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はじめに 八月の海、死の匂い

序章 八月の海、死の匂い


 八月の夜の海は、日中の熱気を洗い流したかのように静かだった。

 仙台港を離れた観光船は、黒々とした水面を切り分けながら南へ向かう。目的地は沖縄。夏休みを締めくくる家族連れや、学生グループや、年配の観光客が、ひとときの非日常を楽しんでいた。


 甲板ではつい先ほどまで地元のバンドが演奏をしていた。色とりどりのイルミネーションが手すりに飾られ、波間に映える光が揺れている。アルコールの残り香、焼き立ての海老や肉の匂いがまだ漂い、耳の奥に軽快なリズムが残っていた。


 十歳の斎藤蓮は、その余韻の中で眠りに落ちていた。

 船室のベッドに潜り込み、隣のベッドでは父と母が小声で旅行の計画を話している。聞き取れる言葉は途切れ途切れだったが、その調子は穏やかで、子どもにとっては安心の証だった。冷房の低い唸り、壁越しに伝わる波の規則正しい衝撃。眠りに誘うには十分な音だった。


 ――その均衡は、突然の衝撃で破られる。


 「ドォォンッ!」

 船全体が震え、蓮の身体はベッドから投げ出された。床に叩きつけられ、肺の奥の空気が一気に押し出される。息を吸おうとしても喉が詰まり、咳だけが漏れた。


 窓の外が閃光に包まれる。

 雷鳴が遅れて爆ぜ、耳の奥に鋭い針を突き立てられたような痛みが走った。次の瞬間には照明が一斉に落ち、船室は闇に沈んだ。


 「お父さん! お母さん!」

 蓮は叫んだ。しかし返事はない。

 ドアの向こうでは人々の声が錯綜していた。悲鳴、命令、泣き声、祈り、すべてが混じり合って渦巻いている。


 壁に飾られていた額縁が外れ、床に落ちて粉々になる。冷たいものが足首に触れた。海水だと気づいたとき、胸の奥で何かが冷え固まった。


 立ち上がろうとした途端、船が大きく傾く。重力が横からかかり、蓮は壁に叩きつけられた。息が詰まり、頭の奥で鐘が鳴り響く。


 どうにか体勢を整え、通路に飛び出した。

 そこは混乱そのものだった。人々が押し合い、転び、叫び、誰かの腕に掴まれ、また突き飛ばされる。汗と恐怖の匂いが漂い、狭い通路の空気を濁していた。


 「ライフジャケットを! 落ち着いて!」

 船員の声が必死に響くが、その言葉は誰の耳にも届いていないようだった。


 蓮は父と母を探した。だが視界は常に揺れ、濡れた床で足を取られ、次の瞬間には別の大人の背中に遮られる。心臓が喉の奥で暴れ、呼吸は浅く速くなる。


 「ここにいたら死ぬ……!」

 頭の奥で誰かが囁くように思えた。蓮はその声に従うしかなかった。


 彼は甲板を目指して走った。


 扉を押し開けた瞬間、外気が一気に吹き込む。

 顔に叩きつける雨粒は痛みを伴い、肌を切るように冷たい。風は身体を持ち上げるほどの力で、全身を後ろへ引きずろうとした。


 空を裂く稲光が一瞬だけ周囲を照らす。

 甲板上には無数の人影があり、それぞれが手すりにしがみつき、あるいは甲板を転がり、あるいは波にさらわれて消えていく。光が消えた後には闇だけが残り、どこまでが海でどこまでが空なのか判別できなくなる。


