5.イブリンの希望
「店を持つ? ちょっと待って。その前に、愛人をいつ辞めても良いようにって言ったわよね」
「言いました」
「ほら、やっぱり私が邪魔なんじゃない」
「いいえ、お店を続けて利益が出ても、終身契約なのは変わりません。ただ、将来的にイブリン様の方から愛人を辞めたくなった時にはそれに応じます、ということです。あくまでイブリン様とサイラス様が決めることです」
「え? 俺か」
「サイラス様、当事者なのですから真面目に聞いていてもらわないと困ります」
アデルに指摘されて、すまん、と小さく謝った。
イブリンは、そのサイラスの情けなく縮こまった姿を見て、ほんの少し、こんな頼りない人だったかしらと思った。
サイラスは学園ではいつも友人に囲まれていて、賑やかな会話の中心にいた。少し悪ぶっているところもあったが、育ちの良さは隠し切れず、華やかな容姿も相まって、まさに理想の王子様に見えた。
そんなサイラスに初めて話しかけられた時、イブリンは間近で見たその顔にときめいた。指先まで完璧に手入れされた美しい手が、イブリンの制服のポケットから落ちそうになっているハンカチを指差して、
「落っこちそうだよ」
と、教えてくれたのだ。あ、と思って急いで中に押し込むと、
「キレイなレースが、落ちて汚れなくて良かったね」
と、それはもう恋に落ちても仕方ないというような笑顔を向けられた。イブリンはとっさにハンカチを引っ張り出して、サイラスの目の前で広げた。
「これ、私が編んだレースなんです」
ハンカチを縁取るレースは、イブリンのお手製だった。市販の高価なハンカチなど買えないから、無地のハンカチの周りにレースを付けたり、刺繍をしたりするのが好きだった。
サイラスは一瞬、戸惑ったように見えたが、すぐに顔を近づけてハンカチをまじまじ見ると、
「うん、繊細で丁寧なレースだね。素敵だよ」
と褒めてくれた。
じゃあね、と去ってゆくサイラスの後ろ姿をしばらく見送っていたが、急に我に返って、自作のみすぼらしいハンカチを侯爵家の嫡男様に見せつけてしまったことが恥ずかしくなった。
イブリンは手先が器用で、刺繍などは家族にも好評だ。しかし所詮素人の手仕事だ。自慢するようなものでもなかった。それなのに、バカにせず素敵だと言ってくれた。素敵なのは、サイラス様のふるまいだ。
この出会いでイブリンはサイラスに恋をした。そしてサイラスも、離れたところからいつも見つめてくる一途でいじらしいイブリンに応えてくれたのだった。イブリンは、サイラスの友人たちからも温かく受け入れられ、次第にサイラスの隣には自分こそが相応しいと思うようになった。
学園の最終年次にサイラスの婚約が決まったが、その時でさえ、あれは単なる契約上の妻だから、本当に愛するのはイブリンだけだと言ってくれた。婚約者とは決まった時だけ顔を合わせ、最低限の会話しかしないし、イブリンのことは一生大切にすると何度も囁かれた。
いつも自信たっぷりなサイラスが言うものだから、たとえ結婚しても、イブリンを蔑ろにすることはないと信じていた。
それが、ここ最近のサイラスはどうだろう。
結婚してもイブリンの元で過ごす。けれど、以前のように外に連れ出してくれることはない。愛してるとは言うが、もはや口癖のようで熱も感じない。イブリンとの未来も、曖昧に濁すばかり。愛人どころか、このまま捨てられそうな気配さえしているのだ。
頼れる優しい王子様は、ただのハリボテだったのか。イブリンは、このまま自分の人生をサイラスに預けていいものか不安になってきた。
今の様子だと、むしろアデルの方がイブリンのことを真摯に考えてくれているのではと思えるほどだ。
イブリンは改めて、目の前に座るアデルを見た。
学園にいた頃、あれがサイラスの婚約者だよ、とサイラスの友人から教えてもらった。ちんちくりんで艶のないくしゃくしゃの髪、本を何冊も捧げ持って、スタスタと軽快に目の前を通り過ぎていった。
「あの方が?」
どう見ても麗しのサイラス様の隣に並べて良い人物ではない。あれでは夜会でサイラス様が恥をかいてしまう。イブリンは、あれが本妻なら自分に勝ち目はあると思った。
イブリンは、小さい頃からずっと可愛いと言われて育ってきた。学園に入ってからも、よく男子生徒に声をかけられた。それでも誰にも靡かなかったのは、姉たちから、さんざん言い含められてきたからだ。
