18.門出
翌日。
サイラスが目覚めた時、腕の中にいたはずのイブリンがいなかった。
イブリンはすでに着替えを済ませ、手紙を書いていた。おそらく昨日のレース職人の用件を、アデルに取り次ぐ手紙だろう。
イブリンは少し前かがみの姿勢でゆっくり丁寧にペンを動かしている。綺麗な横顔だなあとサイラスは見惚れた。真剣になると上唇がツンと上がるのが可愛い。
だが、今彼女の頭の中にあるのは、サイラスのことではない。レースのこと、店のこと、レース職人のこと、アデルのこと、それだけだ。サイラスは二人きりの時間に無粋に割り込んできた男が気に入らなかった。イブリンも、俺がいるのになぜそんな男の用件を優先するのか。
不満はくすぶるが、それを口にするのは大人の男として余裕がなさ過ぎるだろう。サイラスはベッドに横たわったまま、イブリンが手紙を書き上げるのを見守った。
手紙は案外早く書き終わったが、インクが乾くまでしばらくかかる。ふと、イブリンがサイラスの方を見た。
「あら、起きてらしたんですね、サイラス様。今日、お帰りになる際に、アデル様宛ての手紙を持って行ってくださいね」
俺がまだベッドにいるのに、もう帰る時の話をするのかと思ったが、寛大な男を装うサイラスは、鷹揚に請け負った。
「サイラス様、着替えを手伝いますね」
そして今度は早く起きろとばかりにそんなことを言うイブリンに、サイラスはいささか機嫌を損ねた。拗ねたように支度をすべてイブリンに任せていると、
「あ、ちょっと待っていてください」
と言って、シャツ姿のサイラスを残し、寝室から出て行ってしまった。
すぐに戻ってきたイブリンは、手に真っ白な布を持っていた。それは繊細な刺繍をほどこし、端にレースをあしらったクラバットだった。
「サイラス様に渡すのをずっと楽しみにしてたのよ」
そう言って、サイラスの首元にお手製のクラバットを結んだ。
「良くお似合いだわ」
上着も着て姿勢よくポーズを決めると、イブリンが褒めてくれた。こんな簡単なことでさっきまでの不機嫌が吹き飛ぶ自分がおかしかったが、サイラスは、イブリンが自分のために費やしてくれた時間の方がずっと長いことに満足したのだった。
イブリンの家で半日ゆっくり過ごし、サイラスは帰っていった。イブリンからアデルに宛てた手紙を携えて。
◇ ◇
アデルはイブリンからの手紙を受け取ると、さっそく話し合いの場を設けた。
当日は、侍女たちも引き連れて、イブリンの店の応接室で、機械レース職人のジュリアン・マルセルと対面した。
マルセルの熱意は伝わった。
そしてそれはアデルが予想していた通り、レース産業も機械化の波に逆らえないところにきていることから、『銀の針』もそれに後れをとることなくついて行かなくてはならない、という思いを共有した。
「分かりました。この件は、侯爵様のところに持ち帰ります」
義父であるベルトラン侯爵は、この件をきちんと検討するだろう。世の中は急激に変わりつつある。侯爵は早くから鉄道事業に投資をしていたし、織物産業の機械化にも興味を持っているようだ。レース産業も発展をとげると考えるだろう。
だが、それがマルセルの夢を叶えることに繋がるかは分からない。工房の親方と練り上げたという事業計画は、侯爵から厳しい精査を受け、勝算ありと認められないことには始まらない。そこにアデルの出番はない。そのことは、イブリンとマルセルに念を押しておく。
マルセルは神妙な面持ちで、
「よろしくお願いします」
と、アデルに深く頭を下げた。隣でイブリンも一緒に頭を下げた。
そして二人そろって顔を上げた時、アデルがやけにキラキラとした目でマルセルを見ていた。
マルセルはその笑顔の意味が分からず戸惑ったが、イブリンは、ああ、はいはい、と察した。
「アデル様は、新しいレースの機械について、もっと詳しく知りたいのですね」
「あら、よく分かるのね」
「そしてあわよくば工場見学をなさりたいと」
「その通りよ、イブリンさん。本当はチュール生地を決める時だって、私は工房まで行きたかったのに、行かなくても製品の見本で判断できるからと却下されたのよ。今度こそチャンスだわ。それに、侯爵様に何か口添えできるかもしれないでしょう。」
アデルの後ろで侍女のエリザが額を押さえている。
「先ほどの説明では足りなかったでしょうか」
マルセルが不安そうに聞いた。
「いえ、大体分かったような気はするの。だけど気がするだけなの。この穴の開いたパンチカードがどうやって糸を制御するのか、本当に模様が編み上がるのか、この目で見てみないと信じられないわ」
そう言ってアデルは、穴がたくさん開いた長方形の厚紙を捧げ持って、首を傾げた。円い穴が不規則にたくさん並んでいるだけに見えるが、実際には緻密な計算によるものだ。マルセルはこのカードのパターンを設計するドラフトマンを目指していた。
レース職人の中でもドラフトマンは花形職だ。マルセルは工房の親方から、ドラフトマンに必要な数学的素養は認められていたが、美的センスには難があった。そんな時、『銀の針』の商品を見て感動し惚れ込み、イブリンに協力を乞うたのだった。
「いずれはうちのオリジナルのパターンで製品を作り出したいんです。動力も足踏みや馬力から、もっとすごいものになるはずですが、まずは一人前のドラフトマンを目指します」
