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二つの歯車  作者: 愛田雅
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フラッシュバック

「待ってよ!」

 真っ暗な横断歩道を兄が渡ろうとしているのを見て、私は兄を引きとめようと大声を出した。しかし、兄は私の声など耳に入っていないようで、どんどん進んでしまう。

 子供のような兄の態度に、仕方なくついて行こうとした。周りを見ずに歩く兄の服をつかもうとした。危ない行為だとわかっているのに、なぜか私はそうしようと無意識に手を出してしまった。つかもうとしたけれど、一瞬私の手の中に入ったかと思うとするりと私の手から兄の服が逃げていった。

 それに落胆している私の耳に、何かが飛び込んできた。静寂を破る衝撃音。

 音に反応して一瞬、立ち止まってしまった私に気がつかない兄は、すでに横断歩道の中間地点より先に行ってしまっている。兄についていかなくてはと思い、今度は、兄の腕をつかもうと手を出して小走りに兄に駆け寄ろうとした、そのとき、


バーンッ


 私の耳を劈く音がこだました瞬間、私の体は宙を舞った。数秒程度ではあるが、確かに空を飛んだ。私の目には、真っ暗な曇り空が写った。音のない世界にいるような、全くの無音状態が続いた後、


ドサッ


 不思議な気持ちで夜空を見ていると、全身が硬いアスファルトに強く叩きつけられた。それと同時に、猛烈な痛みが体中から溢れ出した。

 背中が焼けるように痛く感じられた。

「キャーッ!」

 あまりの痛さに、腹の底から声を出した。声を出さずにはいられないほど、強い痛みが私を襲った。

 パッと目を見開くと、そこにあるのは真っ暗な夜空ではなく、暗闇で灰色になった病院の天井だった。どうやら、事故に遭った時の夢を見ていたようだ。あたりを見回すと、昼間とは違った顔をした無機質な病室だった。

 主電源が消されたテレビ、主のいないソファ、ギプスをはめた私の右足。

 昼間に見たのと同じ病室なのに、真夜中の病室は表情がまるで違っていた。どこか、寂しげに見える。時計を見ると、真夜中の三時過ぎだった。

 早く寝よう。

 布団を頭からかぶり、すぐにでも眠りにつきたいと思った。


コチコチ


 普段は、全く気にしない時計の音が、今日はやけに気になって仕方がない。聞かないようにと耳をふさいでみたけれど、かすかに音が聞こえてくる。

 早く眠りたいのに、どんどん目がさえてくる。布団を頭からかぶっているので、体温は上昇し、布団の中の空気が温まり、呼吸がしにくくなってきた。布団をはぐれば良いとはわかっているけれど、悲しげな顔をした病室はあまり見たくはない。このまま頭から布団をかぶったままでいよう。

 しかし、その考えはすぐに変わった。布団の中の空気が温まりすぎて、あまりにも呼吸がし辛くなり、我慢が出来なくなった。仕方なく、布団から顔を出して眠ることにした。


 真夜中に一度目がさめたせいか、疲れが取れないまま、私は目がさめてしまった。カーテンを開けた窓からは、さわやかな日差しが入ってくる。それを浴びても、私はなかなかさわやかな気分にはなれずにいた。

 昨日の夜見た夢を思い出してみると妙に寒気がしてくる。夢の中で起きたことなのに、まるで今、起きたことのような感触があった。忘れているはずなのに、なぜ感触があったのだろう。考えれば考えるほど、気味が悪くなってきた。

 気を紛らわせるために、テレビを見ることにした。朝食を持ってきてくれた看護士さんに電源を入れてもらったが、面白い番組がなかったので、リモコンで電源を消したので、わざわざテレビの近くまで行かなくても、リモコンひとつで電源が入った。

 テレビの画面が写ると、すぐにニュース番組が始まった。交通事故があったようだ。トップニュースで悲惨な交通事故が伝えられた。自分とは全く関係がない事故なのに、そのニュースを聞いただけで、声に出せない悲しみが込み上げてきた。

 私は、持っていたリモコンを落としそうになりながらも、テレビの電源を切った。

 もう一度、眠ろうかと思って、ベッドに横になろうとすると、廊下から独特な足音が聞こえてきた。ベッドに横になるのをやめて、廊下の方をじっと見た。

 病室の扉が開くと、兄が出てきた。

「お兄ちゃん! 来てくれたのね。今日は、一人で来たの?」

 私は、安堵した。兄の顔を見たとたん、全身から力が抜けてしまうくらいにほっとした。

 兄は、杖をつきながら、私のそばにやってきた。ベッドの脇においてある椅子に腰掛けると、ニコニコしながら、兄は私の顔を覗き込んだ。

 もしかして、怖がっていた表情がまだ残っているのかしら? 子供だなって思って見ているのかしら?

