新しい生活
ギプスが外れると、すぐに退院することになった。八雲先生も両親も私を早く、病院から出るように説得したけれど、私はそれには応じなかった。院長夫人の計画通りに、私は進むことに決めたのだ。退院の日を決めたのも院長婦人だった。
退院の日は、誰にも告げないようにと院長婦人に言われた。八雲先生すら知らないようだ。私は、約束どおり、誰にも退院の日は告げなかった。
退院の日、院長婦人に連れられて、病院前においてあるリムジンに乗り込んだ。初めて間近で見るリムジン。初めて乗るリムジン。私が、乗ってもいいのだろうかと思うくらいにまぶしかった。
リムジンに乗ると、行き先も告げられず、どこに行くのか見当もつかず、ただ、リムジンに揺られるだけだった。
もう二度と、先生には会えないのかな。
リムジンから外の景色を見ては、そう思った。病院を出ると、思い出の公園を通り過ぎた。たった一瞬しか見えなかったけれど、八雲先生と内緒で行ったあの公園だ。あの日のことを思い返した。どこに連れて行かれるのかわからない中で、ドキドキしながら、八雲先生が車椅子を押してくれたんだっけ。あのときの気持ちが、にわかによみがえった。
あの日の空は、今日のように雲がぷかぷかと浮かんでいただろうか。青い空に、気持ちよさそうに浮かぶ白い雲を見ながら、あの日の空を思い出そうとした。
しかし、思い出されるのは、八雲先生の温かい笑顔ばかり。空なんて、全然覚えていない。私は、八雲先生ばかりを見ていたようだ。
リムジンの中で、私は後部座席に座った。運転席の真後ろだ。院長婦人は、助手席に座っている。後ろから見る院長婦人は、正面から見たとき以上に妖艶で恐ろしさを感じた。
「杏さん」
院長婦人の不気味な後頭部を見ていると、突然話し掛けられた。バックミラーにでも、私の姿が写っていたのだろうか?
「何でしょうか」
何も悪いことをしていないのに、心細い声で答えてしまった。
「今日からは、我が家の召使をしてもらいます。他にも召使がいるので、詳しいことは彼女に聞いてください。そして、あのことは、決して口外しないように」
全くこちらを見ないで、院長婦人は強い口調で話した。顔を一切見ていないのに、恐ろしく目を吊り上げている院長婦人の顔が、頭に浮かんだ。
あのことと言うのは、きっと、私がクローンだということだろう。言われなくても口外なんてする気はない。
何時の間にか、車は私の知らない場所を走っていた。
見たことのない場所、見たことのない景色に目をやると、高級住宅街が目に入ってきた。どの家も、頑丈な塀に囲まれ、立派な建物がその中にあった。大きな庭がある家もあった。それらの庭には、手入れの行き届いた樹木が植わってあった。庭のある家は少ないけれど、目移りしそうなほど、どの家も誰もがうらやむくらいに広く、豪華な家だった。
その中でも、ひときわ大きい家があった。塀が見えるのに、なかなか門が見えてこない。一体、どこに門があるのだろう? どんな人の家だろう? わくわくしてその家の門を待っていると、リムジンはその家の門の前で、一度止まった。数秒後、門が開くと、リムジンは当然のように吸い込まれるように門の中へと入って行った。
もしかして、ここが八雲家なのだろうか。こんなにすごい家に住んでいるのだろうか。院長婦人の身なりを見ると、この家が八雲家なのも頷ける。
門を入ると、広くて、整えられた庭が現れた。庭師に整えてもらっているのだろうと、容易に想像できるほど、木々は全て手入れが施され、綺麗な芝が庭銃を埋め尽くしていた。
車寄せにリムジンが到着すると、玄関にはすでに中年女性が待っていた。
運転手が、すぐに車を降りると、助手席に回り、院長婦人をエスコートした。私は、後部座席からそれを見て、院長婦人が車から降りて、ドアが閉まってから、自分で車から降りた。
「お帰りなさいませ、奥様」
玄関の中年女性が、院長婦人に会釈をしながらそう言った。やはり、この人は召使に違いない。院長婦人の斜め後ろでその光景を見ていた。
「奥園さん、今日からあなたと一緒に召使として働いてもらう野高さんです」
「はじめまして」
ついて早々、院長婦人は、私のことを召使の女性に紹介した。彼女は、奥園さんと言うらしい。奥園さんは、院長夫人とは正反対に、優しく目が垂れ下がり、温かい視線を私に送ってくれた。
建物の中に入ると、院長婦人と別れ、私は奥園さんと一緒に行動することになった。
