動き始めた歯車
パン屋の前には、必ず我慢ができなくなるほどのいい香りが漂っている。
店内から、ショーウィンドウの外を見ると、手にスーパーの袋をぶら下げた中年女性が歩いていた。その女性は、パンの匂いに誘われたかのように、迷わず店内に入ってきた。
すぐにトレーを手にもち、早速パンを物色し始めた。
このパン屋で働いている私は、焼きあがったばかりのクロワッサンを空いているクロワッサンの棚に置いた。
「焼きたてのクロワッサンです」
どのパンでも焼きあがるたびに、店内にいる人に、必ず案内をする。焼き上がりのパンは、大人気で、焼き立てのパンを狙っているお客もいるくらいだ。
さっきの女性も、クロワッサンをトレーに乗せていた。
私たちのパン屋は、クロワッサンが目玉商品だ。平日でも、午前中にトレーが何度も空いてしまう。
お昼前の今の時間帯は、必ず焼きたてのクロワッサンが出てくる。そのせいか、この時間帯は数人のお客が大体いる。
正午を過ぎると、近所のOLや、主婦、学生、サラリーマンなどなどが、こぞってやってくる。店内は、少し広めなので、たくさんの人でにぎわっても見辛いということはないようだ。お昼のパン屋は、戦争だ。それはお客にとっても、私たち店員にとってもだ。
販売員である私よりも、奥にいる作業員の方がずっと大変だろう。このパン屋の作業員は、みな、何かの障害を負っている。私の兄もその中の一人だ。
お昼の時間帯になると、私は休むまもなくパンを運ぶ。焼きそばパンにカレーパン、卵サンドにツナサンド。どれも飛ぶように売れていく。
今日も、一時を過ぎると、はす向かいにあるYクリニックの院長たちが、私の勤めるパン屋へと足を運ぶ。Yというのは、八雲の略だ。院長の名札には、ちゃんと『八雲』と書かれている。
恰幅のいい院長は、クリニックの女性たちと一緒に、楽しそうに毎日のように、このパン屋に来ては、クロワッサンや、焼きそばパンなどを買っていってくれる。院長とは対照的にほっそりとした店長は、うれしそうに院長と会話をよくしている。
「今日も焼きそばパン?好きですねぇ」
こんなことを店長が言うと、院長はニコッとして、
「ここの焼きそばパンは、本当に美味しくてね。毎日食べたいくらいだよ」
毎日、同じような台詞を返すのだった。その会話を私はレジで、聞きたくなくても聞いてしまう。他のお客の接客をしていても、なぜか院長たちの会話が、耳に入ってしまっていた。
上得意様ではあるけれど、私はどうも好きにはなれない。八雲と言えば、私の中にある嫌な記憶をよみがえらせるから。
八雲という名は、私たち家族と密接な関係がある。Yクリニックの院長は、噂話で聞いたところによると、八雲大付属病院の院長と兄弟であるらしい。八雲大付属病院、思い出したくない名前だ。
なぜ、私が、医者嫌いなのか。理由は、私の兄にある。兄を悪者にするわけではない。医者が、兄を治してくれないからだ。
私は、医者が大嫌いだ。
医者嫌いの人は、世の中にも多いだろう。その理由はさまざまで、怖いとか、注射をされたくないだとか。私の医者嫌いの理由は、全く違う。
兄は、生まれつき体に麻痺を持っている。手や足をまっすぐに伸ばすことができない。知能にも全く問題がないわけではない。
医者は、兄に何度か手術を試みた。幼い私は、兄が手術をすると聞いては、兄が私と同じように足も手もまっすぐに伸ばすことが出来るようになると、信じてこんでいた。兄は、あまり手術をしたがらなかったみたいだけど、私は、兄の手術にはいつも大歓迎だった。
