雨に濡れた窓
今年は梅雨明けが遅めなのだろうか。もう大学の夏休みも始まっているのに、今日も午後から雨が降ってきていた。
駅前の商店街で買い物を済ませて、アパートへと急ぐ。うっかりロングスカートで来たせいか、愛用の赤い傘でもカバーしきれず、少し裾が濡れてしまっていた。
商店街を過ぎて、一軒家や集合住宅などが建ち並ぶ辺りに、ひとつだけ営業しているお店。昔風の純喫茶みたいな店構えで、興味はあるけれど学生には入りにくい雰囲気も感じて、一度も入ったことのない喫茶店があるのだが……。
ちょうどその前を通りかかったタイミングで、喫茶店の扉が開く。中から出てきたのは、見覚えのある人物だった。
短めの前髪と黒縁眼鏡が特徴の、背が高い男の子。学部は違うが同学年でサークルも同じ、西永くんだ。
私たちのサークルは、スポーツ関連でもイベント系でもなく、合唱サークル。年間行事としてのメインは、夏のジョイントコンサート――他大学の合唱サークルと合同で行う――と冬の定期演奏会で、そのために週3回みんなで集まって練習するサークルだ。
練習中は無関係な私語を交わす余裕はないし、練習時間の半分は全体練習でなくパート練習だから、パートが異なればそもそも一緒の時間も少なくなる。もちろん男子は男声、女子は女声だから別のパートになるし、例えば私はアルトで、西永くんはベースだった。
練習以外に一応、親睦を深める意味で、コンパやスポーツ大会などのお遊びイベントもあるけれど、西永くんは、そうしたイベントにはあまり参加しないタイプ。だから私は、ほとんど彼とは口をきいたことがなかった。
ただし、彼と同じベースの田中くんが「西永はクラシック音楽に造詣が深くて、なかなか面白いやつだ」と言っていたのは印象に残っており、いつか機会があれば私も西永くんと仲良くなりたいと思っていたくらいで……。
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そんな西永くんが今、喫茶店から出たところで立ち止まり、困惑の表情で空を見上げている。
おそらく彼がお店に入ったのは昼前で、まだ降っていなかったのだろう。傘は持っていないようだし、午後から雨なのを知らなかったに違いない。
私も足を止めて、彼に声をかけた。
「こんにちは、西永くん。もしかして、雨で困ってる?」
ハッとしたように、西永くんがこちらを向く。声をかけられるまで、私の存在には気づいていなかったらしい。
「ああ、嶋川さんか。うん、天気予報なんてチェックしてなかったからな。出てきたばかりの店に戻るのも何だし……」
確かに喫茶店は、雨宿りの場所としては悪くない。外が雨だと気づいていれば、止むまで中で待っていただろうが、もう支払いも済ませて出てきた後。もう一度何か飲んだり食べたりする気はない、というのは理解できる心境だった。
「なるほどね。だったら……」
ちらりと自分の傘を確認してから、彼に提案してみる。
「……途中まで一緒に帰ろうか? 私の傘、結構大きいから」
「ああ、ありがとう。そうしてもらえると助かる。俺が住んでるのは、ここから徒歩十五分くらいのアパートで……」
そう言いながら彼が指し示したのは、私のアパートとは反対方向。これでは「一緒に帰る」は難しい。
遠回りして彼を送って行くにしても、この雨の中「徒歩十五分」は大変そうだ。そもそもここは、私の部屋までならば五分とかからない位置なのだから……。
突然、突拍子もないアイデアが頭に浮かんで、私はポンと手を叩いた。
半ば冗談みたいな考えだったが、とりあえず口に出してみる。
「じゃあ、こういうのはどう? 夕方には雨も上がるだろうし、それまで私の部屋で雨宿りしていきなよ」
「えっ、いいのか? それなら……」
一瞬だけ思案げな表情を見せた後、西永くんは小さく頷いた。
「……せっかくだから、嶋川さんのご厚意に甘えさせてもらおうかな」
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数百メートル足らずの距離を、二人で一緒の傘に入りながら歩く。
私が右側で、西永くんが左側。傘は私が持ったままだった。背の高さが違うので差しにくかったけれど、その点は彼も考慮して、少し屈み気味に歩いてくれたようだ。
西永くんは左肩にかけていた鞄を、濡れないように右肩に、つまり内側に移動させていた。肩から下げているだけでなく、さらに手で小脇に抱えている。よほど大切なものが入っているみたいな感じだった。
