第1話 光彩工房の午後
仙台の街・午後
仙台の街に午後の柔らかな日差しが差し込む。通りを行き交う人々の足音は、穏やかでありながら、どこか日常の慌ただしさを感じさせる。その中で、古いレンガ造りの建物が静かに佇んでいた。木製の看板には「光彩工房」と書かれ、夕方の光に淡く反射している。
(今日も静かだ。外の世界は変わらず、でも僕の心は……)
店内に足を踏み入れると、革の匂いとわずかな洗剤の香りが混ざり合い、時間がゆっくりと流れる感覚を齋藤蓮は感じた。
店内・作業台
齋藤蓮は作業台に向かい、手元のlv牛革バッグをじっと見つめている。指先で革の表面を撫で、微細な傷や汚れを確認する。布の感触、革の弾力、わずかな凹凸――五感を総動員し、丁寧に修復を進める。
(このバッグは……単なる仕事じゃない。過去の記憶の一部みたいだ。触れれば、手が、心が、何かを感じ取る。)
背後から店長の声がした。
「昨日の夜、ずいぶん遅くまでやっていたようだな。」
蓮は小さく頷いた。低く静かな声で答える。
「細かい傷を見つけて、修復しました……」
正夫は満足そうに微笑む。
「そうか、よく見てくれたな。」
(言葉は少なくていい。手仕事で伝えれば……それで十分だ)
事務所・店長との会話
「蓮、ちょっと事務所へ来てくれ。」
蓮は静かに立ち上がり、床の冷たさを感じながら事務所へ向かう。
正夫は書類に目を落とした後、ゆっくりと顔を上げた。
「二号店を任せたいと思っている。」
(二号店……?責任者として……僕が?技術も、人との関わりも、自信が……ない……)
蓮は声を絞り出すように言った。
「……まだ自信がありません。もっと技術を磨かないと。」
正夫は優しく頷く。
「そうか、よく考えてくれ。急ぐことはない。」
蓮は礼をして事務所を出た。
店内・バッグの異変
店に戻ると、いつもと同じ静かな日常が広がっていた。佐伯彩花は前台で会計を処理し、石田恵美と藤井直子は丁寧に衣類や革製品を手入れしている。中村悠真は作業台で別のバッグを修復していた。
蓮が手を休め、修復を終えたバッグを台に置くと、目の端に不穏な影――中村の邪悪な笑みが映る。
(……何かがおかしい)
次の瞬間、背後から低く邪魅な笑い声が聞こえた。
「……中村?」
目を下げると、RVのバッグに黒いペンで跡がついている。革の表面にくっきりと残った線に、驚きと不信感が胸を突く。
蓮は静かに中村のもとに歩み寄った。中村は別のバッグを修復しながら振り向き、大笑いする。
「証拠でもあるのか?誰がやったか見たのか?」
蓮は冷静に答える。
「これは遊びじゃない……大人の仕事だ。」
中村は顔を赤くして苛立ちを露わにする。
「お前の運の良さは全部奪われたんだ。店長にだって好かれて、俺より優遇される……!」
中村は蓮を強く押す。蓮はバランスを崩し、後ろに倒れ込む。その拍子に眼鏡が床に落ち、レンズは砕け散った。
(痛み……ではない。ただ、淡い無力感だけが心を包む……)
バッグの修復・内心描写
蓮は碎れた眼鏡を手に取り、静かに握る。言葉を発さず、怒りを示さず、ただバッグを抱えて修復作業に戻る。革の温度、凹凸、微細な色の変化を指先で感じ取り、丁寧にワックスを塗り込む。五感のすべてを研ぎ澄まし、手の動きに心を委ねる。
(中村の嫉妬も、二号店の話も、全部どうでもいい。ただ、手を動かすこと。これが僕の世界……)
中村は自分の作業に戻り、蓮をちらりと見て、満足そうに笑った。その目には、嫉妬と優越感が入り混じっている。
日常の静謐
佐伯彩花は前台で小さく息を呑み、石田恵美と藤井直子は目を丸くしたが、誰も大声を上げず、蓮が静かに作業を続けるのを見守る。
午後の光は変わらず柔らかく、店内の革の香りと混ざり合って、静謐な空気を保っていた。
(今日も……終わる。手仕事だけが、僕の言葉であり、世界との唯一の接点だ)
章の締め
蓮はバッグを抱え直し、碎れた眼鏡の破片を手元に置いたまま、淡々と作業を進める。二号店への責任感、孤児時代の影、中村への複雑な感情――それらは重くも静かな圧力となり、彼の心に残った。しかし、手と心を動かすことで、彼は自分自身を取り戻していく。
光彩工房の午後は、静かに、しかし確実に終わろうとしていた。
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