第7話裏切りの午後
数日後、工房の空気はこれまでにない活気に満ちていた。
二号店の開店が正式に決まり、準備のための図面や什器のリストが作業台に広げられる。革の匂いに混じって、印刷物のインクや新しい木材の香りが漂い、店全体が少し落ち着かない熱を帯びていた。
佐伯彩花は明るい声で注文書を読み上げ、電話の応対に追われていた。小柄な体で右へ左へと駆け回り、額に浮いた汗を手の甲で拭いながらも笑顔を絶やさない。その姿は、まるで店に咲く一輪の花のようで、誰の目にも生き生きと映っていた。
蓮は新しい作業机の寸法を測りながら、その声に耳を傾けていた。胸の奥で、確かな責任感と緊張が同居する。自分が二号店を任される――その事実はまだ完全には実感できないが、皆の動きを見るたび、背筋が自然と伸びた。
「斎藤さん、こっちのリスト確認お願いできます?」
彩花が小走りに寄ってきて、書類を差し出す。
「うん、任せて。」
受け取った蓮の指先に、紙のざらりとした感触が残る。彩花の笑顔に励まされるように、彼は無意識に力強く頷いた。
一方、その様子を少し離れた作業台から眺めている影があった。中村悠真。
革を切る手は動いているが、視線は自然と蓮と彩花の方へと向かう。
――また、あの二人だ。
胸の奥に渦巻く黒い感情を押し隠すように、彼は刃を革に滑らせた。だが指先に伝わる感触は、思うように安定しない。
蓮と悠真は、同じ孤児院で育った。幼いころから兄弟のように過ごし、苦しい時期も励まし合ってきた。それなのに、いつからか自分だけが取り残されていくような感覚が強まっていた。
――蓮は真面目で、不器用なくらいに正直だ。
そんなやつに、どうしてこんな大役が回ってくるんだ。
胸の奥で、言葉にならない苛立ちが膨れ上がる。
目を上げれば、彩花が蓮の隣で笑っている。その笑みは温かく、屈託がない。
――あんな笑顔、自分に向けられたことがあっただろうか。
夜、工房を出て一人アパートへ戻ると、薄暗い部屋の中にため息が落ちた。狭い部屋、くたびれたソファ、冷蔵庫の中には缶ビールが数本。
財布を開けば、給料日から数日しか経っていないのに、ほとんど空に近い。
「……これじゃ、何も変わらない。」
呟いた声が、虚しく壁に吸い込まれていく。
思考は自然と彩花に向かう。
彼女は若く、美しく、客や同僚に囲まれて輝いている。もし自分に金があれば――もっと堂々と近づけるのではないか。彼女もきっと、自分を見てくれるのではないか。
酒で火照った頭の中に、ひとつの考えが浮かんでは離れない。
――金さえあれば。
机の上に放り出されたスマートフォンを手に取り、画面を操作する。
検索履歴にはすでに残っていた。「ブランド コピー品」「本物そっくり バッグ」。
スクロールする指先が止まり、画面に表示された写真を凝視する。
光沢も縫い目も、本物と見分けがつかない。価格は驚くほど安い。
心臓が早鐘を打つ。
頭の中で理屈を組み立てる。
――客は誰も気づかない。
――ほんの少しの入れ替えで、簡単に大金が手に入る。
――一度だけなら……。
気づけば、購入ボタンを押していた。指先に伝わる小さな震えを、自分でも止められなかった。
異変が起きたのは、ある常連客の来店がきっかけだった。
その日は昼下がり、店内にはいつも通りの革の匂いと、ミシンの低い唸りが満ちていた。蓮は作業台で糸を引き、彩花はレジの前で来客を迎えていた。
ドアベルが鳴り、黒いスーツ姿の執事らしき男が入ってきた。その背筋は硬く、目には苛立ちの色がはっきりと浮かんでいる。
「店長を呼んでいただけますか。」
低く抑えた声に、店内の空気が一瞬止まった。
間もなく事務所から高橋正夫が姿を現す。普段は穏やかな笑みを絶やさない彼も、この客の表情を見てすぐに真剣な眼差しへと変わった。
「どうされましたか。」
「先日こちらで修理をお願いしたバッグですが……持ち主である奥様が、本物ではないと気づかれたのです。」
重い言葉が落ちた瞬間、店の空気は鋭く張りつめた。彩花が息を呑み、蓮も手にしていた糸を思わず取り落とした。
「そんなはずは……」
高橋はすぐに言葉を返しかけたが、相手は封筒を差し出した。中には鑑定書と写真。バッグは精巧な偽物であると証明されていた。
その場にいた全員の背筋に冷たいものが走った。
「確認させていただきます。少々お待ちを。」
高橋は深く頭を下げ、客を応接室へ案内すると、すぐに事務所へ戻った。
工房に残された職人たちは、互いに視線を交わすが誰も口を開けない。
やがて事務所から再び店長の声が響いた。
「中村。ちょっと来なさい。」
呼ばれた悠真の背中がわずかに強張る。
彼はゆっくりと立ち上がり、作業着の裾を無意識に握りしめながら事務所へ向かった。
重い沈黙が支配する中、ドアが閉じられる。
部屋の中は薄暗く、机の上には証拠の写真と書類が並んでいた。
「……これは、どういうことだ。」
高橋の声は低く、怒気を抑えている分だけ鋭い。
悠真は唇を結び、目を逸らした。
「俺じゃない。そんなこと……してません。」
だが高橋は机の引き出しを開け、一冊の封筒を取り出す。そこには通販サイトの購入履歴、配送伝票の写しが収められていた。さらに彼のロッカーからは、未使用の偽ブランドバッグが発見されていたのだ。