「西永くん、喫茶店で勉強してたの? 分厚い本がいっぱい入ってる感じの鞄だよね?」
「いや、本じゃなくてノートパソコン。コーヒー飲みながら、それ使ってやってたのは……」
西永くんは、照れたような笑みを浮かべる。初めて見るどころか、そもそも彼がそんな表情をするなんて思っていなかったほど、彼のイメージには合わない顔だった。
「……勉強というより仕事かな? いや、そこまで稼げるわけじゃないから、まだ趣味の範疇だろうな」
「趣味ってことは、音楽関連? 合唱に関すること?」
「いや、それとは別の趣味。表現活動という意味では同じだけど……」
恥ずかしそうな口調だから、彼にしてみれば、かなりプライベートな話題なのだろう。
それでも西永くんは、私が尋ねると正直に、どんどん答えてくれた。
「……執筆活動も俺の趣味の一つでね。小説を書いて、それをインターネットで公開したり、コンテストに応募したりしてるのさ」
小説をインターネットで公開。そういう活動があること自体は私も知っているし、インターネット発の漫画や小説が例えば深夜アニメの原作になったりするという話も聞いたことがあった。
自分には縁遠い世界だと思っていたが案外、身近なところに関係者がいたものだ。
「へえ、凄いね。だったら……」
さらに突っ込んで尋ねてみる。ならば西永くんの小説もアニメになったり映画になったりするのか、と。
しかし彼は首を横に、しかも力強く振った。
「いや、俺が書いてるのは、そういうのじゃなくて……」
西永くんのは短編小説。アニメや映画の原作になるほどの文量はないし、そもそも一冊の書籍になるほどの長さもない。それでも出版社に気に入られた作品がいくつかあり、それらは他の人が書いたのと一緒に短編集に収録されて、書店で売られているという。
「へえ、凄いね! 西永くんが書いたのが、本屋さんに置いてあるんだ!?」
「だけど、あくまでも短編集、それも『他の人が書いたのと一緒に』だぜ? だから本の著者名は俺の名前じゃなく『〇〇編』みたいな形だし、そういうのは俺の本とは言えないし……」
その趣味の人にとっては拘るべき点かもしれないが、無関係な私から見れば、そこは些細な違いに思えた。
どんな形であれ、自分の書いた小説が書店で販売されるなんて、私には想像も出来ない世界だ。
今まで知らなかった、合唱とは別の、西永くんの趣味。でも合唱と同様、いやもしかしたらそれ以上に、そちらの趣味でも彼は頑張って成果を上げているのだろう。
隣を歩く彼に対して、私は素直に、感嘆の視線を向けてしまうのだった。
――――――――――――
「へえ、ここが嶋川さんの部屋か……」
「あんまりジロジロ見ないでね。面白いものなんて、別にないでしょう?」
西永くんの声に好奇の色を感じたので、私は牽制のつもりで、一応そう言っておく。
いわゆる六畳一間みたいな形式のアパートだが、実際には七畳か八畳近くあるらしい。訪れた友達が皆「広いね」と羨ましがるのが、私の部屋だった。
ピンク色のベッド、長方形のローテーブル、勉強机に棚が二つ。他には、テレビとオーディオ機器、ハンガーラックの洋服掛けと楕円形の姿見くらい。
大学生の一人暮らしとしては、ごくごく一般的な調度品だろう。
しかし、西永くんには興味深く感じられたようで、
「おお、大きな鏡……。なるほど女の子の部屋だから、こういうのがあるのか。女子の部屋、初めて入ったから新鮮だよ」
と面白がっていた。
彼の「初めて入った」発言には、私も少しドキッとしてしまう。
私にしてみれば、この部屋に足を踏み入れた男子は、西永くんが一人目ではない。部屋で飲み会を開いた際、何人か集まった中に男子も含まれていたからだ。
しかし改めて考えてみると、一人で私の部屋に入った男の子は、確かに西永くんが初めてなわけで……。
「あれ? 嶋川さんの部屋って、窓が二つあるのか。珍しいな」
もちろん私の内心の動揺には気づかないらしく、すぐに西永くんは、興味の対象を移していた。
当たり前だが、両隣の部屋に面した壁に窓はない。窓があるのは、外壁側の一面だけ。
ただし一つではなく、今日はカーテンを閉じてある窓と、元からカーテンなんて無い『窓』。その二つが見えることに、西永くんは関心を示したようだ。
これに関しては、きちんと説明しても良いのだが……。
「うん、そうだね」
と軽くスルー。
私は私で、彼の反応を面白がって、内心ではクスリと笑っていた。