「もちろん、一人で来たよ。僕だけじゃ、不満か?」

 兄の顔は笑っていたけれど、怒った口調で言った。照れると兄は決まってこう言う態度を取るのだ。

「そんなことないわよ。それより、夜の病院って、どうも苦手だな」

「どうかしたのか?」

 兄が、心配そうな顔で私の瞳を覗き込んだ。兄の真剣な表情に、圧倒されてしまいそうになった。

 あまり兄に心配かけたくないと思いながらも、正直な気持ちを伝えることにした。

「昨日の夜は、夜中に一度目がさめてね。真っ暗な病室を見たら、不気味な感じがして。お兄ちゃんは、子供のころに入院したことを考えると、すごいなって思っちゃった」

「杏は、怖がりだなぁ。今度、ぬいぐるみを持ってくるよ。それを枕もとにおけば、怖くなくなるだろう」

 私は、小さいころからぬいぐるみが大好きだった。よくぬいぐるみを抱えて家の中をぐるぐる歩き回っていたっけ。

 兄が入院するたびに、ぬいぐるみに兄が入院したことを話していた。ぬいぐるみは、いつだって私の不安を拭い去ってくれた。ぬいぐるみは、いつも優しい目で私を支えてくれていた。兄は、そのことをちゃんと覚えていてくれたんだ。

 私が、ぬいぐるみが来るのを待ち遠しく思っていると、兄が含み笑いを浮かべた。私の中の幼い心を笑っているのだろう。それでもかまわない。早く、ぬいぐるみを持ってきて欲しいな。

「なあ、杏」

 きっと私をからかおうとしていると思い、あえて返事はしなかった。

 それでも兄は、私の方へと顔を近づけてきた。

「お前、八雲先生のことが好きだろ?」

 ヘッ?

 声にならない声が、私の心の中で木霊した。ビクッとして、思わず兄の顔を見てしまった。

「・・・・・・」

 兄の言葉を否定しようとしたが、それは兄に嘘をつくことになる。私は、八雲先生に対して好意を持っているんだもの。

「お兄ちゃん・・・・・・」

 ようやく出た言葉。私は、か細い声で、兄をすがるような目でそう言った。

「そうだろ? 昨日、杏が八雲先生を見る目を見て、ぴんと来たんだよ。これは、恋する乙女の目だなって。図星だろ?」

 兄は、全てを見透かしていたようだ。

 八雲先生を一目見た瞬間、私の中で何かが動いていた。全身に電気が走ったかのような、強い衝撃を感じていた。それは、とても心地よい衝撃で、このままずっとこの心地よい衝撃を感じ続けたいとさえ思ったほどだった。

 これだけのことを感じていれば、周りの人にも伝わってしまっていても仕方がないのかもしれない。

「杏、八雲先生とうまくいくように、お兄ちゃんは応援してるからな」

 兄は、軽く握りこぶしを作って、私にエールを贈ってくれた。

 いつもと変わりない、優しい兄のまなざしに、私は全ての不安な気持ちを捨て去った。

「ありがとう」

 私は、素直な気持ちでそう言えた。兄は、とても照れくさそうにくねくねと体を動かした。

 お昼からは、パン屋に行かなくてはならないので、兄はすぐに帰ってしまった。

 兄が帰ると、がらんとした病室にぽつんと一人ぽっちになった。


 カーテンを全開にした窓から外を眺めると、太陽の下で医者や看護士さんが歩いていたり、お見舞いの人が急いでいる姿が多々見られた。

 白衣を着た医者と言っても、その中に八雲先生の姿は見られなかった。病院の前の通りには、買い物袋を持った女性やスーツを着たサラリーマンらしき男性の姿があった。

 私のいる個室は、あまり病室らしくない。テレビだって、ソファだってどこにでもあるようなものだ。しかし、ベッドは、病院のベッドそのもの。可動式のテーブルだって、病院くらいでしか見られないものだ。その可動式テーブルは、私の視野に必ず入ってしまう。

