第六話
「洋装も似合うと思うの」
聡子の一言で、泉美は初めてワンピースに腕を通した。淡い水色のワンピースは、赤沼家での粗末な服とは比べ物にならないほど滑らかで、体の線にそっと寄り添う。
泉美が火宮公爵邸で保護されてから一週間が経った。その間泉美は、沙織に読み書きや算術を教わり、聡子と一緒に庭の手入れを楽しみ、心身共にゆったりとした生活を送っていた。
公爵夫妻は泉美によくしてくれる。雅臣の穏やかな笑顔と、聡子の気さくな言葉は、家族のように包み込む。それでも泉美の心の中は複雑だった。
それに雅臣から臣哉との結婚を提案された件については、臣哉本人が「今はまだそのときではない」と公爵に食ってかかった。なによりも泉美がきちんと生活できるようになるのが先だと。
そんな彼の姿を見て、泉美は胸の奥であたたかなものを感じつつも、どこか申し訳なさも覚えていた。
自分は、本当に彼にふさわしい存在なのだろうか。
そして今日、公爵夫妻と臣哉と共に緋村子爵邸を訪れた。そこで現子爵夫妻と前夫妻が出迎えてくれた。
前子爵夫人の目が泉美に注がれた瞬間、その瞳に涙が浮かんだ。
「泉美という名も、わたくしたちの孫の名前なのよ」
涙ながらにそう語り、泉美の手をそっと握った。
「あなただけでも生きていてくれてよかったわ……」
前子爵夫人、すなわち泉美の祖母の想いが心から伝わってきた。
「それから、今から言う話はここだけの話にしてもらいたい」
雅臣は、泉美が火竜の『器』であることを告げた。
その事実に、部屋にいた全員が息を呑んだ。特に泉美の祖父母は、再び涙を浮かべる。
「美月は幸せだったのですね……」
祖母の声は震えていた。
そうでなければ泉美が『器』にならない。泉美が『器』であることが、両親が心から愛し合っていたという事実を物語っている。
「できれば、近い将来、息子の伴侶として火宮家に迎えたいと思っています」
雅臣が穏やかに言えば、緋村子爵家も反対する理由がない。
「泉美の戸籍を戻したうえで、私たちの養女とします」
現子爵、泉美の伯父がそう宣言すると、夫人も柔らかく微笑んで同意した。
「ですが、彼女が『器』であることは決して口外しないでください」
雅臣が釘を刺すのも忘れない。今の状況で泉美が『器』だと公表されれば、彼女を狙う者も出てくるというのが、公爵側の考えでもあった。
それだけ『器』は特別な存在。それは、火竜公爵家にとっても、他の竜公爵家にとっても。
「彼女は赤沼伯爵より不当な扱いを受けておりました。そのため、異能の使い方すらわかっていないのです」
雅臣の話は妙な説得力があった。
泉美は、赤沼家で異能がないと蔑まれていた自分を思い出し、胸が締め付けられた。それでも今は、こうやって自分を受け入れてくれる人たちがいる。
泉美の今後について、話は次々と進んでいった。戸籍の回復、火宮家での教育、臣哉との婚約。ぽんぽんと話が決まっていくが、それでも泉美にはなかなか実感がわかなかった。
自分の人生が、こんなにも劇的に変わるなんて、まるで夢のようだ。
「泉美さんは必要な教育も受けておりません。今後のことも考えて、こちらでお預かりして、いろいろと学んでいただきたいのですが」
そう言い出したのは聡子だ。もちろん緋村家側はそれに異論など唱えるはずがない。
「たまには、遊びに来ていただけないかしら……」
祖母の声はどこか寂しげだった。「はい」と頷いた泉美は、言葉を続ける。
「母のお話を、いろいろと聞きたいです」
泉美のその一言に、部屋にいた全員の顔がほころんだ。
その後、泉美は緋村泉美として戸籍を取り戻し、火宮臣哉の婚約者として火宮家で新たな生活を始まった。
勉強は沙織が担当し、彼女の明るく丁寧な指導に、泉美は少しずつ自信を取り戻していた。
「泉美様は覚えが早いですね」
沙織の褒め言葉に、泉美は照れくさそうに微笑んだ。
「沙織先生の教え方がわかりやすいからです」
こうやって二人で勉強に励んでいると、「休憩したら?」と聡子がお茶に誘ってくれる。
「泉美さん。こちらの生活には慣れたかしら?」