可愛さは下級貴族の子女の場合、徒になることがある。目立たず慎ましく過ごしなさい。教師でさえ守ってくれないものと心得なさい。貴族社会の理不尽を、今から学んでおきなさい、と。
そうして言いつけ通り大人しく過ごしてきたのに、サイラスに出会ってしまった。
それまでイブリンはどれだけ男子学生に言い寄られても、校内のカフェでお茶をすることさえしなかった。頑ななまでのその態度から、男嫌いとの噂も流れた。それがサイラスに、はにかむ笑顔を向けたことで、これは真面目な恋心なのだと周りは思った。だから、ひどい噂は立たなかった。むしろ密かに応援してくれる人もいた。同じ男爵家の子ばかりだったけれど。
イブリンは、学園で目にしていたアデルと、ベルトラン侯爵家に若奥様として収まっているアデルの見目の違いに、今さらながら驚いた。いったいベルトラン家でどんな魔法をかけてもらったのか。女性らしい美しさだけは自分が勝っていると思っていただけに、イブリンの上品な佇まいに焦りを感じた。
この姿を見て、サイラスも心変わりしたのかもしれない。
「どうでしょう、イブリン様」
アデルに声をかけられ、イブリンは我に返った。
「無理です! やり方も分からないし、あくせく働くなんて、イヤです」
せっかく上等な男を捕まえたのに、という言葉は呑み込んだ。
「そうですか。では、これから毎日、何をして過ごすおつもりですか」
「え?」
「ここ一週間は、サイラス様とお二人でゆっくり過ごすことができたでしょう。けれど、来週には侯爵様夫妻が領地からこちらにお戻りになります。サイラス様も、気ままに出かけることができなくなるでしょう。そうした時、いつ来るかも分からない方を、ただ待っているのはお辛いのではないかと思ったのです」
「お辛いかどうかは、私が決めることだわ」
イブリンは意地を張った。
本当はこの一週間だって、昼間はずっと放っておかれたのだ。夜になるまでサイラスをイライラと待ち続け、帰ってきたサイラスにそれをぶつけていた。『今だって十分にお辛い状況だわ』という言葉を、すぐそこにいるサイラスに投げつけたかった。
「そうですね。ごめんなさい。分かったようなことを言ってしまいました。本を読んで学んだのですが、私の立場でイブリン様に退屈を紛らわす術を提案するのは驕慢だったかもしれません」
アデルが心底申し訳なさそうな顔をして謝るので、イブリンは意地を張って突っぱねたことが後ろめたくなった。
「いいわよ。退屈なのは本当だから。で、本で学んだっていうのは何? 愛人を上手にいなす方法が書かれた本でもあるの?」
イブリンの言葉からは棘が抜け、親しい人に向ける口調になっていた。それはイブリンにも無意識の変化だった。
「いいえ、貴族女性間の様々な揉め事や確執に疎い私なので、物語からヒントを得ようと、この家にあるその類の本を端から読んでみたのです」
「それで、愛人には他に没頭できるものでも与えておけと?」
「答えは何通りもありました」
「たとえば?」
「物騒なものとしては、暗殺や、誘拐して他国に売るなど物語ゆえの残酷なものから、見映えの良い男を雇って誘惑してもらう等がありましたが、倫理に反するこれらは除外します」
「そう願いたいわ」
「それよりも、愛人の方の人生を豊かにする方が、夫への執着を薄めるのではないかという考えから、趣味を楽しんでもらう、好きなことを見つけてもらう。でもそれだけでは箱庭の幸せに過ぎず、人は満足しないのだそうです。好きなものは人に話して思いを分かち合いたい、趣味で覚えたものは人に披露してみたくなるようなのです。演奏を聴いてもらったり、絵を見てもらったり、作った作品を見てもらって、さらにそれを褒めてもらうところまでいって、初めて満たされるそうです」
アデルは、仕入れたばかりの知識を基に力説した。
「なるほど、だから私に何かをやらせたかったのね」
「はい、イブリン様は刺繍とレース編みがたいそうお上手だとお聞きしました。ですからそれを売る店を開いてはどうかと思ったのです」
「店を開くのに、どれだけ作品を作ればいいと思ってるのよ」
「すべてがイブリン様の作品である必要はありません。イブリン様の好みで選んだ品を仕入れ、統一感のある品ぞろえにすれば良いのです。その目利きも、イブリン様のセンスにかかっています」