 窓の外の景色だって、病院の敷地内が必ず見えてしまう。

 そよ風が、外の木々を揺らして、病室に心地よい空気をたまに入れてくれる。かすかに、葉っぱの匂いを感じる瞬間だけが、入院していることを忘れさせてくれる。

 匂いが消え、なんとなく病室を見回すと、ひんやりとした空気が病室に充満しているのを感じた。


コンコン


 私を襲う静寂の恐怖を打ち破るかのごとく、誰かが、病室の扉をノックした。私は、すぐに「どうぞ」と返事をした。すると、すぐに扉が開き、八雲先生が入ってきた。

 八雲先生は、片手をポケットに突っ込んで、もう片方の手で器用に扉を閉めた。私は、食い入るようにその手を見つめてしまった。八雲先生は、ゆっくりと扉を閉めると、温かい笑顔でこちらへとやってきた。

 昨日と同様、私の心はスキップを踏むように弾んだ。まるで、満開のお花畑にいるような気分。蝶々が、私の周りをおめでとうと言っているように飛び回っているようだ。目の前に、八雲先生がいる。それだけで、私の心はパーッと明るくなって、自然と顔が緩んでしまった。

「体調は、どうですか?」

 八雲先生は、光り輝く太陽のように明るく穏やかな笑顔で、優しく語りかけてくれた。

 それなのに、昨日の夜のことが頭をよぎった。八雲先生になら、全てを正直に言えると思い、恐怖心を全て八雲先生に伝えることにした。

「実は・・・・・・、昨日の夜、夢を見たんです」

「夢? それは、どんな夢だったのかな? 僕に、教えてもらえるかな?」

 八雲先生はそういうと、兄が座っていた椅子に腰をおろした。至近距離に八雲先生が・・・・・・。鼓動が高鳴る中、私は、夢の話をした。

「交通事故に遭った時の夢だったんです。曇った夜空の下で、私に自転車が突進してきたんです。ただ、ぼんやりとしか覚えてはいないんですが、とても怖くて・・・・・・」

 私を全て見抜いてしまうのではないかと思うほどに、八雲先生は強い視線を私に向けた。痛いくらいにそれを感じ、私の鼓動は速くなり、体が熱くなっていった。

 八雲先生は、何を感じたのか、急に立ち上がり、私の背中をあたたかい手で優しくさすってくれた。たったそれだけのことなのに、スーッと私の中の不安が減っていった。

「思い出してしまったんだね。これからも、同じようなことが起こるかもしれない。思い出したら、遠慮しないで話してくれるかな? 無理に自分の中に溜め込んで欲しくはないんだ。何かの拍子に事故のことを思い出したら、それも含めて全てを話して欲しいんだ」

 子供をなだめるような声で、八雲先生は言った。

 遠慮しなくていいんだ。八雲先生が、私の全てを受け止めてくれるような気がした。

 ぴたりと八雲先生の手が止まると、私は急に不安になった。私の背中にあった八雲先生の手が、離れてしまったのだ。ずっとさすってくれるわけがないのは、わかっていたのに、実際に手が離れると、心の準備をしたはずなのに、それ以上に心細さを感じた。

「杏さん、ちょっと散歩に行きませんか?」

 散歩と言ったって、病院の敷地内をちょっと歩くだけ。八雲先生に出会い、医者嫌いは軽減されたけれど、病院嫌いは治っていない。出来ることなら、散歩に行って、外から病院の建物を眺めることは止めておきたい気もする。

 しかし、相手が八雲先生だ。八雲先生のお誘いを断るなんてもったいない。

「外の空気を吸いたいと思っていたんですよ。でも、良いんですか? 先生は、忙しいんじゃないですか?」

「医者だって、息抜きが必要だから」

 なんだか、八雲先生は、授業をサボろうとしている学生のような表情をしているように思えた。してはいけないとわかっているけれど、それをしたいと思って、強行に実行しようとしている感じがした。

