真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の話
真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢のその後の話
「くっくっく」
膝の上に猫を抱き、王太子ロランは一人、こらえきれぬ笑いを漏らしていた。父王ハールは病床にあり、もはや回復の見込みはない。王家に対抗しうる唯一の勢力であったバゥム公爵家の令嬢スカーレットとの婚約を廷臣の面前で破棄し、スカーレットがそれを受け入れたことで、王家と公爵家の政治的な力関係は完全に証明されたと言っていい。弁明の機会も与えず、裁判も経ずに言い渡した追放処分を公爵家は受け入れた。それは王家の命令が公爵家を屈服させたことに他ならない。
「目障りな公爵家の専横を排し、王家が、いや、この私が全てを掌握する。国家は私の許に統合され、私の思うままに形を成すのだ。下らぬ慣習も、形骸化した伝統もすべて不要! 私の意志がすなわち国家だ!」
ロランが我知らず膝の上の猫を撫でる手に力を込めた。猫が驚いたように鳴いてロランの手を逃れ、爪を立てる。ロランは痛みに顔を歪めて弾かれたように手を引いた。
「……貴様、この私に逆らうか。国家たるこの私に!」
瞳に憎悪を滾らせ、ロランは立ち上がる。猫は怯え、威嚇するように牙を剥いた。ロランはエメラルドのあしらわれた腰の短剣を抜き、冷酷な目で猫を見下ろす。
「身の程を知れ」
静かな恫喝と共にロランは剣を振り上げる。猫が身体を震わせ、ロランが剣を振り下ろし――
――ガシャーン!
窓を突き破り、ひとつの影が部屋に飛び込んでくる。ロランは反射的に窓の方向を振り返った。影は瞬時に間合いを詰め、ロランの懐に飛び込むと、激しい怒りの咆哮と共にその拳を放った。
「この、ド外道がぁーーーっ!!」
鉄拳がロランの腹を抉り、その身体を壁際まで吹き飛ばす。その凄まじい衝撃は壁に無数の亀裂を刻んだ。ロランが大きく目を見開き、影の正体を口にする。
「――スカーレット・バゥム元公爵令嬢!」
苛烈な赤のドレスに身を包み、スカーレット・バゥムは烈火の炎を瞳に湛えてロランを見据えていた。
「なぜ、ここに……?」
呻くように声を絞り出し、ロランは激しく咳き込む。スカーレットは部屋の隅に集まるワタゴミを見る目でロランに言った。
「猫好きを自称しながら猫に刃を向ける、そのような鬼畜の所業をこの私が見逃すとでも?」
そうじゃない、と言うようにロランは首を振った。
「庭には衛兵がいたはずだ!」
「ああ」
下らぬこと、と言いたげにスカーレットは鼻を鳴らす。
「皆、なぜか私の姿を見ても目を逸らすばかりで、特に邪魔立てもされなかったわ」
……きっと、関わりたくなかったんだな。
「そ、そもそも、貴女は犬派であったはず! 私が自分の猫をどう扱おうと、無関係であろう!」
ロランは居直ったように怒りを滲ませる。心底呆れたようにスカーレットはロランを見下した。
「どこまでも愚かな男」
「なんだと!?」
ロランが色めき立ち、スカーレットをにらむ。スカーレットは堂々とその視線を受け止めた。
「私は犬派である以前に、一介の動物好きである!」
一点の曇りもない宣言が確かな圧を伴って室内を席巻する。ロランは口を開けたまま言葉を失った。壊れた窓から新たな人影が入り込む。全身を黒装束に包んだその姿は、あたかも死神のごとく――
「ま、まさか、公爵家直属の、暗部――」
「いいえ」
スカーレットは不快そうに眉を寄せた後、すぐに誇らしげな表情に変わる。
「彼は私の友――動物保護団体の職員よ」
黒装束の男は手早く、優しくケージに猫を誘導する。
「保護します」
「お願いしますわ」
短く会話を交わし、黒装束は窓から出ていく。スカーレットはロランを鋭く見据え、冷徹に言い放った。
「貴方が王権を弄ぼうと、私には何の興味もない。好きにするがいい。だが――」
スカーレットの瞳に冷たい雷の光が満ちる。
「――覚えておくがいい、王太子ロラン。もし貴方がわずかでも動物を傷付けることがあれば、赤き炎がその身を焼き尽くすであろう。動物たちの悲鳴が、貴方の生の終わりを告げるベルとなると心せよ!」
スカーレットの圧倒的品格にロランは力なくうなだれる。スカーレットは赤いドレスのすそを翻し、優雅に窓から去っていった。ロランは奥歯を噛み、口惜しそうに俯く。
「……おのれ、スカーレット・バゥム元公爵令嬢! 爵位を失っても、その高潔な魂はいささかも穢れることはないというのか――!」
猫が去り、一人残された部屋で、ロランは屈辱に打ち震えていた。




