその視線から逃れるように、私は自分の顔だけを鏡の中で見ていた。
「先生と望月さんはお似合いですよ。こんなにいい話、他にはないじゃないですか」
八雲先生が他の女性と結婚すれば、私のこの想いだってきっと水の泡のように消えてなくなる。
顔の手入れを終えると、髪を解かし、ドライヤーをかけた。大きなドライヤーの音だけが聞こえる部屋。八雲先生は黙ったまま、鏡越しに私の顔を見続ける。それに気付きながらも、私は髪を乾かすことだけに専念した。髪が乾いたところで、私は八雲先生に体を向けた。
「もうここには来ないで下さい」
「それは出来ない。僕は、また、ここに来るよ」
そう言うと、八雲先生が部屋を出た。
ようやく八雲先生の熱い視線から解放され、疲れた体をベッドに静めようとしていると、枕元に小さな箱が置いてあることに気がついた。ベッドに座り、箱を開けてみるとダイヤの指輪が入っていた。箱の中に入っている小さな紙切れを広げてみると、
この指輪は八雲家のお嫁さんに代々受け継がれている指輪だ。次は、君の番だよ。
私の番? 同じ遺伝子を持つ私たちは、決して結ばれてはいけないはずなのに。それよりも、そんなに大事な指輪を私に渡すだなんて。どうかしてる、八雲先生は。
早く、指輪を返さなくては。
急いで部屋を出て、一階に上がると偶然にも院長婦人と出くわした。
「こんな時間に何をしているんです? 夕食が終わったんですから、自分の部屋から出ないでちょうだい」
院長婦人の鬼のような目に体がすくみ、そのまま自分の部屋へと戻った。
八雲先生と望月さんの結婚話は、着実に進んでいった。望月さんは、八雲先生をひどく気に入り、絶対にこの人でなければと言うほどだった。しかし、八雲先生は相変わらずで、望月さんとの結婚に良い顔をしてはいない。
「健太郎さん、結婚式のことなんだけど・・・・・・」
そんなことを言っては、何度も望月さんはスキップを踏むように八雲家へと足を運んだ。私は、それを横目で見ていた。
望月さんが、色気のあるドレスを身にまとい、八雲先生と無理やり腕を組んでも八雲先生の顔色が変わることはなかった。
二人が並んでいる姿は、美男美女で、とても似合っているのに。
「あの二人、お似合いだと思うんだけどなぁ。健太郎さんは、この結婚を望んでいないのかしら?」
庭を歩く二人の姿を廊下のガラス越しに見て、奥園さんが言った。
ガラスの向こうの二人は、とってもお似合いなのに、八雲先生は望月さんとくっつこうとしない。それを必死に追う望月さんが、愛らしく見えた。
「ねぇ、野高さん、あの二人、結婚するかしら?」
難しい質問をされてしまった。
「すると思いますよ」
軽く笑みを浮かべて、そう言った。
あの二人は、きっと結婚する。というより、結婚して欲しい。それが、私の願いだ。
――どうか、結婚して、幸せな家庭を気づいてください。私は、ここでそれを見守り続けます。
その言葉を庭で逃げ回っている八雲先生に、無言でささげた。
エプロンのポケットの中には、いつでも返せるようにと大事なあの指輪が入っていた。しかし、なかなか八雲先生と二人きりになれず、いつまでたっても指輪はポケットの中から外に出ることはなかった。
奥園さんが、休みの日。
奥園さんは、家庭があり、大きな子供もいる。結婚したときや、子供を産んだときは、長期でここを休んだこともあったそうだが、子供が成人した今は、週五日、ここで働いている。
土日は、絶対に休ませて欲しい。祝日も休ませて欲しいと言うことで、土曜日である今日は奥園さんは休んでいる。
奥園さんがいないときは、絵画や骨とう品の掃除はしない。チェックをする必要がないとは言え、奥園さんがいないと不安で仕方がない。
今日は、一人で朝食を作り、後片付けをし、掃除をしなくてはならない。洗濯だってそうだ。しかも、今日は八雲先生もお休み。その上、望月さんが、夕食を食べにやってくるそうだ。
八雲先生と奥園さんの休みが一致したのは、今日が初めてだ。今日こそは、あの指輪を返すことが出来る。二人きりになったら、すぐにあの指輪を返そう。
応接室の掃除をはじめると、八雲先生が中に入ってきた。今がチャンスだ。私の方へと近づいてくる八雲先生。私は、エプロンのポケットから指輪を取り出した。