まだ、私が小さかったこともあって、無邪気に兄の手術を喜んでいたらしい。あまり詳しくは覚えていないけれど、両親や兄は口をそろえてそう言っていた。
毎回、手術が終わると、決まって、兄の手足がまっすぐになることを期待して、家族そろって兄の病室に行った。正確に言うと、私だけがそれを期待していた。
病室に入ると、決まって兄はベッドに横たわっていた。手術直後で、麻酔が効いているのだから当たり前なのだが、幼い私はそれをおもしろく思っていたようだ。
ぐっすりと眠っているような兄の手足は布団に隠れて見えないけれど、私は、きっと、布団の中では、手足をまっすぐにぴんと伸ばしているのだろうと、わくわくしていた。兄が退院したら、公園で思いっきり鬼ごっこをしよう。色鬼でも何でも良い。兄と一緒に駆け回って遊べるんだと期待をしていた。
しかし、その願いは、いつもすぐに消し去られた。兄が目を覚ますと、私は必ず夢物語から悲しい現実に叩きつけられるのだった。
ドキドキしながら、兄の手足が布団から出てくるのを待っていると、目を覚ましたばかりの兄が目の前にいる私に手を差し出してくれた。その腕は、まっすぐではなかった。
兄の手足は、手術前よりましになっただけで、決してまっすぐになることはなかった。私は、手術が終わるたびに、医者に文句を言っていた。
兄の病室に医者が入るなり、私は医者の足にしがみつき、
「うそつき! どうして、お兄ちゃんを治してくれないのよ!」
決まって私は、医者の足にすがりつくように、泣きながら訴えていた。
私の言葉に、医者は困った顔をしていた。
医者は、しゃがみこみ、私と目の高さをあわせて、いつも私に優しく語りかけてくれた。
「お兄さんの病気は、完全には治らないんだよ。手術をしても、杏ちゃんと同じような体にはなれないんだよ」
何度も同じ言葉を、医者は私に言ってくれた。その言葉を私は、ずっと理解することが出来なかった。なぜか、その言葉だけは、私の耳にこびりついてはなれることはなかった。今でも、鮮明にそのシーンを記憶している。そして、そのときに思っていたことも鮮明に記憶している。絶対に、兄は治ると。
私も兄も成人した今、兄は障害者が多く働くパン屋で、楽しくパンを作っている。私も一緒にそのパン屋で働いている。
私が短大生のころ、すでに兄はそのパン屋で働いていた。兄の勧めもあって、私は、バイトとしてそのパン屋で販売員をしていた。週に三回、そのパン屋でバイトをしていた。兄は、週五日勤務で、私がパン屋に行くと、必ず兄がパン屋にいた。兄の姿を確認すると、ホッとするのは今でも同じだ。短大を卒業すると、そのまま従業員としてそのパン屋にとどまることになった。
就職活動をはじめようと思っていた頃、店長に、このまま従業員として残らないか? と言われて、私は喜んで引き受けようと思ったのだった。しかし、念のために両親に相談しようか? と思ったけれど、同じパン屋で働いている兄に真っ先に相談してみた。兄は、杏が決めることだと言った。そして、両親も同じことを言うだろうとも言ってくれた。私は、自分で考え、自分だけで決心した。
私が、兄のパン屋で働き続けることにしたと両親に言うと、とても喜んでくれた。そのとき、私の判断は、間違っていなかったんだと確信した。それまでも、進学のたびに自分で全てを決めていた。しかし、進学ではなく、就職を自分だけで決めることに不安があった。今では、あのときの自分の判断は正しかったと胸を張って言うことが出来る。
