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第3話 死の匂いを抱えて



夜の深さが、まるで底なしの井戸のように彼を飲み込んでいた。布団の上で何度も寝返りを打ちながら、斎藤蓮は瞼を閉じることができなかった。頭の奥にこびりついて離れないのは、昨日の夕暮れに嗅いだあの異様な匂い。鉄が錆びたような、土が濡れて腐ったような、形容しがたい「死」の気配だった。


人が死にゆくとき、その直前にしか漂わないはずの匂いを、なぜ自分だけが嗅ぎ取るのか。理由を考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていく。窓の外では、秋へ向かう風が細く鳴り、電線を微かに震わせていた。耳を澄ませば澄ますほど、蓮は自分が世界から切り離されていくように思えた。


夜明け前にようやく浅い眠りへ落ちたが、それは休息というより、意識の途切れに過ぎなかった。目覚ましの音が鳴ったとき、蓮の頭は鉛のように重かった。朝食をとる気力もなく、顔を洗っただけで工房へ向かう。


工房の扉を開けると、革と洗剤の匂いが入り混じった空気が迎える。靴底を削る機械の音、洗濯機の低い唸り、奥の作業台からは革を叩く乾いた音。どれもいつもと変わらぬ日常の音だが、今日の蓮には遠く、霞がかった響きにしか聞こえなかった。


作業台に立ち、壊れた鞄の縫い目に針を通そうとする。しかし指先が覚えたはずの手順が、やけにぎこちない。視線は革の上に落ちているが、意識は別の場所に彷徨っている。


「おい、蓮」


低く押さえた声が耳を打った。顔を上げると、中村悠真がこちらを睨んでいた。孤児院時代からの知り合いで、今は同じ工房で働いている。


「仕事中にぼーっとするなよ。こっちは真剣にやってんだ」


その言葉には、僅かな苛立ちと嫉妬が混じっていた。


「……ごめん」


蓮は短く謝るしかなかった。言葉の奥底にある棘を感じつつも、反論する気力はなかった。


午前中の作業は、靄の中を歩くように過ぎた。指の感覚は鈍く、縫い目は歪む。磨いた革の表面には、いつもより深い曇りが残った。


昼になり、工房の一角に置かれた長机で皆が弁当を広げ始める。蓮も自分の弁当箱を開けたが、食欲はほとんど湧かなかった。箸を持ったまま、ただ前方を見つめている。


「蓮くん、また考え事?」


柔らかな声が耳に届く。店長夫人、高橋潔子だった。四十代半ばに差しかかっているが、落ち着いた笑顔と清潔な身なりが印象的な女性だ。


蓮ははっと我に返った。自分がじっと見つめていたのは、潔子の左手だった。彼女は左利きで、箸を器用に操っている。


「ごめんなさい……その、変な目で見てしまって」


慌てて頭を下げる蓮に、潔子は少し困ったように微笑む。


「気にしないで。左手で食べるの、珍しくて気になった?」


「いえ、そんなつもりじゃ……」


言い訳は最後まで続かなかった。喉が詰まり、言葉が消えていく。


潔子は少し間を置いてから、声を落として言った。


「蓮くん、二号店の店長の話……考えてくれた?」


箸の動きが止まった。胸の奥に冷たい石を投げ込まれたような衝撃。


「……まだ、決められません」


視線を落としながら答えると、潔子は静かに首を振った。


「今の店長――主人はね、あなたをただの従業員と思っていないの。十五の頃から見てきた子どもみたいに思ってる。父親代わりになりたいって、ずっと言っていたわ」


その言葉が胸に刺さる。孤児院で過ごした年月、父の面影を知らぬまま育った自分。工房に拾われた日から、店長夫妻は確かに両親のように接してくれた。敬意と感謝がある。しかし同時に、重荷のような感覚も拭えない。


昼食を終えたあとも、蓮の思考はそこに絡みついて離れなかった。父親のように見守られてきた恩。その期待を裏切ってはいけない気持ちと、自分が背負えるのかという不安。その狭間で胸が裂けそうだった。


眼鏡の違和感に気づいた。視界がわずかに歪み、色の境目が揺れて見える。作業の合間に鏡を覗くと、左目の眼鏡のレンズが微かにずれていた。


さらに古い部品がひび割れて、外れかけている。


夕方、蓮は修理を頼むために眼鏡店へ向かった。扉を開けると、鈴の音が澄んで鳴る。白い照明がガラスの陳列棚に反射し、無数のフレームが並んでいた。


「いらっしゃいませ」


瀬川美月が微笑んで立っていた。二十代半ばの若さ、清潔な白いブラウス、胸元に小さな名札。眼差しは優しく、言葉は柔らかい。蓮は眼鏡の不具合を説明し、修理を頼もうとした。


「七、八年も使っているんですね。新しくした方がいいかもしれません」


美月は工具を手にしながら穏やかに言った。


その瞬間だった。――鼻腔をかすめた、あの匂い。鉄と土、血と腐臭が混じったような、魂の底を揺さぶる匂い。蓮の全身が硬直した。昨日、目の前で死んだ男から漂った匂いと同じもの。いや、それ以上に濃い。


目の前の美月から、確かに発せられていた。恐怖と混乱が交錯し、手に持った眼鏡を渡すこともできず、蓮の指先は震えた。声も出ない。美月の微笑みは柔らかく、しかしその無垢さが逆に恐ろしかった。――こんなにも若く、美しく、温和な人が、なぜ死の匂いをまとっているのか。


「……どうしました?」


美月は首を傾げた。無邪気な視線が、さらに蓮の胸に刺さる。


「す、すみません……今日は、やっぱり……」


蓮は言葉を途切れさせ、突然立ち上がった。椅子が床を擦り、甲高い音を立てる。美月の驚いた表情を背に、蓮は駆け出すように店を飛び出した。


外に出た瞬間、夜の風が頬を叩いた。喉の奥からこみ上げる吐き気。心臓は荒々しく鼓動し、耳の奥で血の音が轟く。――なぜ、彼女が。なぜこんな若い女性から、死の匂いが。


蓮は歩きながら、自分の内面と対話していた。心の奥底で恐怖が渦を巻き、理性は揺らいでいる。


(――俺は、何なんだ。なぜ、死を嗅ぎ分けることができる? 昨日のあの男、そして今目の前の美月……。俺は、この力に縛られて、逃れられないのか……? 俺は、普通の生活を、普通の幸福を、手にすることができるのか……?)


街灯の光が、歩道に影を落とす。蓮は自分の手を握りしめ、冷たく汗ばんだ掌を見つめた。眼鏡を持った手は、まるで自分の意思とは別に震えているかのようだった。


(――逃げても、逃げても、この匂いは追いかけてくる……。俺は……何を信じればいい……?)


足元に影を引きずりながら、蓮は夜の街をさまよった。心臓の鼓動だけが、虚空に響く。恐怖と戸惑い、そしてどこかしらの絶望が、彼の胸を締めつけていた。


──この夜、斎藤蓮は初めて、自分の能力の恐ろしさを、そしてそれに伴う孤独を、深く知ったのだった。

ここまで読んでくれてありがとう!

作者はブックマークと評価ポイントで生きています(笑)。

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