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サイラスとアデル  作者: バラモンジン


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10/15

10.ある日のアデル

 その日サイラスは、イブリンと約束したピクニックに出かけ、自然の中で存分に羽を伸ばし、上機嫌で屋敷に戻ってきた。


 自室に向かって歩いていると、向こうから腕に外套を抱えた侍女が四人歩いてくるのに出くわした。四人のうち三人は、サイラスに気付くと廊下の端に寄り頭を下げたが、一人は寄らずに頭を下げた。


 サイラスが不思議に思ってよく見ると、その一人は侍女ではなく妻のアデルだった。


 すぐにアデルだと気付かなかったのは、四人とも侍女服を着ていたことと、アデルがいつもの煌めくようなフレームのメガネではなく、野暮ったい学生時代の黒縁メガネをかけていたからだ。どう見ても侯爵家の若奥様には見えない。


「アデル、どうしたの、その格好。おまけに、ずいぶん疲れた様子だけど」


 サイラスの言葉通り、アデルはくたびれ果てて生気がないように見えた。付き従う侍女たちも、同様に疲労を隠しきれていなかった。おまけに変な匂いもする。


「今朝早くからどこかに出かけたよね。いったいどこで何をしてきたの?」


「サイラス様、申し訳ありません。このようなお見苦しい姿をお見せしてしまって」


「いや、それは良いんだ。ただ、あまりにいつもと違うから、どうしたのかと思って」


「すべては私の好奇心と探究心に抗えなかった結果なのです。侯爵家の女性のすることではないと思い、このように侍女のなりをして女主人の命で来たという風を装ってまいりましたが、帰り際に、『次期公爵夫人にご覧いただけたことで皆もやる気が出たようです』などと言われてしまいました。

 それはつまり、この侍女の変装が全く意味をなさなかったということで、忸怩たる思いに苛まれております。これがベルトラン家の名を汚すことにならなければ良いのですが、どうにも心配でなりません」


「え、何、そんなご大層なことなの。具体的に教えてくれる? 助けが必要?」


「侍女の皆さんにも止められたのです。それを押して手を出した私が愚かでした。気力と体力には自信があったのですが、自己評価が高すぎたようです」


「何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど、エリザ、事実だけ時系列で教えてくれる?」


 サイラスは、何かに打ちのめされて普段の元気のかけらもないアデルを見ているのも面白かったが、いつまでそうしていても埒が明かないと思い、いちばんしっかり立っている侍女のエリザに訊ねた。


「はい、アデル様はこれまで、イブリン様のお店に並べる石鹸について、ハーブの種類や配合、香料について検討していらっしゃいました。ところが、そもそもベースとなる純オリーブ石鹸とはいかなる製造工程を経ているのかと、書物からの知識だけではなく、ご自分の目で確かめたいとおっしゃいまして、貴族用の石鹸を作っている小さな工場まで見学に出かけたのです」


 エリザは淡々と述べたが、アデルを思いとどまらせることができなかったことを悔いているようだった。


「それで?」


「アデル様は侍女のお仕着せを着たことで、行動も普段に増して自由闊達になり、止める間もなく職人に近づいて行かれました」


 アデルは、きまり悪そうにそっぽを向いている。


「木灰から灰汁を作る作業を間近で見た後、大釜でオリーブ油と灰汁を加熱しながら攪拌する作業を見学しました。釜の下で薪が焚かれていますから、見ている私共も煙に燻され、灰汁の刺激臭にも耐えなくてはなりませんでした」


「そんなに近くで見なくても良かっただろうに」

 

 呆れたようにサイラスが言うと、アデルは顔を上げて毅然と言った。


「いいえ、サイラス様、それでは肝心の釜の中が見えないではありませんか。行った甲斐がありません」


「アデル様はそうおっしゃって、あろうことか職人からかいを借りて、攪拌作業の体験をなさったのです。私共は、いつ火傷をするかと気が気ではありませんでしたが、職人たちは、額に汗して櫂を動かすアデル様に、応援の声をかけていました」


 サイラスは、アデルの本気が面白くなってきた。


「それでどうだったの。職人になれそう?」


「いいえ、百年早いと自覚しました。あの暑さと、重さと、永遠に続くかと思われる時間を櫂で混ぜ続けるのは、とんでもない重労働です。私の腕は、せいぜい山積みの本を持ち運ぶのが精一杯だと思い知りました」


 心底無念そうにいうアデルに、サイラスは笑ってしまいそうになった。


「見学はそこまで?」


「いいえ、塩析という作業で石鹸の純度を高める工程が続きます。その後の香料を混ぜる作業は今日はやっていませんでしたので、そこで引き揚げてきました。そんなわけで、侍女の皆さんにもお付き合いいただいて、丸一日費やしてしまいました」


 サイラスの目には、アデルは疲れてはいるものの、黒縁メガネの奥の琥珀の瞳は、知らない世界を知った興奮でキラキラしているように見えた。そんなところは学生時代と変わらないのに、侯爵家の名を汚さないように侍女の格好をしたりと、おかしな方向に舵を切っているアデルが愛しくて、サイラスは思わずアデルを抱き込んだ。