兄は、すでに結婚して、独立している。奥さんは、看護士だ。出会いは、もちろん病院で、兄の看護をずっとしてくれていた人だ。
二人の様子をずっと近くで見ていた私は、二人がとてもお似合いだと思い続けていた。もしも、願いがかなうのなら、兄と看護士さんを結び付けて欲しいと切望していた。
兄から、その看護士さんと結婚したいという話を聞いたときは、肩の荷が下りたような安堵感と、長年の思いが実ったと言ううれしさでいっぱいになった。
しかし、喜ぶのもつかの間、奥さんのご両親は、この結婚に猛反対をした。絶対に許さないと。理由は一つ。兄の体にあった。当時の兄は、諦めることなく、絶対に結婚を許してもらうと意気込んでいた。そして、兄の熱意に屈した形で奥さんのご両親は、この結婚を許してくれたのだった。
結婚を許した今でも、奥さんのご両親はあまりよく思っていないらしい。兄たちの強い気持ちに押されて許しはしたものの、兄夫婦が奥さんのご両親に会いに行くと、いつも兄のことを冷たくあしらっているそうだ。そのことを、兄の奥さんは申し訳なくて仕方がないと、何度となく、私に話してくる。
兄の奥さんのご両親の気持ちは、わからないことはない。それが当たり前なのかもしれない。
しかし、兄夫婦は、幸せに暮らしている。共働きで、すれ違うことが多いけれど、幸せそうな様子は、手に取るように伝わってくる。二人がそろっている姿を見るたびに、羨ましく思うほど、二人は本当に仲が良い。兄の体を支える奥さんの顔は、いつだって充実感に満ちた笑顔であふれている。
兄夫婦は、私たち家族の住む実家から歩いて五分もかからないところに住んでいる。何かあったら、すぐに駆けつけることが出来るようにそうしたのだ。兄の奥さんのご両親が反対していることもあって、私と両親の住む実家の近くに家を借りることにしたそうだ。私も家探しには、協力した。兄と奥さんと私の三人で不動産屋を何件か回ったことを、楽しい思い出として、今でも容易に思い出すことができる。当時は、まだ短大に通っていたこともあって、家探しのときは必ず私も一緒に回っていたのだ。
兄の体のことを考えて、マンションでもアパートでも一階を希望した。そして、実家の近所であること。それ以上のことは、あまり細かく指定はしなかった。兄は、杖があれば歩くことができる。バリアフリーである方がいいけれど、決して段差がないところだとか、水道の蛇口を回さずに上下に押すだけですむとか、そこまでする必要はなかった。
実家の近所の物件を何件か回って、一番実家から近い物件に決めたのだった。実は、兄の家が実家から近いところにした理由はもうひとつある。
兄と私は一緒に通勤している。毎朝、私が兄の家に迎えに行き、兄と一緒にパン屋へ向かう。お互いの家が近いほうが、私が兄の家に迎えに行きやすいということも少なからず考えてあった。家を探しているときに、誰もそこまで言わなかったけれど、誰の頭の中にも浮かんでいたことだろう。
兄と二人、パン屋へは、バスで行く。毎朝、毎晩、同じ時間のバスに乗っているので、バスの運転士も兄のことを知っている。シフトで、朝からだったり、昼からだったりすることはあるけれど、同じ時間のバスを使うので、バスの運転士は、兄のことをいつも優しく見守ってくれている。
兄は、杖を使っていて、バスに乗るのに少し時間がかかる。中に入ってからも、杖が他の乗客にあたりそうになったことは、多々あった。
兄が、バスに乗り込むと、運転士は、いつのころからか、乗客に車内アナウンスをするようになった。
「お客様、通路は広くおあけ下さい」