まず、荷物を置くこともあって、奥園さんに私が寝泊りする部屋に連れて行ってもらった。その部屋は、建物の地下にあった。行ったことはないけれど、テレビなどで見る西洋の豪華な洋館と言った建物には、じゅうたんが敷き詰められ、足音が聞こえない。外の庭は、和の雰囲気だったのに、この建物は、日本にいることを忘れさせた。
建物の中は、明るいところばかりなのだが、地下への階段は、薄暗かった。じゅうたんも敷いていない。コツコツと奥園さんと私の足音が響き渡った。
階段を下りると、やはりそこは薄暗かった。電灯はついているけれど、決して明るくはなかった。地下は、倉庫なのだろう。扉がたくさんあるけれど、そこにはワインやら食料などの札が下がっていた。
廊下の一番奥の部屋に着くと、ここが、私が寝泊りする部屋だと言われた。中に入ると、あまり広くはなく、と言うよりも狭いと言った方が良いくらいの広さの薄暗い部屋だった。
ほこりまみれの机と古くなったベッドが置いてあった。ベッドの横には、一人用の荷物がやっと入るくらいの薄汚れた洋服ダンスがあった。
「ごめんなさいね。きれいにしておきたかったんだけど、まさか、野高さんが、ここで寝泊りするとは思わなかったから。今朝、急に奥様に言われてね。もっと早く言って下されば、きれいにしておけたんだけど」
奥園さんは、苦笑いを浮かべながらも申し訳なさそうに言った。
「良いんですよ。自分で掃除しますから」
掃除道具を借りて、すぐにでも掃除をはじめようと思ったのだが、その前に、この建物を案内してもらうことになった。
建物は、三階建てで、大広間やら院長婦人の部屋、院長の部屋から、お風呂・トイレはもちろん、調理場など隅々まで案内してもらえた。
その中には、八雲先生の部屋も含まれていた。八雲先生は、この家に住んでいるのだ。ご両親とは、部屋は離れていたが。
廊下には白い壁に大きな絵が何箇所にも飾られていて、大きく使い込んだと思われる古時計まであった。手入れが行き届いているからか、その古時計は今も時を刻んでいる。どれをとっても、テレビに出てきそうなものばかりだ。何か、自分だけが浮いた存在のような気がしてならない。
一通り案内してもらうと、私の部屋に戻り、奥園さんと二人で掃除をはじめた。
「野高さん、さっきからずっと気になってたんだけど、奥様のことを怖がっていないかしら?」
奥園さんは机の上を丁寧に拭きながら、私とは少しも視線を合わせずに言った。そう、私は、院長夫人を怖がっている。人のあたたかさを感じない院長婦人とは、あまり会いたいとは思わない。それを奥園さんは、一目で見抜いてしまっていたようだ。
「わかりますか?」
天井のほこりをはらいつつ、台に落ちそうになりながら、必死にそう答えた。
「あら、大丈夫? そりゃ、すぐにわかるわよ。確かに、今の奥様は、誰もが怖がっているようだしね。でも、昔はあんなに怖くなかったのよ」
奥園さんは、私がバランスを崩し、台から落ちそうになったので、それを気遣いながらも穏やかな声で話し続けた。
「昔って、奥園さんは、いつからここにいるんですか?」
「私は、奥様がここに嫁いでこられる前から、ここでお手伝いをしているのよ。だから、奥様のこともよく知っているの。旦那様と奥様は、お見合いで結婚なさったのよ。旦那様は、大病院の跡取息子。奥様は、大財閥のお嬢様。若いころの奥様は、可憐で華奢で、この家の奥様としてやっていけるかしら? と思うくらいだったわ」
可憐だの華奢だの、今の院長婦人からは、想像もできないような言葉が出てきた。
奥園さんは、机の上を拭き終わると、机の引き出しや脚、椅子をきれいに拭き始めた。
「奥様はね、とっても細くてね。今も細いけれど、昔はもっともっと細かったのよ。そのせいか、なかなか子宝に恵まれなかったのよ。そのことを大奥様にいびられて。毎晩のように泣いていたそうよ」
「跡取を早く産めと言うことですか?」
「そうなのよ。奥様は、ずっと不妊治療をなさっていてね。それで、ようやくお坊ちゃまがお生まれになったのよ。生まれたのが、男の子だったから、大奥様もそれからは何も言わなくなったわ。でもね、奥様はそれからがもっと大変だったのよ」
奥園さんは、神妙な面持ちで、動いていた手を休めて、きれいにしたばかりの椅子に腰をおろした。私も、新しいシーツを敷いたばかりのベッドに腰をおろした。
「一体、何があったんですか?」
「それがね、奥様が二人目を妊娠なさったときのことなんだけど、妊娠がわかったときは、とても喜んでいらしたのよ。でもね、その直後に子宮ガンがあることがわかったのよ。奥様は、子供をあきらめたくはないとおっしゃっていたんだけど、子供をあきらめて、手術をしたのよ。気がつくのが遅かったこともあって、子宮を全て摘出されたそうよ」