 本当は、八雲先生は忙しいのだろう。私は、悪いことをしてしまったのだな。八雲先生に、必要以上に心配をかけてしまって。

 気がひけるものの、私は散歩に行くことを止めなかった。

 八雲先生が、急いで車椅子を持ってきて、私を車椅子に乗せてくれた。また、八雲先生との距離が近くなった気がした。

 病院の建物から出ると、病院の敷地内をゆっくりと歩いた。私の後ろには、八雲先生がいる。残念なことに、八雲先生が車椅子を押しているので、私からは八雲先生が見えない。声は聞こえるけれど、顔も見たいな。

 長身に二枚目の顔。そして、笑顔。八雲先生の笑顔に包まれているときは、私にとって至福の時だ。これほどまでに、心がトキメキ、安らいだことなんて、今までに感じたことはなかった。私が、こんな気持ちになれるときが来るなんて。想像すらしていなかった。

 病院の敷地内の道をそよ風の速度で、八雲先生は歩いた。後ろから、今日は心地よい天気だということを話してくれた。私も散歩日和だと言い、いつもとは違った目線で周りの景色を見回した。

 なるべく、病院の外を見ようと心がけた。歩道側には、木々がたくさん植えられている。名前はわからないけれど、青々と茂った葉が、私を健康にさせているような気がした。

 病院の門に差し掛かると、八雲先生は門の方へと方向転換した。そして、門の外へ出た。

 さっき、先生が病室で見せた表情の意味が、ようやくわかった。誰にも内緒で、授業をサボった学生のような気持ちに、私もなってきた。

 私が、嫌な夢を見たから、気晴らしにでもと思って外に出たのだろう。こんな気遣いをしてくれるだなんて。

 歩道を歩く人と大して変わらないスピードで、病院の隣にある公園に行った。古びた木のベンチの横に車椅子を止め、八雲先生はそのベンチに座った。初めて、八雲先生と同じ目線になれた。

「良いんですか? 外に出ちゃって」

「このことは、他の人には内緒だよ。二人だけの秘密だよ」

 八雲先生のはにかんだ笑顔が、また魅力的に思えた。

 この公園には、子供の姿はなく、サラリーマン風の人が数人ベンチに座っていた。肩を下げ、浮かない表情をしている。営業周りなのか、その姿を見るだけで、体の疲労度が手にとるようにわかった。

「杏さんは、入院ははじめてだって言うから、病院の中にずっといるのは精神的にあまりよくないんじゃないかと思ってね。どうかな? 病院の外に出てみたけれど」

 木々の隙間から差し込む日の光が、八雲先生の顔を照らした。くっきりと見える八雲先生の顔に、私は背中がくすぐったくなった。

「公園に来て、よかったって思います。正直、ずっと病室にいるより、こうして外の空気を吸う方が、すごく気持ちが良いなって」

「よかった。でも、くれぐれもこのことは、他の人には言わないように」

「もちろん、誰にも言いませんよ」

 二人で、声をあげて笑った。

 まるでデートみたい。私は、心の中で、勝手にこれをデートにしていた。八雲先生にとっては迷惑な話かもしれないけれど、八雲先生との甘酸っぱい思い出にしよう。


 十数分くらいで、病院に戻った。あまり長く外にいると、他の人にばれてしまうから。本当は、もっと外にいたかったけれど、仕方がない。八雲先生に迷惑をかけたくもないし。

 八雲先生とのはじめてのデートは、たったの十数分で終わってしまったけれど、二人だけの秘密を作ったことが、初恋の思い出のようなくすぐったい思い出となった。

 たったそれだけのことなのに、少し自分の心が若返ったようだ。


 まるで、純情な高校生のような恋心を持って、私は入院生活を送っている。病室は、相変わらず高級感のある個室のまま。大部屋が空いたらそちらに移動するはずだが、まだ、入院して大して日がたっていないのだから、仕方がないか。

 何もない、何も流れない。

 誰も来なければ、この病室に変化は出てこない。私だけの空間。窓から外を眺めてみても、それは変わらない。少しだけ開けてある窓から、風が競って中に入るたびに、白いカーテンが音を立ててたなびくのをじっと見つめた。ボワンッボワンと音を立てるカーテンが、生きているように見えた。新しい生物を発見した気分で、私は飽きずにそれを見ていた。


コンコン


 扉をノックする音だ。ようやくこの病室に変化が出てくる。扉がゆっくりと開くと、兄と八雲先生が寄り添うように立っていた。

 意外な組み合わせだった。一体、どうして兄と八雲先生が一緒にいるのだろう?