アナウンスのあとに、兄の姿を見た乗客たちは必ず通路をあけてくれる。そして、いつも必ず空いているシルバーシートに兄は腰をおろす。
私は、兄の正面に立ち、降りるときには私がボタンを押す。
パン屋へ行くだけで、大変ではあるけれど、何年も続けているので、もう慣れてしまった。
今思えば、私と一緒に通う前は、兄は一人で通っていたんだ。そのときは、どうだったのだろうと、たまに考える。いらない心配だとは思うけれど、なぜか考えてしまうのだ。
兄は、みんなからとても慕われている。私も慕っている。明るくて、話していてとても楽しいのだ。パン屋の仲間もいつも兄と楽しそうに話をしている。店内から奥の厨房を羨ましく何度も見てしまうのだ。私の視線の先には、兄がいる。生き生きとパンを作りながらたわいもない話をして、みんなを笑わせている兄の姿が。
兄がパンを作り、私はそれを売る。同じパン屋とはいえ、兄とは違う場所で働いているのだが、よく私の耳に兄たちの話し声が聞こえてくる。その声は、いつも明るく楽しそうだ。それを聞くと、私まで心が豊かになれるのだ。
閉店後、私と兄はすぐにパン屋を後にして、家へと急ぐ。
今日も普段と変わらず、すぐに帰ることにした。今日は小麦粉の特売があるので、スーパーによりたいと、兄に伝えると、大喜びでスーパーに行くことを承諾した。
兄は、小さいころからスーパーが大好きだった。ひとつの店で、いろいろなものが買えることを魔法のようだと表現していた。私は、その表現がとても好きだ。ロマンチックな感じで、私もスーパーに行くたびに、魔法を使ったかのように、スーパーでの買い物を楽しんでいる。
バスを降り、家とは違う方向にあるスーパーへと急いだ。
電灯があるから良いけれど、外はとても暗く、一人ではちょっと怖いくらいだ。兄が一緒にいてくれて、本当によかったと、一人心の中でつぶやいた。隣を歩く兄は、そんな私の気持ちを全く察してはいないようだ。
「お兄ちゃん、もう真っ暗だね」
「そうだなぁ。早く行って、早く帰ろう」
兄は表情ひとつ変えず、懸命に杖をつきながら歩いた。私が、話し掛けた意図を気づいてはいないのだ。その方が、兄らしい。さばさばしているのが、兄の長所と言える。
私より兄は数歩先を行った。暗い夜道はとても怖いけれど、兄が一緒にいるから私はあまり怖く感じてはいない。だからこそ、慎重に行こうと横断歩道にぶつかるたびに、私は一時停止した。しかし、兄はそれが気に入らないようだ。
「こんな時間に車なんて来ないよ」
そう言って、兄は左右の確認もせずに、横断歩道を横切っていった。お気に入りのスーパーに行きたい気持ちはわかるけれど、兄にも慎重になって欲しい。
確かに、暗くなる時間帯は人通りも少ないし、車だって少ない。だからって、全く車が来ないとは限らない。
仕方がないと半ば諦めながら私は、兄に引きづられるように前を行く兄を追った。信号は赤だったけれど、左右の確認もせずに行く兄を止めることもなく、私は兄に着いていこうと早歩きで横断歩道を渡ろうとしていると、
バーンッ
けたたましい音がした。私のすぐ近くで。鼓膜を突き抜けるような大きな音。私は、思い切りぎゅっと目を瞑った。背中を丸め、死ぬほどおびえた。
「うぅん・・・・・・」
目を開けると、両親と兄夫婦が、私の顔を覗き込んでいた。みんな、深刻な顔をしている。その顔を見ていたら、私までぞくっとした。みんなの顔が青ざめていたので、棺おけの中に自分がいるような気がして、怖くなった。