 耳には絶え間なく怒号と悲鳴が押し寄せ、同時に轟音の波が全てをかき消す。

 口を開ければ潮の味が流れ込み、喉の奥が焼けるように塩辛い。肺の中に水が入り込みそうで、必死に咳き込みながら唇を噛み締めた。


 蓮は足元に転がっていた救命具を拾い上げる。硬く冷たい輪を胸に抱え込み、そこにだけ命綱のような温もりを感じた。


 次の瞬間――。

 視界の端に、小さな影が映った。


 それは、少女の姿だった。

 甲板の隅で、流木のような破片にしがみつく小柄な身体。

 蓮と同じくらいの年齢に見えた。濡れた黒髪が顔に張り付き、額から流れる血が雨に混じって赤黒く滲んでいた。


 稲光が彼女を一瞬だけ照らした。

 その目が蓮を捉えた。

 怯え切った瞳だった。けれど同時に、必死に生きたいと叫んでいるような、消えかけの灯火が揺れていた。


 「……たすけて……」

 掠れた声が嵐の轟音にかき消されそうに響いた。

 その声は、蓮の耳に焼きついた。


 次の瞬間、蓮の鼻腔を突き破るような異臭が走った。

 それは海の匂いではない。

 鉄のように錆びついた、血の匂い。

 さらに、生肉が腐り始めたときのような、鼻の奥を灼く悪臭。

 吐き気が込み上げ、喉が勝手に収縮した。


 「死の匂い」――そうとしか言いようがなかった。

 理屈ではない。

 その瞬間、蓮は本能で理解した。

 この匂いは、目の前の少女から漂っている。


 胸の奥が冷たく締めつけられる。

 肺が呼吸を拒み、心臓が無理やり脈打っているのがわかる。

 全身の毛穴が一斉に開き、背筋に氷を流し込まれたように震えが止まらない。


 「いやだ……」

 少女の唇が震え、か細い声が風に乗って届いた。

 その声は、ただの助けを求める言葉以上のものだった。

 死にたくない。生きたい。

 その願いが、彼女の全身から滲み出ていた。


 蓮は救命具を握り締めたまま、一歩、二歩と足を踏み出した。

 甲板は雨で滑りやすく、踏み出すたびに足裏から冷たい水が跳ね上がる。

 波の轟音と風圧で目が開けていられない。

 それでも、彼は腕を伸ばした。


 少女もまた、手を伸ばす。

 その小さな手は血で濡れており、震えながらも必死に空を掴もうとしていた。


 指先が触れそうだった。

 あと少し――。


 だがその刹那、船体が大きく揺れた。

 甲板に叩きつける波が蓮の身体を押し戻し、二人の距離は無情にも引き裂かれる。


 「待って! 行かないで!」

 蓮は叫ぶ。喉が裂けそうだった。

 だが、声は嵐に飲み込まれた。


 少女の手が流木から滑り落ちる。

 その瞳が一瞬、蓮を見た。

 そこには恐怖と、諦めと、そして何かを委ねるような儚さが同居していた。


 「やだ……」

 蓮の指先は空を掴むだけだった。


 少女の身体は、黒い波にさらわれた。

 その瞬間、凄まじいほど濃縮された「死の匂い」が蓮の鼻腔を突き破った。

 血の鉄臭さ、肉が崩れていくような臭気、そして生き物の最後の瞬間に放つ冷たい気配。


 蓮は喉の奥から叫び声を絞り出した。

 だがそれは波の咆哮にかき消され、空へ吸い込まれていった。


 残ったのは、救命具を抱き締める自分の小さな身体と、心臓を抉られるような後悔だけ。

 伸ばしたはずの手は、何も掴めなかった。

 少女の声も、温もりも、もう二度と戻らない。


 その夜、蓮は初めて「死の匂い」を嗅いだ。

 それは幻覚でも錯覚でもなかった。

 確かに、そこに存在していた。


 海はなおも獰猛に吠え続けている。

 次々と命を飲み込み、音もなく沈め、痕跡すら残さない。

 稲光が闇を裂いても、その残酷さを照らすだけで何一つ救いを与えない。


 蓮の瞳には、深い絶望と、抗いがたい運命の影が刻まれた。

 その刻印は、この先の彼の人生を呪縛し続けることになる。


 ――それでも、夜は終わらなかった。

 嵐は容赦なく船を揺さぶり、海はまだ次の命を求めていた。



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