表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

第5話 紅茶の残り香



 胸を突き上げるような痛みが、突然に蓮を襲った。

 視界は一瞬で暗転し、世界の輪郭が遠ざかっていく。耳の奥で心臓の鼓動が乱れ、重油のようにどろりとした血が流れる音が響いた。息を吸おうとしても喉が塞がれ、冷たい夜気だけがかすかに鼻腔に触れる。


 「……っ」


 足がもつれ、蓮は石畳の歩道に倒れ込んだ。

 街灯がひとつ、淡いオレンジ色の光を投げている。湿った秋の夜の匂いが地面から立ちのぼり、遠くで救急車のサイレンが細く伸びていった。暗闇は深く、どこまでも沈んでいく。


 最後に浮かんだのは、美月の笑顔だった。頬のえくぼ、少しだけ伏せた睫毛。その一瞬にすがるようにして、蓮の意識は途切れた。


 ――しかし、五分後。

 彼は瞼を開いた。


 「……生きてる?」


 全身は汗に濡れ、シャツが背中に貼りついている。心臓の痛みは奇妙に消え、代わりに静かな余韻だけが残っていた。冷たい夜風が頬を撫で、遠くの電線が風に軋む。世界は確かに戻ってきていた。


 ふらつく足で立ち上がり、蓮はひとり狭いアパートへ帰った。空っぽの部屋は暗く、窓の外のネオンがかすかに揺れている。机の上には読みかけの本と、使いかけのペン。人の気配はなく、埃の匂いがかすかに漂う。


 それでも、その夜の眠りは不思議なほど深かった。夢の中で美月が笑いかけてくる。口元の柔らかな曲線が、何度も繰り返し浮かび、蓮の胸を温かくした。


 翌朝。

 鏡に映る自分の顔が、心なしか明るく見えた。目の下の隈は薄れ、口元には夢の余韻が残っている。


 まだ朝靄の残る道を歩き、光彩工房へ向かう。古い木の扉を押し開けると、コーヒーの香りが漂ってきた。奥の小さなキッチンでは、高橋潔子がポットを手に立っている。五十代半ば、短く切った髪に白いシャツ。凛とした雰囲気の中に、商売を切り盛りしてきた女性特有の逞しさがある。


 「おや、蓮。今日は随分早いじゃないか」


 明るい声に迎えられ、蓮は軽く会釈した。

 コーヒーの湯気の奥、棚に並ぶ茶葉の瓶。そのひとつが、微妙に蓋がずれていた。潔子が手に取って眉をひそめる。


 「ん? 紅茶……減ってるね。誰か使ったのかい?」


 蓮の胸に小さな波が走る。


 「……すみません。昨日、残業してて。コーヒーに牛乳がなかったから、紅茶を淹れました」


 「あらそう。珍しいこともあるもんだね。蓮はいつもコーヒー党だろう?」


 視線が探るように向けられ、蓮は少しうつむいた。


 「……たまには、変えてみたくなっただけです」


 潔子はくすりと笑い、腰に手を当てた。

 「へえ、たまにはね。……でもねえ、牛乳がないとコーヒーは飲めない子ってのは、大抵、女の子なんだよ」


 蓮の耳が熱を帯びる。答えに窮していると、潔子は声を弾ませて続けた。


 「なるほど、ようやく蓮にも心ときめく人ができたのかしらね。いいことだよ。木みたいに真っ直ぐなあんたが、誰かに揺れるのを見るのは、私も嬉しいね」


 その言葉に胸がざわめき、蓮は急いで作業場へと足を運んだ。革の匂いと針の音に身を沈め、心の動揺を隠す。


 昼時。

 前台の佐博彩花が帳簿を抱えてやってきた。明るい瞳に軽やかな笑み、制服のシャツから覗く首筋は健康的に日焼けしている。


 「斎藤さん、お昼どうですか? 近くに新しいイタリアンができたんですよ。パスタがすごく美味しいらしいんです」


 蓮は手を止め、少し考えてから短く答える。

 「そう……行ったことはないですね」


 彩花は一歩踏み込み、声を弾ませる。

 「じゃあ今度一緒に行きましょうよ。ひとりじゃ入りにくいでしょ?」


 その瞬間、背後から潔子の笑い声が響いた。


 「おやおや、彩花も熱心だねえ。だけど、この子は少し鈍いから、きっと今の言葉も半分しか届いてないよ」


 彩花は舌を出し、笑顔で返す。

 「大丈夫です。鈍い人ほど、放っておけないですから」


 蓮は視線を落とし、曖昧に頷いた。胸の奥で、別の笑顔――美月のそれが静かに浮かんでいた。


 週末の飲み会。

 工房近くの居酒屋は、白い提灯が灯り、焼き魚の匂いと笑い声が漂っていた。木のテーブルにはビールの泡が溢れ、熱気と煙草の煙が天井に溜まっている。


 彩花は積極的に蓮の隣に座り、何度もグラスを重ねた。やがて頬を赤くし、わざとらしく肩を預けてくる。


 「斎藤さん……私、ちょっと酔っちゃいました」


 彼女の髪からシャンプーの甘い匂いが漂う。だが蓮は困ったように笑い、向かいの主婦二人に視線を送った。


 「すみません、彩花さんをお願いします。僕じゃ上手く介抱できないので」


 その夜、彩花の胸に渦巻いたのは失望と苛立ちだった。――やっぱり、この人は木偶の坊なのかもしれない。


 そしてある晩。

 店を閉めて鍵を掛けた蓮の背に、足音が追いかけてきた。


 「斎藤さん!」


 街灯の下に彩花が立っていた。風に髪を揺らし、瞳は真剣そのものだった。


 「私、どうしても……あなたに伝えたいことがあるんです」


 その声と同時に、蓮の胸がまた強く疼いた。

 暗闇の底から、あの夜の痛みが甦る。世界がふたたび揺らぎ始めていた。

本日もここまで読んでくださりありがとうございます。

もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひブックマークや評価をしていただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