あの院長婦人にそんなつらい過去があったなんて。あんなに図太く、恐ろしい瞳の奥には、悲しい過去を隠していたんだ。
女性にとって、子宮を失うと言うことは、女性を捨てると言うことと言っても過言ではない。そのせいなのだろうか。奥園さんの話の中の院長婦人と今の院長婦人が違うのは。
「それに、奥様は自分の息子であるお坊ちゃまをあまり抱かせてはもらえなかったのよ。大奥様が、そうしたの。お坊ちゃまは、ほとんど私が育てたようなものね。それでも、大奥様の目を盗んでは、奥様にお坊ちゃまを抱かせたものよ」
「どうして、大奥様は奥様に健太郎さんを抱かせなかったんですか?」
奥園さんは、静かに腕を組み、頭を垂れて少しの間考え込んだ。
「大奥様から、理由は聞いたことがないけれど、きっと、お坊ちゃまがかわいかったんだと思うわ。旦那様を取られたショックもあって、お坊ちゃまを自分のものにしたかったのかもしれないわね。それに、お坊ちゃまは、生まれつき心臓が人より弱かったから、それもあったのかもしれないわ」
薄暗い照明の下で、奥園さんと私は話しこんだ。
八雲先生の心臓が弱いのは、生まれつきだったのだ。本人から、心臓が強くないとは聞いていたけれが。
掃除が終わると、私と奥園さんは、夕食の準備に取り掛かった。少し前までは、専門の料理人を雇っていたそうだが、その人が、自分の店を出すと言って辞めてしまったそうだ。
私たちは、食事の準備をし終えると、調理場で簡素な夕食を済ませた。
「夕食の後片付けが終わったら、今日の仕事は終わりよ。いつも、朝食から夕食までと決まっているの。私は、後片付けが終わったら帰るわね。明日は、朝食の準備をする時間に来るから」
食べながら、奥園さんはそう言った。奥園さんは、私に丁寧にこの家のことを教えてくれる。その奥園さんが、夜はいない。たったそれだけのことなのに、強い孤独感に襲われた。
私たちの夕食が終わってから、しばらくすると院長婦人の食事も終わった。その席には、八雲先生もいたらしい。食堂にはすでに誰もおらず、空の食器だけが並んでいた。
食事は必ず家族だけでするという。食堂から人気がないのを確かめてから、片付けをしなくてはならないそうだ。今日は、院長婦人と八雲先生の二人だけの食事だったらしい。
「私の作った料理は、美味しかったのかしら?」
きれいに料理を食べきった八雲先生が使った皿をまじまじと眺めて、私は無意識にその言葉を口ずさんでいた。
「きっと、喜んで食べてくださったわよ。ほら、こんなにきれいに食べてあるじゃない!」
広い食卓のテーブルの正面で皿を片付けていた奥園さんが、私に向かって空になった目の前にある皿を私に見せた。
そうよね。何を心配しているんだろう。早く、後片付けを済ませなくては。
八雲先生は、私がここで住み込みで働くことを知っているのだろうか。どうか知らないでいて欲しい。もし、まだ、そのことを知らないでいるのなら、そのまま知らないままでいて欲しい。
一つ屋根の下に暮らしてはいるけれど、この生活だったら、八雲先生と顔を合わせることはないだろう。その体温を感じることはあっても。
高級な食器を片付け終えると、奥園さんが帰ってしまった。
それから、毎日、同じようなことの繰り返しだった。奥園さんと二人で、召使としてこの豪邸を掃除したり、洗濯したり、食事を作ったり。
掃除は、軽く済ませる程度だった。月に一度、業者を頼んで徹底的にきれいにしてしまう。そして、庭師も月に一度は来てもらっている。
ただ、私にとっては苦痛の日々でしかなかった。この豪邸の外に出ることはなく、また、八雲先生とも顔を合わせることはなかった。八雲先生の衣服を洗濯したり、八雲先生が食事した食器を片付けたりするのは、心臓をえぐられるほどに悲しくて仕方のないことだった。
これが、一番良いんだと自分に言い聞かせるものの、それらを目の当たりにすると、体の奥底が熱くなってくるのだった。
奥園さんのいない夜は、とても寂しかった。地下の奥にある自分の部屋で、一人ぽっち。お風呂とトイレは、部屋のま隣にあるので、行動範囲はとても狭い。
静まり返った廊下から、誰かの足音が聞こえてきた。部屋には、テレビもラジオもないので、廊下の音は、全て響き渡ってしまう。
誰が来たのかを想像することもなく、私は扉の方を固唾を飲んで見つめた。
ノックをせず、誰かが扉を開けた。
――八雲先生・・・・・・
なぜ、八雲先生がここに? とてもこれが真実だとは思えない。八雲先生が私がここにいることを知っていたということなのだろうか?