力強く宣言するマルセルに、アデルは、うんうんと頷きながら、
「その一人前になる過程を私も直に見守りたいから、ぜひ見学させてほしいわ。侯爵様も出資を決めれば、視察にも行かれるでしょう。その事前練習とでも思ってもらえないかしら。どう?」
と、前のめりに詰め寄った。
「マルセルさん、アデル様はこういう方なの。興味を持ったら一直線、とにかく貪欲に知りたがるわよ。諦めて工房を大掃除してお迎えすることね」
イブリンがさりげなくアデルに加勢した。
マルセルも腹を括って、
「分かりました。親方に言っておきます。ですが、侯爵家の若奥様がいらっしゃるとなったら、親方が動転しそうです。偉そうな投資家や、いかつい職人だったら、束になってやって来ても結構強気でいけるんですけどね」
と、親方を案じつつも、アデルの見学を受け入れることにした。
イブリンが慰めるように、
「大丈夫、こちらのアデル様は、普通の貴族の奥様とは違うわ。石鹸工場の熱気と激臭の中で、職人に混じって釜をかき混ぜるような方だから、安心して」
と言うと、マルセルは、え? と言ったきりしばらく絶句した。
「それは、安心できるのでしょうか」
「機械を動かしてみたいって言い出しかねないわね」
そんなやり取りを経て、アデルは後日、マルセルの働く工房と、それより大きな機械を稼働させている工場の見学の約束を取り付けたのだった。
◇ ◇
アデルが楽しみしていたレース工場見学は、好奇心を一通り満足させてくれたが、存分に、というほどではなかった。
というのも、アデルが見学に行くことを耳にしたベルトラン侯爵が、どうせなら一緒に行けば話が早いと、当日になって同行してきたのだ。ついでにお前も来いと、サイラスも連れてこられた。
おかげで石鹸工場の時のように自由に振る舞えず、侯爵の後ろから控えめに、だが目だけはしっかり見開いて隅から隅までじっくりと観察してきたのだった。
意外だったのはサイラスで、これまでアデルはサイラスと領地の産業のこと以外で仕事の話をしたことがなかった。だから、巨大なレース機に興味津々で質問しまくるサイラスを見て驚いた。動力となる蒸気機関のことや、織機の仕組みなどについてかなり詳細な説明を求めていた。
サイラスのそのような姿を知らなかったアデルは、自分やイブリンといる時とはまるで違う真剣な顔付きに、心ならずもときめいてしまった。
だがアデルは、意図してそのときめきを、壮大なレースの機械を目の当たりにして驚いたためだと思うことにした。
侯爵の視察と、それから幾度かの話し合いの末、マルセルの工房はベルトラン侯爵家から出資してもらえることになった。マルセルに勉強の機会も与えられた。
アデルは、マルセルとイブリンから大いに感謝をされたが、アデルが知るのはここまでである。
工場見学の数日後、アデルはサイラスと共にベルトラン侯爵家の領地に行くことになったからだ。アデルはまだベルトラン家の王都の屋敷しか知らないので、向こうでの顔見せと、領地を実際に見て知っておくべきだと言われた。
アデルとしても、それは願ってもないことだった。サイラスと結婚してベルトラン家の一員になったとはいえ、やはり領地を知り、領民に直接会ってからでないと、中々そのために働く意欲がわかないと思うのだ。
だからアデルは領地行きを提案された時、はい是非に! と即答したのだった。
明日が出発という日の夜、アデルは侯爵に呼ばれた。
「この間の話は実にタイミングが良かった。いずれ大きな事業に育つだろう。彼は中々見どころがあるし、今後が楽しみだな」
アデルは侯爵に労われた。だが、用件はそれが主ではなかった。
「以前、鳥籠の戸締りはしっかりするように、と言ったのを覚えているかな」
それは、イブリンという愛人を、鳥籠の中で上手に飼い慣らせということだった。愛人が外で醜聞を引き起こせば、家名に傷がつく。貴族として最も避けたいことだ。
「はい」
「私としては、彼女は良くやっていると思う」
「私もそう思います」
「だが、いつの日か鳥籠から出て行くかもしれないな」
「マルセルさんとですか」
「とは限らないが。先日、彼女を久しぶりに見た。直接顔を合わせた訳ではないがな。以前は、世間知らずを絵に描いたような女性だった」
「変わったと思われますか」
「そうだな。いつか、サイラスの庇護下から出たいと言うのではないかと思う」
「それについては彼女の自由ですので、けじめをつけてくだされば構わないと思うのですが・・・」
「心配かね?」
「ええ、彼女の行く末がと言うより、サイラス様が」
アデルがそう言うと、侯爵は笑った。
「私はそれは心配していないよ」
「心が疲れた時の拠り所を失うことになるのではありませんか」
「アデルさんがそれに替わる覚悟はないのかな」
「それは・・・」
アデルは言い淀んだ。自信がなかったからだ。
「まあ、今回の領地行きでゆっくり語り合えばいいさ。彼女についても確実なことは何もないわけだからね」
はい、と答えて、アデルは義父の執務室から辞した。
今このタイミングで領地行きを指示されたのは、自立してゆくかもしれないイブリンからサイラスを引き離し、アデルとサイラスを向き合わせようとする意図があったのだと、ようやくアデルは気付いた。
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