みんなの顔と一緒に目に映っている天井を見て、見覚えのない風景であることに、気がついた。我が家の天井は、決して真っ白くはないのに、ここの天井は真っ白だ。
変わっているのはそれだけではない。いつもは、布団で寝ているのに、ベッドの上に自分が寝ていることに気がついた。
「ここ、病院?」
のんきに質問をしてみた。私の真横にいた兄が、突然ひざから崩れ落ち、大粒の涙を流し始めた。
「杏! ごめんよ。僕が、杏の言うことを聞かなかったから、杏がこんなことに・・・・・・」
こんなことと言われても、私は、まだ、自分の置かれている状況がいまいち飲み込めていない。なぜ、兄が崩れ落ちたのだろうか? 不思議に思っていると、そう言えば、右足が痛いような気がしてきた。
自分の右足を見ようと、頭を少し上げてみる。
私の右足には、包帯がぐるぐると分厚く巻かれており、中にはギプスがあるようで足を思うように動かせない・・・・・・ということは、私は骨折したと言うことらしい。
骨折・・・・・・という言葉が浮かんだとたんに、急に私の右足が痛くなってきた。
「痛い! 痛いよ!」
ベッドの上で、届かないのに右足を抑えるようにして、体を左右に振りまくって私が痛がると父が不思議な顔をして、首をかしげた。
「おかしいな。確か、局部麻酔じゃなかったか? まだ、効いていると思ったんだが」
局部麻酔が、まだ効いている? じゃあ、痛いはずがない。それに、右足の感覚がないはず。
私が、痛がるのをやめようとすると、今度は兄が首をかしげて父に言った。
「父さん、杏は全身麻酔じゃないのか? だから、痛がってもおかしくないと思うよ」
「そうか? いや、局部麻酔だろ?」
「違うよ! 全身麻酔だって!」
二人の議論が白熱してきた。私を含め、女性陣は二人の議論を止めるでもなく、どうすることも出来ずに、ただ、見守るだけだった。
二人の議論を見ていたら、右足のことが頭から外れた。痛い、痛くないなんて、考えることすらなくなった。
この際、局部だろうが、全身だろうがどうでも良い。
私は、徐々に冷静さを取り戻し、体を起こすことにした。私が、体を起こそうとすると、母が支えてくれた。それを見て、すぐに兄の奥さんも手伝ってくれた。
体を起こし、ベッドの上から周りをじっくりと見てみた。ここは、少し広めの個室のようだ。大きなテレビがベッドの足元に置いてあり、その奥にはソファがあった。奥には洗面台にトイレ、シャワーまである。
家は、お金持ちじゃないのに、こんな高そうな個室に入院しちゃって、大丈夫なのだろうか。急に不安になり、私はここにいても大丈夫なのだろうかと不安になった。
「お母さん、普通、骨折したくらいでこんなに高そうな個室に入院しないと思うんだけど」
私が、母に話し掛けると、母は驚きの表情を一瞬見せた。何か、焦っているような感じだった。
「いいのよ。他の病室が開いてなかったんだから。杏は、ラッキーなのよ」
「ラッキーって言ったって、ちゃんと個室の料金を払わなくちゃいけないんでしょ?」
「大丈夫よ。他が空いてなくて、仕方なく使っているから、大部屋の料金にしてくれるって言ってたわよ」
母は、そう言ってくれたのだが、あまり明るい表情で言わなかった。母は嘘をつく人ではないのだが、それが本当のことなのか疑問に感じた。個室の料金を払わなくてはならないとしたら治療代が、払えるだろうか? もしかしたら、払えなくなってしまうかもしれない。
治療代のことを思うと、不安は増大した。それを見かねたのか、兄の奥さんが私に話し掛けてきた。
「杏さん、大丈夫よ。治療代は、加害者が払ってくれるって」
加害者?