「え? サイラス様?」


 アデルは、サイラスの腕の中で訳が分からず固まった。


 サイラスから、


「アデル、色んな匂いがするね。油が温まったような、焚火のような、不思議な匂いだ」


と言われ、アデルは自分が大釜で櫂を使った際に汗をかいたことを思い出した。いろんな匂いの中にそれも混じっているかと思うと、羞恥でいたたまれなくなった。


 慌ててサイラスから逃れようともがいたが、サイラスは面白がって離してくれない。アデルはいっそ開き直って、サイラスの胸元の匂いをかいだ。


「もう、サイラス様こそ、色んな匂いがしますよ。草の匂いとか、ハーブ石鹸のような、あ! 最近イブリン様がネロリの香りを主体に色々と工夫してましたよね。私、この香り好きです」


 などとアデルが言うものだから、サイラスは思わずアデルを引き離した。


 サイラスは昼間、イブリンとピクニックに出かけ、草の上にカーペットを敷いて並んで座り、イブリンを胸元に抱きよせていた。その一部始終をアデルに知られているかのように思えて焦った。


 イブリンの存在はアデル公認なのだから焦る必要は全くないのだが、どうにもいけないことをしている気分になるサイラスだった。


 急に腕の中から解放されたアデルは、


「サイラス様、どうかなさいました?」


と聞いたが、サイラスは、


「いや、元気が余っているようで良かったよ」


と、説明できない気持ちを誤魔化した。


「そういえばアデル、君は以前、タティングレースとボビンレースに挑戦した時も、睡眠時間を削って取り組んでいたよね。目を悪くするし、いつ何時なんどき大事なお客様が見えるかも分からないから、健康状態には万全を心がけてね」


「あ、そうですね。寝不足のむくんだ顔を人前に晒すわけにいきませんよね。そこは思い至りませんでした。自覚が足りなくて情けないです」


 アデルがしょんぼりと反省すると、


「まあ、そういう時は俺やうちの優秀な侍女たちがカバーに回るから大丈夫だよ。ただ、俺がアデルの身体の心配をしていることは忘れないで」


というサイラスの言葉に、侍女たちが大きく頷いた。



 サイラスとアデルはそこで別れ、それぞれの部屋に向かった。


 アデルは歩きながら侍女に聞いた。


「ねえ、私、変な匂いがするかしら」


「おそらく。けれど私共も同じ匂いでしょうから、鼻が慣れてしまってよく分かりません」


「それに、今日のサイラス様は何か変だったわよね。急に囲い込んできたり離したり。何がしたかったのかしら」


 侍女たちは一瞬言葉に詰まり、


「推測でしかありませんが、たぶんアデル様がずいぶんと疲れておいでのように見えたので、励ましてくださったのではないでしょうか」


と言うにとどめた。


「そうなのね。やっぱりサイラス様は女性に優しいわよね。さすがだわ」


 アデルがあっさり納得したので、侍女たちはホッとしたような歯痒いような気分を味わった。



 彼女たちの目には、先ほどのサイラスはアデルを愛おし気に抱きしめたように見えた。その後急いで離したのは、イブリンの纏うネロリの匂いがサイラスから漂うとアデルから指摘されたからだと見ていた。


 けれど、それをつまびらかにすることは出過ぎた真似だと思うので、当たり障りのない返事をしたのだった。



 その夜、アデルはベッドに入ってから、石鹸を作る工程を順に思い起こしていた。


 いつも新しい体験をすると、そわそわと落ち着かない。今日はまず、侍女のお仕着せを着るという非日常からスタートした。侍女たちにも、なるべく同僚と話しているようにしてほしいとお願いしたのだが、やはり敬語を外すことは難しく、それで正体が見破られたのだろうか。


 それにしても過酷な現場だった。近づくだけでも暑さにやられそうな大釜を、何時間もかき混ぜ続けなくてはならない。刺激臭も酷くて、それだけでも体調を崩す人もいるかもしれない。


 そんな工場に好奇心丸出しで出かけてしまった自分がどう思われるか不安だったが、櫂を借りて釜を混ぜる作業に手を出したあたりから、職人たちが優しくなったように感じた。仕方ないなあという顔で、大目に見てくれたのだと思う。


 ああして出来上がった純オリーブ石鹸を使ってハーブ石鹸を作るのだから、大事に扱って、より良い香りや美肌成分を練り込んで、美しく仕上げて世に送り出してほしいとアデルは思った。


 そして、屋敷に戻って来てからのことも思い出した。


『そういえば、私、サイラス様に抱きしめられたよね? あれ、何だったの。変な匂いの元を確かめたかったのか、私の匂いが尋常じゃなかったのか』


 今さらのようにアデルは、得体の知れない匂いをまき散らしていることをサイラスに指摘されて恥ずかしくなった。ダンスやエスコートで密着したことはあれど、髪の中に鼻を埋められ匂いを確認されたことなどない。


 じわじわと羞恥が募った。暗闇の中だが、自分の顔は赤くなっているだろう。


 アデルは匂いをかがれたことが、なぜそんなに恥ずかしいのか分からず、悶々として眠れなくなった。


 おかげで翌朝はひどい寝不足の顔で目覚め、支度に来た侍女たちを慌てさせたのだった。


 

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