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「ああ、嶋川さんはブラームスが好きなのか」
CDラックに並べてあるのを、目ざとく見つけた西永くん。
「うん、クラシックだと一番好きな作曲家かな? 歌ってて一番楽しい、って感じで……」
「なるほど、嶋川さんはアルトだもんな。ほら、ブラームスって、ちょっと内声の使い方が独特な部分もあるから、その辺りが『歌ってて一番楽しい』になるのかも」
「いや私、好きな理由とか考えたことなかったけど……。ブラームス、西永くんも好きなの?」
「まあ、どちらかといえば好きだけど、ベートーベンと同じくらいかな? 『一番好き』ってほどじゃないし、それだとバッハとかシュッツとか……」
クラシック音楽に関する会話は、ほとんどこれだけだった。
私はその後「自分の部屋だと思って、くつろいでね」と告げて、勉強机に向かって教科書を開いてみたら、彼は本当にリラックス。ローテーブルに自分のノートパソコンを置いて、カタカタとキーを叩き始めた。
先ほど言っていた小説の執筆だろう。ちらりと彼の横顔を覗き見ると、表情が目まぐるしく変わっていた。彼自身のものというよりも、おそらくは書いている小説の登場人物、その感情に左右されていたのではないだろうか。
――――――――――――
そろそろ夕食という時間帯になっても、まだ西永くんは私の部屋で小説を書いていた。
時々『窓』の方に視線を向けては「止まないな……」みたいに呟いているが、そもそも彼は今日の天気予報を確認していなかったのだ。「もう止むはずなのに、おかしいな?」という気持ちは湧かないのだろう。
「西永くん、お腹は空いてない? 私はそろそろ、夕飯にしたいんだけど……」
声をかけてみると、苦笑いが返ってきた。
「ああ、実はとっくにペコペコだ。だけど、帰るにしろ外へ食べに行くにしろ、まだ雨降ってるから……」
「遠慮しないで、うちで食べたら? 簡単なのでよければ、私が作るよ。ご飯は昼に炊いた残りがあるし」
「いや、そこまで世話になるのは、さすがに申し訳ない……」
と言いかけて、西永くんはハッとした顔をする。
「……ああ! 冷蔵庫の食材とか使っていいなら、俺に作らせてくれ。得意料理ってほどじゃないけど、雨宿りさせてもらってる、せめてものお礼に」
「うちの食材使っちゃうなら、あんまり『お礼』にならないよね? それよりは、別の機会に改めて奢ってもらった方が嬉しいなあ」
そんな冗談も口にしたけれど、彼がどんな料理を作ってくれるのか少し興味もあった。
だから結局、うちの食材で彼が作るという話になって……。
「はい、出来ました。おそらくこれが、俺が一番よく作ってるやつ。名付けて『チキンライスもどき』」
彼がテーブルに運んできたのは、なるほど、見た目はチキンライスっぽい料理だった。
でも冷蔵庫には鶏肉どころか、豚肉や牛肉など、とにかく肉の類いは全くなかったはず。
「うん、チキンライスじゃなくて『もどき』だね。というより、ケチャップ炒めライスって感じかな?」
そもそも私は、キッチンスペースで西永くんが何をどう調理していたのか、その様子はチラチラ眺めている。だから、これがどんな料理なのか、よくわかっていた。
刻んだタマネギ、ニンジン、ピーマンをバターで炒めて、そこに溶き卵を加える。スクランブルエッグ風にかき混ぜてから、冷やご飯を投入。また全体を混ぜて、最後に大量のケチャップで味を整えて完成。
ポイントは卵を「スクランブルエッグ風にかき混ぜて」というところだろうか。卵は最後に別に調理して、それで全体を包むのであれば、一応はオムライスになるだろうに……。
そこが惜しいけれど、その「惜しい」があるからこそ、男の料理という感じもする。
まあ結局のところ、卵は包むのに使っても、炒めご飯の具にしても、口に入れてしまえば一緒なわけで……。
食べてみると、味は悪くなかった。
「美味しいわね、これ! 私も今度、真似して作ってみようかしら?」
と言ったのは、100%のお世辞ではなく、かなり本音に近かったほどだ。
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食後まったり過ごすうちに、完全に夜になってしまう。
相変わらず『窓』を見て「まだ降ってるな……」と呟く西永くん。
そんな彼を見て、私はまた、冗談じみたアイデアを思いつく。
