第6話 蓮と彩花、すれ違う想い
夜の街は、夏の名残を抱えた湿気に満ちていた。居酒屋の灯りがにじみ、笑い声と煙草の匂いが混ざり合う。光彩工房の飲み会は、仕事の疲れを慰めるように賑やかだった。
佐伯彩花はグラスを両手で包み込み、琥珀色の液体を見つめていた。まだ二十歳。酒は得意ではない。それでも今夜は、わざと一口多く飲んだ。
胸の奥にある気持ちを、どうしても伝えたいと思ったからだ。
視線の先には、斎藤蓮が座っている。無口で、どこか人を寄せつけない雰囲気の青年。けれど彼の背中は真っ直ぐで、ものづくりに向き合う姿は誠実そのものだった。無駄な言葉を口にせず、黙々と手を動かす姿に、彩花は何度も心を奪われてきた。
——この人となら、きっと幸せになれる。
彼女の想いは、それだけのことだった。難しい理由はない。蓮が好きだから。彼と結ばれれば、自分は温かい家庭を築ける。そう信じていた。
「彩花ちゃん、大丈夫?」
石田恵美の声がした。彼女は三十を過ぎた落ち着いた主婦で、彩花にとっては姉のような存在だ。
「顔、真っ赤だよ」
「だいじょうぶ……ちょっと酔っちゃっただけです」
彩花は笑顔を作った。ほんの少し、ふらりと体を傾ける。蓮が気づいて手を差し伸べてくれるのではないか。そんな淡い期待を込めて。
しかし——。
「石田さん、藤井さん。彼女を送ってもらえますか」
静かな声が落ちた。
蓮は表情を変えずに、二人の主婦へ視線を向けていた。
「えっ……」
彩花の胸が小さく痛んだ。
「わかったわ、彩花ちゃん、一緒に帰ろうね」
藤井直子がすぐに立ち上がり、傘を手に取った。恵美も笑顔で頷く。
彩花は言葉を失ったまま、二人に支えられて店を出た。
外に出た途端、雷鳴が轟き、空が光を裂いた。次の瞬間、土砂降りの雨が降り出す。
「うわっ、走ろう!」
恵美が傘を広げ、彩花の肩に差しかける。直子も隣でバッグを覆いながら駆け足になる。
彩花はふと振り返った。
蓮が店先に立ち尽くし、雨に濡れたまま空を仰いでいた。表情は読み取れない。けれど、その背中は、はっきりと距離を示していた。
——逃げられた。
胸に重く落ちる言葉。
喉まで上がっていた告白は、雨と共に溶けてしまった。
*好きです。付き合ってください。*
ただそれだけを言いたかった。けれど声は出なかった。
数日後。
光彩工房の午後は、革の匂いと機械の低い音に包まれていた。彩花はレジに立ち、客の応対をしながら心の奥で小さな決意を固めていた。
——もう一度、試してみよう。
蓮は確かに彼女を避けた。けれど、それで諦めるほど彩花の気持ちは浅くない。恋は一度の拒絶で終わるものではない、と彼女は信じていた。
「幸福は、待っていても来ない。自分からつかみに行かなきゃ」
心の中でそう呟くと、胸に勇気が宿った。
そんな折、彼女の前に現れたのが橘圭介だった。
黒の外車を乗り回し、派手なシャツを着こなした男。建設会社の社長の息子だと聞いた。街のバーで顔を合わせたとき、彼はすぐに彩花に興味を示した。
「今度、迎えに行くよ。君の職場まで」
軽い口調。彩花は曖昧に微笑んで頷いた。心の奥で、ある計算が働いた。
——蓮さんに見てもらうんだ。
誰かに想われている自分を。そうすれば、彼も少しは気づいてくれるかもしれない。
その日の夕方、工房の前に黒い外車が停まった。
圭介が窓を開け、手を振る。
「彩花ちゃん、待った?」
通りすがりの客や職人たちが目を丸くした。
彩花は頬を赤らめ、わざとらしくないよう気をつけながら近づく。視線の端に、蓮の姿を探す。
蓮は工房の奥で、革を磨いていた。ちらりとこちらを見たが、すぐに目を逸らす。
胸が締めつけられる。けれど、負けたくなかった。
「行ってきます」
小さな声でそう言い、彩花は圭介の車に乗り込んだ。
その光景を、中村悠真はじっと見つめていた。
幼なじみの蓮に対して、心の奥に押し込めてきた劣等感が一気に膨れ上がる。彼もまた彩花に惹かれていたからだ。
夜。
蓮は自宅で黙々と革の道具を磨いていた。窓の外には、また雨が降っている。
ふと、亡き両親のことを思い出す。海難事故で命を落としたあの夜。彼だけが生き残った。
それ以来、死の匂いを嗅ぎ分ける力が備わった。人が命を終える前の、不吉な香り。それを知るたびに、蓮は人との距離を保つようになった。
——自分に、家庭を持つ資格はあるのか。
彩花の気持ちに応えられない理由は、そこにあった。彼女を不幸にしたくなかった。
しかし同時に、心のどこかで別の声が囁いていた。
——人生は短い。
誰もがいつか死を迎える。だからこそ、何かを築かなければならないのではないか。
その迷いを抱えたまま、蓮は翌日、高橋店長のもとを訪ねた。
「二号店の店長の件……やらせてください」
静かな声に、決意が宿っていた。
高橋は深く頷き、温かな笑みを浮かべた。
「よく言ったな、蓮」
新しい日々が、動き出そうとしていた。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
評価ポイントやブックマークが作者の原動力です。
「また読みたい」と思っていただけたら、応援していただけると嬉しいです。