「忙しくなるのはイヤよ。経営の基礎も知らないのだから、お膳立てしてもらったところですぐに潰れそうだわ」
「そこはベルトラン侯爵家の伝手を使ってお支えします」
「それって、侯爵様の許可は得られるの? アデル様はそう言っても、金銭的なことは勝手にできないのではないの? サイラス様は、どうお考えですか」
イブリンは、次期当主であるサイラスに問いかけた。
「お、俺か。そうだな、いいんじゃないか」
「いいんじゃないかって、どの部分がですか?」
「イブリンのレースは確かに素敵だよ。刺繍したハンカチも大切に使ってる」
「私の関心がサイラス様以外に向けば、楽になるとでも思っていませんか」
「そんなことないよ、イブリンといると落ち着いて安らげる。イブリンが好きなことをして生き生きしている姿を見ていたいと思うのは本当だよ」
「サイラス様」
イブリンは久しぶりに向けられる自分を愛おしむようなサイラスの眼差しに胸が躍った。サイラスも、そんな甘いイブリンの視線に、この子を守りたいという思いが溢れてきた。
見つめ合う二人の熱に頓着せず、アデルは続けた。
「お店が軌道に乗れば、商品の種類を増やしても良いと思いますし、イブリン様の器用さなら手芸以外に手を広げることができるかもしれません」
「そんな風におだてても、私は努力なんてしないわよ」
「ですが、レース編みと刺繍ばかりしていたら目を悪くするかもしれませんし、指先が職人の指になってしまいそうです。どうせなら違う作業を間に挟んで目を休めたりしませんか」
「そんな都合の良い作業があるかしら」
「物語によりますと、ハーブ石鹸作りですとか、香油作りなどが、定番になっているようです」
「ちょっとあなた、物語に感化され過ぎではなくて」
「それらは作業こそ単純ですが、材料の品質次第で商品の価値を上げることができます。ベルトラン侯爵家の威信にかけても、高品質の材料を手配しましょう」
「材料だけじゃなくて、作り方やら道具やら、初心者の私に懇切丁寧な指導もしてもらえるんでしょうね」
「もちろんです。私も物語を読みながら試してみたくて仕方ありませんでした。専門家をお呼びしますので、私もご一緒させてください。それに、手芸品の方は侍女たちがアドバイスしてくれると思います。最初は下位貴族や裕福な庶民相手から初めて様子を見ましょう」
アデルの何でも知りたがりのスイッチが入り、熱心にイブリンを口説きだした。もうすでに計画が始まっているかのようであった。
その熱意に押し流されるようにして、イブリンもそれを受け入れたような形になりつつあった。
「いいえ、ちょっと待って。私、それに同意したことになってる? 本当に実現可能なのかしら。侯爵家から元手を出してもらった上に、諸々の手配をお願いするってことでしょう。アデル様にそんな権限があるの? サイラス様は、これをご存知でしたか」
「いや、この件はアデルに任せてあったから」
サイラスが頼りない笑みを浮かべた。
イブリンは、これは本当に正妻であるアデルに従順であった方が、人生上手くいくような気がしてきた。だからイブリンはアデルの方を見て、答えを待った。
「ご心配なく。イブリン様のことは侯爵様たちに相談して、この件は資金のことも含めて了承いただいています。何もこの分野で天下を取ろうというのではありません。小さな可愛らしいお店で、可愛い商売をしようというだけなのです。そこからどれだけ広げられるか、あるいは広げたいかは、イブリン様次第になります。私はその最初の手助けと、商品開発への個人的好奇心に後押しされた研究に参加したいだけなのです」
「手助けより、後者の方の比率が高そうね」
「ええ、それはそうです。私もいつ自分の立場が危うくなるか分かりませんから、身を立てる手札は多い方がいいのです」
「旦那様が当てにならないから?」
「人はいつ死ぬか分からないですし」
「あなたは急に話が飛びすぎるのよ」
イブリンは呆れたが、アデルの態度や考え方は嫌いではなかった。悶々と過ごしたこの一週間だったが、初めて先行きに光が見えた気がした。
こうしてベルトラン家におけるサイラスの正妻と愛人の話し合いは、予想以上の円満な雰囲気で幕を閉じた。
読んでいただき、ありがとうございました。