「そういえば『雨宿り』の『宿』って、宿なんだから『泊まる』ってことだよね? 建物の軒下で雨宿り……みたいなのは、本当の雨宿りとは言えないのかもね」
「いや、それは違うぞ。『宿す』には『とどめる』とか『とめておく』という意味もあるから、そちらの使い方だろう、『雨宿り』の場合は」
西永くんは、そう言って否定するが……。
「いずれにせよ、もう遅いからさ。私が言った方の『雨宿り』の意味で、今晩はここに泊まっていったら?」
という提案に対しては、目を丸くしながらも、結局は受け入れた。
この部屋に来た当初「女子の部屋には初めて入ったから新鮮」と言っていたくせに、その「女子の部屋」に泊まろうというのだから、随分ここに馴染んだものだ。
まあ私にしても大胆な提案だったけれど、一応は予備の布団が一組あるからそれを来客用として使えるし、西永くんならばおかしな振る舞いはしないだろうと信頼もしたからこそだ。
実際、ローテーブルを片付けて布団を敷いたら、そこで西永くんは大人しく寝てくれて……。
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翌朝。
私が目覚めた時には、もう西永くんは起きていた。
既に布団も畳んであり、代わりにローテーブルを出して、またノートパソコンをカタカタさせている。
起き上がった私が寝ぼけ眼を向けると、朝の挨拶で返してきた。
「おはよう、嶋川さん」
「うん、おはよう」
起き抜けに「おはよう」を交わす。そんな相手がいるような生活も悪くない。
……などと呑気に思っていたら、西永くんは悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、『窓』の方に指を向けた。
「ようやく気づいたよ。あれ、雨が降ってるように見えるけど……。実際には、もう晴れてるんだな?」
彼の言葉で、一気に眠気が飛んでいく。
起き上がった私は『窓』でなく窓の方へ歩み寄り、バッとカーテンを開けた。
明るい朝の光が差し込んでくる。昨日の雨が嘘のように、清々しい青空が広がっていた。
一方、隣の『窓』に映るのは、滴る雨の水滴。濡れたガラス窓のように見えるわけだが……。
「気づくの遅かったね、西永くん。私、小説家って鋭い観察眼が必要かと思ってたけど、案外そうじゃないのかな?」
「いやあ、それを言われると返す言葉もないな……」
西永くんは、軽く頭をかく。本気で「返す言葉もない」と思っているのではなく、私の冗談に付き合っているという感じの仕草だった。
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本物の窓の隣にあった『窓』の正体。
それはパソコン用モニターとして使っている、壁掛けディスプレイだった。
パソコン本体の性能には、私はそれほどお金を費やす必要を感じておらず、その分モニターは高価な薄型タイプを使っていた。部屋のインテリアっぽい意味を込めて。
しかもスクリーンセーバーとして、雨の水滴で画面が濡れているような映像をずっと表示。だから部屋を訪れた友達の中には、一瞬誤解する者も何人かいた。
でも、西永くんほど長時間「誤解」したままだったのは初めてだ。面白いから、いつ気づくかと放っておいたのだが……。
まさか翌朝まで気づかないとは!
「ほら、私が使ってるパソコン。OSの名称から『窓』とも呼ばれるパソコンだからね。そのモニターが『窓』っぽく見えるのって、なんだかピッタリでしょう?」
「ああ、一種のダブルミーニングってやつだな」
私の説明を聞きながら、西永くんは自分のノートパソコンを片付けて、鞄の中へ。帰り支度を済ませると、立ち上がり……。
「それじゃ、世話になったな。雨宿りさせてくれて、ありがとう」
と言い残して、ドアの方へと歩いていく。
「私の方こそ、ありがとう。なんだか楽しかったよ」
などという言葉は、あえて言わずに、心の中だけに留めておいた。口に出したら、もしかすると寂しげな表情を見せてしまうかもしれない、と思ったからだが……。
ちょうどそのタイミングで、西永くんが立ち止まり、こちらを振り返った。
「まあ最初はどうなることかと思ったけど、いざ過ごしてみたら嶋川さんの部屋、すごく居心地よかったよ。雨宿りじゃなくても、また遊びに来ていいかな?」
ちょっとびっくりしたけれど、今度は心の中に留めず、きちんと答える。
何気ない風を装って、それでも自然に弾んでしまう声で。
「うん、もちろん!」
(「雨に濡れた窓」完)




