第一章 花に導かれて ー柊ー
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
人がまだ神の息吹と共に生きていた頃、東の果てに「花の国」と呼ばれる地があった。
春ごとに花蘇芳と堅香子が並び咲き、紅と白の花弁が風に舞うさまは、人々に祝福のような喜びをもたらした。
だがやがて堅香子は姿を消し、残された花蘇芳だけが狂おしいほどに咲き誇るようになった。
のちに、この国に祟りが訪れる。
雷鳴が都を揺るがし、ある帝を祀る廟が炎に包まれた。
人々は恐れ、「帝でありながら朝敵となり、毒をあおって果てた悲劇の帝が祟り神となったのだ」と噂した。
その名は蘭祟帝。帝位を追われ、恨みを抱いて死んだ者。
彼の名は、忌むべきものとして人々の記憶に刻まれた。
――それから三十年。
蘇芳神社の境内は、今日も参拝客で賑わっていた。
縁結びの女神を祀るこの社には、若い娘たちが多く訪れる。
鈴の音に混じる笑い声、恋の成就を願って頬を染める姿。
けれど箒を手に掃除をしていた僕には、それらは遠い世界の出来事のように思えた。
赤子の頃、神社に捨てられていた僕を神主が拾った。
背には花蘇芳の花弁のような痣があり、「神の印」として後継者に育てられた。
だが親の顔も知らず、自分が何者かもわからない。
そんな僕にとって、恋は現実味のないものだった。むしろ、なぜか恐ろしいものにさえ感じられた。
人の熱気から逃れるように本殿へ向かうと、そこに一人の女性がいた。
背筋を伸ばし、じっと本殿を見据えるその姿は、恋に焦がれる娘のようにも見えた。
だが顔を覗いた瞬間、僕は思わず箒を取り落とした。
彼女は――睨んでいたのだ。
誰もが恋を願い、頬を染めて祈るその神を。
音に気づいた彼女が振り返る。
一瞬、瞳が揺らいだように見えたが、すぐに無表情へと戻った。
「あなた、ここの神職なの?」
淡々とした声で彼女は問う。
僕は孤児として拾われ、この神社で修行中であることを答える。
「そう。」
それだけ言い残し、彼女は立ち去っていった。
去り際、彼女が何かを呟き、文のようなものを握りしめていた。
その意味はわからなかった。
ただ――その日から、彼女の影は僕の胸の奥に棘のように刺さり続けることになる。