そう言えば、私はどうやって骨折したのだろう? そのときの記憶が全くない。
「加害者って、誰ですか?」
兄の奥さんに聞くと、父と兄の口論は止まり、兄が私の方へと近づいてきた。
「杏、覚えてないのか?」
「全然覚えてないのよ」
他人事のようにつぶやくと、兄は緊張した面持ちで、私に事故のことを話し始めた。
事故があったのは、スーパーへ行く途中で起きた。兄が横断歩道を周りを見ずに渡ったのを見て、私もすぐに追いかけるように渡った。
私が、周りを見ずに兄だけを見て、横断歩道を渡ったときに、スピードを出した自転車が私にぶつかってきたそうだ。
兄は、すぐに自分の携帯電話で救急車を呼んでくれた。
ぶつかってきた自転車に乗っていたのは、男子高校生で、塾から家に帰る途中だったと言う。大急ぎで帰ろうと思い、スピードを出してしまったそうだ。
彼は、軽症ですんだらしい。私は、救急車が来るまでかなり痛がり、大声で「痛い」と言っていたそうだ。
ん? 大声を出していた? それが本当だとしたら、無意識で叫んでいたのかもしれない。
「私、大きな声を出していたの?」
「そうだよ! だから、覚えていると思ってたんだ」
ぶつかってからも、私は意識があったようだ。ただ、救急車が来たとたんに気絶したそうだ。救急車を見て、安心したんじゃないかと兄は言った。
「救急車が来たことも、忘れたのか?」
兄は、半ば唖然とした感じに言った。
「うん、覚えてないなぁ。あとで、思い出すかな?」
首をかしげながら必死に思い出そうとしたのだが、どうしても思い出せない。兄が、横断歩道を渡ったところまでの記憶はあるのだが。これって、記憶喪失なのだろうか。しかし、記憶喪失にしては、記憶を喪失している時間が短い気もする。これも、記憶喪失のひとつなのかもしれないが。覚えていない方がいい記憶だから、このまま忘れたままの方が良いのかもしれない。
「あ、先生が来たぞ!」
父が、廊下のほうを見て言った。入り口のドアの一部がガラス張りになっており、先生の顔が乳の場所からははっきりと見えたのだろう。私の主治医が来たようだ。怖い先生じゃありませんように。やさしい先生を期待していると、先生が個室の入り口のドアを開けて、個室に入ってきた。
その先生は、すらっと背が高く、顔が小さくて、二枚目だ。やさしそうな瞳に、口角のきゅっと上がった唇。鼻筋がすっと通っており、髪は少し長めだ。
先生は、とても若そうだ。私と大して年も違わないと思われる。
私は、先生の顔をじっと眺めてしまった。吸い込まれそうなほどに、澄んだ先生の瞳に、私の心が大きく動き、体の芯がじわじわと温かくなってきた。
兄夫婦は、先生が私と話が出来るように、すぐに場所を開け、兄夫婦はソファに腰をおろした。
「主治医の八雲です。どうですか? 調子は?」
八雲先生が、私の真横に来て笑顔でやさしく話し掛けてくれた。低い声が、私の体に染み渡る。
「ええ、良いですよ」
私は八雲先生と目を合わせると、ニコッと微笑んだ。それにつられてか、先生も微笑んだ。
「それはよかった。明日には、車椅子でトイレに行けるようになりますよ。これから、リハビリをすることになるけれど、一緒にがんばりましょう」
「ありがとうございます」
先生は、希望に満ちあふれたような言葉を、温かい陽だまりにいざなうように私に話し掛けてくれた。
入院なんて今までしたことがなかったし、骨折だってしたことがない。だから、とても不安で仕方がなかったけれど、こんなに素敵な先生が私の主治医だとわかると、かえって入院してよかったかもしれない。
あんなに医者のことを嫌っていたのに、八雲先生を一目見て、医者に対する印象を百八十度変えてしまうなんて。
両親と兄夫婦が帰り、病室にひとりぼっちになってしまった。
幸い、テレビがあるので、枕元にあるリモコンを手にし、テレビのスイッチを入れてみた。チャンネルを回しても、なかなか見たいチャンネルが見つからない。
肩を落とし、テレビのスイッチを消し、私はベッドに横になった。
豪華な個室とはいえ、病室には変わりなく、病院の中であることには違いない。
私の嫌いな病院か・・・・・・。
兄は、入院には慣れている。何回か手術をしているから、兄は入院なんてたいしたことないようなことを言っていた。
しかし、初めて入院・骨折した私には、そんな言葉をかけられても不安な気持ちはなくなることはない。
ベッドに横になりながら、今一度、ここがどこであるかを受け止めるかのようにあちこちを見回した。何度見ても、どこを見ても、ここは病院だ。兄の手足を治してくれなかったあの病院に、私が入院するなんて。
医者のイメージは、変わっても病院に対するイメージは、なかなか変わらない。夜がきたら、私はどんな気持ちになるのだろうか。