臣哉と婚約して十日ほど経った。
「はい、みなさんよくしてくれますから……」
「でもあなたには、そうやって生きる権利があったの。それを奪ったのは赤沼誠一よ」
聡子の言葉の節々から憤りを感じる。自分のためにそういった感情をあらわにしてくれる人がいる。そうやって気にかけてもらえるのが、ささやかな喜びとなり、泉美の心を満たしていく。
「赤沼には然るべき罰を与えるとあの人が言っていたわ。それが同じ一族の公爵家としての責任の取り方ね」
「……はい」
泉美は小さく返事をしたが、誠一への複雑な感情が胸に渦巻いた。憎しみと、どこかで哀れみを感じていた。
「それから、臣哉とはうまくいっている?」
突然の話題の変化に、泉美は紅茶を飲みかけたところで「ゴホッ」と咽た。
「あ、あの……何を?」
「一応、婚約したわけでしょう? やはり親としては子どもたちの仲が気になるのよ」
「はい……」
「まぁ。臣哉にはあまり期待していないけれども。あの子、女性が苦手なのよね……」
その話は初耳だった。臣哉のあの冷静で堂々とした態度の裏に、そんな一面があったなんて想像ができない。
泉美の好奇心が刺激される。
「そして泉美さんは、他人をよくわかっていない。つまり世間知らずなお嬢様」
そう指摘されれば否定できない。今まで狭い世界で生きていた自覚もある。
「だから心配なの。他の変な男に引っかからないか」
聡子はカップに口をつけ、気高く微笑んだ。
「今はまだ、臣哉のことを好きだ、愛していると思わなくてもいいわ。だって、どんな人間かだなんてわからないでしょう?」
聡子の言葉に、泉美はゆっくりと頷いた。
臣哉への気持ちは、まだ整理しきれていない。一緒にいて心地よいが、それが好きという感情の一種なのかどうかもわからない。
「愛は育むもの。これから少しずつ臣哉を知って、好きになればいい。私とあの人は政略結婚なの。だからあの人を好きになったのは結婚してから。結婚する前までは、顔も知らないような男と結婚するのは、絶対に嫌だって思っていたのに……不思議なものね」
愛は育むもの――
その言葉が泉美の心に深く刺さった。
* * *
窓の外では冷たい雨が降り、ガラスを叩く音が室内に不気味なリズムを刻んでいた。
誠一はいつものように新聞を手にしたが、紙面に目を通した瞬間、血の気が引いた。
――緋村子爵の姪、見つかる。
その記事には、十七年前、帝都を襲った大火で亡くなったとされた緋村子爵の姪、緋村泉美が生存していたという内容が書かれていた。
さらに読み進めると、彼女は緋村子爵が養女として受け入れたと。また、火宮公爵子息の臣哉と婚約を結んだことまで。
記事によれば、臣哉が大火の生き残りである泉美に興味を持ち、緋村家を訪れた際に二人が惹かれ合ったという。
「なんだ、これは!」
誠一の声は、怒りと驚愕で震えていた。新聞を掴む手に力が入り、紙がくしゃりと音を立てる。
(あの娘は私のものだ)
怒りとも嫉妬ともとれる感情が、沸々と湧き起こってくる。
泉美は、かつて愛した美月の生まれ変わりである。二十年前、結ばれるはずだった運命を、ようやく手に入れたと思っていたのに、それがまた、別の男に奪われたのだ。
(取り返さねば)
だが、相手は公爵家。まして、同じ火竜華族。
(どうやって……?)
彼は必死に策を巡らせた。泉美を取り戻すためなら、どんな手段でも構わない。その執念が、狂気じみた光で瞳を満たす。
そのとき、階下からけたたましい物音が響いた。
「な、なんなのよ、あなたたちは!」
雅代の甲高い声が、邸内に響き渡った。誠一の心臓が一瞬止まったような感覚に襲われた。いったい何が起こったのか。
手にしていた新聞を乱暴に放り投げ、部屋を飛び出し階下に向かおうとしたところ、使用人が「旦那様」と慌てて呼びに来たところだった。
「何事だ、騒々しい」
「それが……」
使用人の言葉を聞いた瞬間、誠一はその場で膝から崩れ落ちた。雨の音が一層激しくなり、まるで彼の運命を嘲笑うかのように、邸内に響き続いた。