八雲先生は、私を見るなり、扉の近くに置いてある古びた椅子に座っている私を強く抱きしめた。
「会いたかった」
涙を飲み込みながら言ったその言葉は、とても小さく私の耳に響いた。抱きしめる八雲先生の力が強すぎて、少し痛い。会ってはいけない人だと思うのに、私は素直に喜んでいる。
「先生」
声をかけると、八雲先生はその手をやさしく緩めた。
「何?」
「どうして、ここへ?」
八雲先生は、私の目の高さにあわせて中腰になった。そのおかげで、私たちは強く見つめあった。八雲先生は、私の肩を強くつかみ、私の心を吸い取った。
「今日の昼間、奥園さんにばったり会ってね。そのときに、新しいお手伝いさんが来たと聞いたんだ。名前を聞いて、驚いてね。母さんの目を盗んで、ここに来たんだ」
いつもの優しい瞳の八雲先生。その瞳を見ると、私はどうしても心が揺らいでしまう。ずっと、その瞳に抱かれてしまいたくなってしまう。
落ち着いたのか八雲先生はベッドに座った。私は八雲先生から視線をはずし、ひとつ深呼吸をした。
「先生、もうここには来ないで下さい」
静かな部屋に私の冷めた声がこだました。
「どうして? 僕は、毎晩ここへ来たいと思っているのに」
その言葉に、私の心は大きく揺さぶられた。許されるのならば、私だってそうしたい。だけど、私には大事な使命がある。決して、八雲先生に恋をするために生まれてきたわけではない。私は、八雲先生のスペアのようなものなのだから。
「私たちは、会わない方が良いと思うんです。同じ遺伝子を持ったもの同士ではないですか。近くにいることは良いとしても、顔を合わせるのはあまり良いことではないと思います」
八雲先生を飲み込むような目で、私は強く訴えた。八雲先生も私の気持ちを察してくれたのか、全身でため息をついた。
「確かにそうだ。僕だって、杏さんを想ってはいけないと思っているよ。でも、この気持ちを抑えることなんて無理だよ。今まで、こんなにも強く惹かれる人とは会った事がないんだ。同じ遺伝子を持つもの同士だとわかっても、この気持ちは全く変わらないんだよ」
私だって、同じだ。八雲先生と全く同じ気持ちでいる。だからこそ、顔を合わせたくなかった。
さっき、八雲先生が力強く抱いてくれたときのぬくもりを思い出した。やわらかく力強く私を抱きしめてくれた、温かい腕。ずっとそこにいたくなるくらいに、心地よかった。
目の前にいる八雲先生の腕を見る。その腕は、とても温かくもう一度、そこに行きたいと思ってしまうほど、男らしくたくましい。私は、いとおしそうにその腕を見てしまった。本当に、いとおしくてたまらない。
でも、もう二度とそんなことをしてはいけない。今度こそ、そこから出られなくなってしまう。
「先生、もう出て行ってくれませんか。一人になりたいんです」
何かを言いたそうな八雲先生の唇。しかし、何も言わず、八雲先生は力のない足取りのまま、部屋を出て行った。