「これでもまだ言い逃れるつもりか。」
声が低く響き、空気がさらに重く沈む。
悠真の額に汗が滲む。否定の言葉は喉まで出かかるが、証拠の山を前に声にならない。
「お前は小さなころからここにいて、節子さんも俺も、蓮も……みんな家族のように思ってきた。どうしてこんなことをした。」
沈黙。
やがて悠真は両手を握りしめ、掠れた声で呟いた。
「……金が、必要だったんです。」
「金?」
「そうだよ。給料だけじゃ足りない。女だって、金がなけりゃ振り向いてくれない。俺は……俺は……!」
堰を切ったように言葉が溢れる。
胸の奥に溜め込んだ劣等感、蓮への嫉妬、彩花への思慕。それらが混ざり合い、苦い叫びとなって吐き出された。
その時、外の作業場でざわめきが起きた。
彩花が不安そうに耳を澄まし、蓮も居ても立ってもいられず、事務所へ向かった。
扉を開けた瞬間、室内に漂う緊張が全身を刺した。机の上の証拠、俯いた悠真、そして険しい表情の店長。
「店長、どうしたんですか……」
蓮が口を開くと、節子夫人が後ろから静かに説明した。
「悠真くん……お客様のバッグをすり替えてしまったのよ。」
「……!」
蓮の胸に冷たい衝撃が走った。長い年月、共に歩んできた友が、そんなことを――。
その視線を受けた悠真の顔が歪む。
「お前のせいだ……蓮。」
低く唸るような声が広がった。
「お前が店長に気に入られて、二号店を任されるから! 彩花もお前ばっかり見てる! 俺には何もない……全部お前が奪ったんだ!」
叫びと同時に、悠真は作業机に置かれていた工具を掴み、力任せに蓮へと投げつけた。
金属が空気を裂き、床に叩きつけられる鋭い音が響く。
間一髪で身をかわした蓮は、背中から床に倒れ込み、息を詰まらせた。
「やめなさい!」
節子夫人の悲鳴が響く。
次の瞬間、高橋が机を越えて悠真の胸倉を掴み、一撃を見舞った。鈍い音とともに悠真の身体が倒れ込む。
「もうこれ以上は許さない。……お前は今日限り、この店を去れ。」
怒りに震える声が、工房全体を揺らした。
悠真は顔を歪め、唇を噛みしめながら立ち上がった。
「……ちくしょう……」
吐き捨てるように呟き、彼は振り返ることなく店を出て行った。
扉が閉まった後、工房には重苦しい沈黙が残った。
彩花は青ざめた顔で蓮の傍に駆け寄り、節子夫人は深くため息をついた。
蓮の胸には、痛みと共に深い哀しみが広がっていた。
――どうして、こんなことになってしまったのか。
扉が閉まった後の工房は、異様な静寂に包まれていた。革の匂いと、微かに残る工具の金属臭だけが、かすかに揺れる午後の光に溶けていた。
彩花は蓮の横にしゃがみ込み、震える手を握る。顔は青ざめ、瞳はまだ揺れている。
「大丈夫……?」
蓮はうなずきながらも、胸の奥の痛みが消えるわけではなかった。長年共に育った友が、自分の目の前で裏切り、そして怒りと嫉妬に狂った姿を晒した。
節子夫人はゆっくりと歩み寄り、机の上に手を置いた。
「これで、しばらくは落ち着くでしょう。でも……蓮くん、あなたも心を強く持って。」
蓮は視線を窓の外に向けた。秋の光は柔らかく、街路樹の葉がカサリと揺れる。風は心地よく、ほんの少しだけ冷たくなり始めていた。
その光景に、どこか救いを見つけようとする自分がいた。
「……どうして、あんなことに……」
呟いた声が、自分自身の耳にも届く。答えはない。ただ、現実として突きつけられた事実が、胸にずっしりと重くのしかかっていた。
彩花はそっと蓮の肩に手を置き、彼の震えを感じ取る。
「でも、蓮さん……あなたはちゃんと正しいことをした。店長も、謝罪も含めてちゃんと対応してくれたし……」
その言葉は小さく、しかし確かに心に響いた。
蓮はゆっくりと息を吐き、手に残る糸くずを払いながら机に腰掛けた。
思考は混乱していたが、少しずつ整理されていく。
――信頼とは、簡単には壊れないもの。失われることもあるが、また積み重ねることもできる。
高橋は事務所の奥で、手続きや謝罪の書類を整えていた。
その背中に、蓮はふと幼いころから見守られてきた安心感を思い出す。自分を信じ、育ててくれた人々の存在を、改めて胸に刻む。
作業台の上には、修復中のバッグや工具が散らばっている。
金属の冷たさ、革のざらつき、ミシンの低い唸り……日常の音や感触が、穏やかに、しかし確かに戻り始めていた。
「二号店……やらなきゃね。」
蓮は小さくつぶやき、彩花に微笑みかける。彩花もにっこりと笑い返す。その笑顔は、ささやかだが温かく、これからの希望を少しだけ示していた。
外の街路樹が、夕日に赤く染まり始める。風がカサリと葉を揺らすたび、工房の中にも柔らかい光と空気が流れ込んだ。
悲しみや怒りは完全には消えない。だが、この場所、この人々、この日常がある限り、前へ進む力は確かにある――蓮はそう感じた。
長い一日が終わろうとしていた。
静かな工房に、淡い夕日が差し込み、革の匂いとともに、穏やかで温かい光景を描いていた。
そして、蓮は小さく拳を握り締め、未来を思い描く。
――二号店を、必ず成功させる。
その思いだけが、胸に静かに燃えていた。
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