第4話 運命の匂い
ガラス戸を押し開けると、外の空気が一気に胸に流れ込んできた。
斎藤蓮は息を切らしながら眼鏡店から飛び出し、夜の街を駆け抜けていた。胸の奥で不協和音のように鳴り響く心臓の鼓動。あの瞬間、瀬川美月の身体から確かに漂った、死を予兆するあの匂い──鼻腔の奥に焼き付いて離れない。
足がもつれ、近くの路地でようやく立ち止まる。額に冷や汗が浮かび、背中を流れ落ちる。壁に手をつき、荒い呼吸を整えながら蓮は目を閉じた。
(どうして……どうして彼女から、あの匂いが?)
長年、この異様な感覚を抱えてきた。誰にも理解されない力。死が近い人間の周囲には、必ずあの独特の臭気が漂う。それを知っていながら、自分には止める術も救う術もない。だからこそ、いつも距離を置き、見なかったふりをしてきた。
だが、美月の笑顔を思い出すと、逃げるだけではいけない気がした。冷静さを取り戻した蓮は、再び店へと歩みを返す。
店内での約束
カウンターの奥では、美月が変わらぬ微笑を浮かべ、客に眼鏡を手渡していた。蓮の姿に気づくと、彼女は目を丸くする。
「……どうしました? さっきは急に飛び出して」
蓮は深く息を吸い、震える声を抑えながら言った。
「唐突で申し訳ない。だけど、どうしてもあなたに伝えたいことがあるんです。三十分でいい、時間をいただけませんか」
その真剣な表情に、美月は一瞬戸惑いながらも、小さなメモ帳を取り出す。そこにさらさらとペンを走らせ、蓮へ差し出した。
──「二十時半 近くのカフェ」
短い文字。蓮は何度も頷き、深々と頭を下げて店を後にした。
静かなカフェ
約束の時間より少し早く、蓮は古いレンガ造りのカフェに足を踏み入れた。木目調の床は柔らかく磨かれ、窓際には観葉植物が静かに佇んでいる。
スピーカーからは、低く穏やかなピアノジャズ。店内には数人の常連客が、読書をしたり、静かに話したりしているだけ。
蓮はカウンター席に腰を下ろし、ブレンドコーヒーを注文した。湯気とともに立ち上る香ばしい匂いが、少しずつ心を落ち着けていく。
時計の針が二十時半を指すころ、扉のベルが小さく鳴った。
そこに立っていたのは、制服を脱ぎ、淡いブルーのカーディガンに着替えた美月だった。髪を耳にかけながら歩み寄る彼女の姿を見た瞬間、蓮の胸は跳ねる。
(……匂いが、しない)
あの死の匂いが、消えている。
蓮は思わず立ち上がり、彼女の周囲を回り込んだ。近づいて、深く息を吸う。肩口、髪先、手首のあたり……必死に嗅ぎ分ける。
怪訝そうに眉をひそめる美月。蓮は我に返り、顔を真っ赤にして頭を下げた。
「す、すみません……取り乱しました」
運命の告白
テーブルにつき、二人は向かい合った。
「……あの、急に聞きますけど、美月さんは『運命』って信じますか」
唐突な問いに、美月は目を瞬かせ、笑みをこぼす。
「いきなり難しいですね。どうしてそんなことを?」
蓮は唇を噛み、視線を落とした。
「信じてもらえないかもしれません。でも……僕には、人が死ぬ前にだけ漂う匂いが分かるんです」
沈黙が落ちた。美月は冗談だと思ったのか、苦笑を浮かべる。
「それ、本気で言ってるんですか?」
「はい。笑ってくれていい。けれど、今まで間違えたことはなかった」
美月はカップを指先でなぞりながら、じっと蓮を見つめる。
「もしそれが本当なら……とても恐ろしいことですね」
「そうなんです。だから僕は、この力を呪いだと思ってる」
二人は長く話し込んだ。運命や偶然、人生の不確かさ。
気づけば一時間が過ぎていた。別れ際、美月は小さく手を振り、夜の街へ消えていった。
蓮は心の奥で、もしかすると匂いは錯覚だったのではないかと自分に言い聞かせながら帰路についた。
翌日の知らせ
翌日、工房で仕事をしていると、店主の高橋潔子が声をかけてきた。五十代半ばの、物腰の柔らかな女性だ。
「蓮くん、近所で事故があったの知ってる?」
「事故?」
「町内会長さんの息子さんが……帰り道で高所からの落下物に当たってね。そのまま……」
言葉を濁す潔子の目が潤む。
蓮の背筋に冷たいものが走った。昨日、美月から消えた匂い。それは彼女ではなく、この青年にまとわりついていたのかもしれない。
蓮は唇を噛み、問い返した。
「……潔子さんは、運命って信じますか」
彼女は静かに首を振った。
「もし未来が分かるなら、そんなものいらないわ。知ってしまえば、生きる喜びなんて消えてしまうもの」
蓮は深く頷いた。胸の奥に、重たい石が沈んでいく感覚。
夜の工房にて
その夜、残業で工房に一人残った蓮は、革製の高級バッグを手にしていた。柔らかい革の表面を磨き、光沢を取り戻していく。黙々と手を動かす時間は、彼にとって心を落ち着ける唯一のひとときだった。
ふと、背後に気配を感じる。振り返ると、入口に美月が立っていた。
「ごめんなさい、勝手に来ちゃって……」
彼女は深々と頭を下げる。
「名簿から住所を見つけて……どうしてもお礼が言いたかったんです」
驚く蓮をよそに、美月はまっすぐに告げた。
「昨日、あなたに会わなければ……私はもう生きていなかった」
テーブルに広げられた新聞には、駅近くの工場で爆発事故が起き、多数の死傷者が出たと書かれていた。発生時刻は、美月が帰路についていたはずの時間。
蓮は目を閉じ、苦い声で答えた。
「偶然です。神さまか、先祖か……誰かが守ってくれたんでしょう。僕の力なんて関係ない」
必死に否定する。認めてしまえば、背負わなければならなくなるから。
それでも美月は静かに頭を下げた。
「あなたに救われた命です。本当にありがとう」
そして崩れ落ちる夜
深夜、工房を出て帰路についた蓮は、冷たい夜風に吹かれながら歩いていた。
街灯の下、影が揺れる。胸の奥で、不規則な鼓動が速まる。
「……くっ」
心臓が鷲掴みにされたように痛み、視界が暗転していく。
最後に見たのは、星のない夜空だった。
そのまま、蓮の身体は静かに歩道に崩れ落ちた。
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