「これ、返します」
八雲先生に指輪を差し出したが、八雲先生は受け取ってはくれない。
「その指輪は、君に持っていて欲しいんだ。僕の一番大切な人に持っていて欲しいんだよ」
優しく潤んだ瞳で私を抱きしめると、今度は私の体を抱きしめた。温かい八雲先生の体温を感じた。許されない恋なのに、とても居心地のよい場所。
突然、応接室の扉が開いた。
私の背筋は、凍りつき、そちらを見るのが恐ろしくなった。一体、誰が来たと言うのだろうか。
「何してるのよ。・・・・・・何してるのよ!」
怒鳴り散らす声に、私は、ひとつ息を飲み、そちらを向いた。扉の前には、仁王立ちの望月さんがいた。鬼の形相で、私をにらんでいる。それでも、八雲先生の手は離れない。
「わかっただろ。僕が、君との結婚を望まない理由が。僕たちは、愛し合っているんだ。他の人と結婚する気はない」
はっきりと言い切った八雲先生。望月さんは無言で、扉を閉めずに出て行ってしまった。
とうとう、兄以外の人に、私たちの関係がばれてしまったのだ。しかも、望月さんに。八雲先生のフィアンセに。これは、ただではすまないだろう。
力が抜けたかのように、八雲先生の体が離れた。近くのソファに、ドシンと音がするほど乱暴に座り、八雲先生は頭を抱えた。
「ごめん。本当に、悪かったよ。とっさに、あんなことを言ってしまって。本当に、彼女とは結婚する気はないんだ。だからと言って、正直に君との事を話してしまうなんて。申し訳ない・・・・・・これから、どうなるかはわからないけれど、僕が君を守るから。何があっても、僕が君を守るよ」
力のない目で、私を見て、八雲先生は言った。その瞳に力は感じられなかったけれど、心は感じられた。
いつか、こうなることはわかっていたはず。自分自身、それを覚悟していたはず。一度でも、八雲先生を愛してしまったのだから。そして、八雲先生を激しく私を愛したのだから。
「先生、私はどうなったってかまいません。それは、私がクローン人間だと聞かされたときに、覚悟していたことですから。先生は、ご自分を大切にしてください。私のことなんて、守らなくていいんです」
八雲先生は、顔を赤らめ、ソファから立ち上がると、私の目の前に立った。
「僕は、君を・・・・・・」
「ここを出てください。掃除の邪魔です。早く、出て行ってください。お願いします」
私は、目を潤ませ、涙声で八雲先生に訴えた。根負けしたのか、八雲先生は肩を落として出て行った。
応接室の掃除が終わり、廊下を歩いていると、頭に血を上らせた院長婦人と望月さんが、バタバタと走って私のところへやってきた。
すでに、望月さんは八雲先生とのことを話したに違いない。さっき、望月さんが応接室を出たあと、院長婦人と話をしていたのだろう。
「野高さん! 聞きましたよ。あなた、なんて事をしてくれたんですか! しばらく、自分の部屋から出ないように! わかったわね!」
火山が噴火したように見えた。それくらい、すさまじい怒りを院長婦人は、私にぶつけたのだった。
望月さんも、私に鋭い眼光を突きつけた。それが、胸に突き刺さり、私の胸はひどく痛んだ。
言われたとおり、私は、すぐに、自分の部屋に戻り、自分の部屋から出ないことにした。
院長婦人は、「しばらく」と言っていた。それは、どういう意味だろう? 「ずっと」と言うのなら、わかるけれど、なぜ、「しばらく」なのだろうか。
対応を決め次第、ここを出て、何かしらの処分が下されるのだと思う。
どんな処分が下されるのか。
私は、唯一の八雲先生のクローン人間なのだから、殺されると言うことは考えられない。だとしたら、一体、何をするのだろうか?
二度と、八雲先生に会わないようにするとか。でも、それは可能なことなのだろうか? 八雲先生の身に、何かがあったときには、私の体が必要になるのだから。
全く想像がつかない。しかし、末恐ろしい。冷や汗が、私の背筋を伝った。
他に何もすることがなくなり、自分の処分のことが気になって仕方がない。薄暗い電灯に映し出された、黄ばんだ壁をじっと見つめては、処分のことばかりを考えていた。