「よう! 杏! 約束したぬいぐるみを持ってきたぞ。お前のかわいがっていたウサギのぬいぐるみだ。今朝、パン屋に行く前に実家によって持ってきたんだぞ」

 兄は、威張って私に言った。手にぶら下げていた白いスーパーの袋を私に乱暴に手渡した。中には、確かに私がかわいがっているウサギのぬいぐるみが入っていた。かわいがりすぎて、少し汚れてしまっている。

「ありがと」

 私のことを思ってくれた兄の気持ちに感謝した。

「お兄さんが、迷子になったと言って。それで、僕が連れてきたんですよ」

 八雲先生は、いつもの笑顔を振り撒きながら言った。

「先生、どうもすみませんでした」

 兄は、八雲先生に軽く頭を下げて言った。すると、すぐにこちらを向き、私の耳元でささやいた。

「杏、お兄ちゃんが先生を連れてきたからな。このチャンスを無駄にするなよ」

 兄は、私になれないウィンクをした。兄は、わざと病院内で迷子になったようだ。迷子になったというよりは、八雲先生を探していたのだろう。そして、迷子になったと言って、病室に八雲先生を連れてきてくれたに違いない。

 兄らしいやり方だ。不器用ではあるけれど、私のためを思ってしてくれたのだ。いろいろな意味で、ありがとう。

「じゃ、僕はもう帰るよ。早く帰らないと、夕飯残してもらえなくなるから。じゃ、杏、お大事に」

「え、もう帰っちゃうの?」

 まだ、来て数分しかたっていないのに、兄はそそくさと帰ってしまった。病室には、私と八雲先生と二人きり。何度も八雲先生と二人きりにはなっているけれど、毎回緊張してしまう。どうしても、私の心は慣れてはくれないようだ。

「先生、兄がご迷惑をおかけしてしまって・・・・・・」

「いや、良いんだよ。それより、あれから事故のことは思い出した?」

 私が軽く頭を下げると、八雲先生は手でそれを静止し、すぐにベッドの脇にある椅子に腰掛けた。

「いえ、あれ以来、事故のことは思い出していません」

 八雲先生の心配を和らげるように、はっきりとした口調で言った。私の言葉に、八雲先生は少し安心したのか、安堵の表情を見せた。

 窓から稲光が見えた。空は、少しグレーがかっており、稲光がはっきりと見えた。稲光とともに、ガシャンととてつもなく大きな音が、病室中にこだました。

 その瞬間、私の脳裏にあの思い出したくない記憶がよみがえった。

「うわっ!」

 あの時、私の間近で聞こえたその声。それに気づいて、そちらを見た瞬間、私は自転車と衝突したのだ。私の右側から突っ込んできた自転車。自転車の姿は、それしか覚えていない。

 乗っていたのは、男子高校生らしく、制服を着ていた。かごには、かばんが無造作に入れられていた。その男子高校生の顔は、死にそうなくらいに青ざめていた。目を最大限に見開き、肩に力を入れたままで、突っ込んできたのだ。

 たった一瞬のはずなのに、なぜか詳細に思い出してしまった。

 ぶるぶると私の体は、自然と震え出した。急いで、それを止めようと両腕をつかみ、押さえつけたが、全く意味をなさなかった。私は、両腕をつかむのを止め、髪がぐしゃぐしゃになるのも気にとめずに、頭を抱え込んだ。

「杏さん! どうした?」

 八雲先生は、驚いて椅子から立ち上がり、私の肩に手を置いた。

「怖いんです。事故のことを、思い出してしまって・・・・・・」

 私は、俯き目をぎゅっと強く瞑った。頭を抱え込むのを止めると、八雲先生は、私を強く抱きしめた。赤子を包むような格好で、強く私の震えを止めようとするかのように八雲先生は強く私を抱きしめた。

 それでも、体の震えは止まらない。

 八雲先生の胸に、顔をうずめ、自然と震えが止まるのを待つしかないようだ。また、稲光が光れば、事故のことを思い出してしまうに違いない。私は、窓の外を見ないように努めた。

 強く抱きしめていた八雲先生の腕の力が抜け、その体が離れると、自然と体の震えが止まった。

 私は、驚いて八雲先生の瞳を口をぽかんと開けて見つめた。八雲先生も私に返すように私の瞳をじっと見つめてくれた。

 と、次の瞬間、私たちはキスをした。

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