第三話
泉美が火宮家の屋敷で目覚めた二日目の朝。
前日の疲れが残っていたせいか、寝て、食べて、休むうちに一日目が終わってしまった。
そして今日。朝早くに目を覚ました泉美は、どうするべきかと思案していた。どこか落ち着かない。
そのため、部屋にやってきた沙織に「赤沼の屋敷に帰らせてほしい」と頼んでみたが、「若様からお話があるそうなので」とやんわり断られた。
さらに立派な着物を着付けられ、朝からあたたかな食事が運ばれてくる。
「泉美様は、和食と洋食、どちらがお好みですか?」
沙織から様付けで呼ばれるのは恐れ多い。
だが女中のような扱いを受けていたが、一応、伯爵令嬢なのだ。そう考えればいいのだろうか。
「パンは食べたことがないので、よくわかりません」
冷えて固くなったご飯が常だった泉美にとって、食べ物を与えられただけでもありがたかった。
「では、いろいろお出ししますから、好きな食べ物があったら教えてくださいね」
沙織が微笑んで言うものだから、泉美もつられて「はい」と答えてしまった。
食事が終わると、何をすべきかわからず手持ち無沙汰になる。泉美は部屋に備え付けられたソファに身体を預け、ぼんやりと窓越しに外を眺めていた。部屋が二階以上にあるのは、庭園の見え方からしてわかったが、それ以上は何ひとつわからない。
(私、どうしてここにいるのかしら? しかも、こんな立派な着物まで着せてもらって……夢?)
ふと思いついた泉美は、手の甲をつねってみたが、痛みを感じた。どうやら夢ではないようだ。
そうこうしているとノック音が聞こえ、沙織が部屋に入ってきた。
「若様がお呼びですが、ご都合はいかがでしょうか」
「は、はい。問題ありません!」
泉美は少し慌てて答えた。
「では、ご案内します」
沙織に促されて部屋を出る。ここに来てから初めて部屋の外に出た。食事は運ばれていたし、部屋続きで浴室や洗面所なども備えられていたため、外に出る必要がなかったのだ。
「若様、泉美様をお連れしました」
「入れ」
案内された部屋は、床から天井までぎっしりと本で埋め尽くされた本棚が壁面に沿って並ぶ書斎だった。
「そこに座れ。沙織も彼女の隣に座れ」
威圧的な言い方ではあるが、畏怖を感じない。父とは真逆だ。父は話し方は穏やかなのに、気味の悪い違和感があった。
「赤沼泉美。悪いがおまえの戸籍を確認してきた」
「戸籍ですか?」
泉美の表情に戸惑いが浮かぶ。
戸籍とは出生から死亡まで身分関係を登録したものだ。この帝国では法改正によって、すべての国民が戸籍に登録されるようになった。
「ああ。赤沼誠一、赤沼雅代。そして娘の百合」
それは泉美の両親と姉。
「だが、そこに泉美という名はなかった」
何を言われているのか、泉美にはすぐに理解ができず、動揺が押し寄せてくる。
その様子を察した沙織が、そっと手を握ってきた。
「おまえはいつから赤沼の家にいる?」
「それは……記憶のあるかぎり、あそこにいます……」
泉美は消え入りそうな声で答えた。
「だが、娘としての扱いは受けていないな?」
臣哉の目はすべてを見透かすようで、嘘をついても無駄だと感じさせる鋭さがあった。
「はい。私には異能がないから。異能のない娘をもつ親は、華族ではなくなるけれど、お姉様がいるからなんとか体面を保てている。それに報いるために恩を返せとお母様が……」
「だから、家の仕事をしていたのか?」
臣哉の言葉にコクリと頷く。
「異能を持たない子がどうやって生まれるか、おまえは知っているのか?
「いえ……」
「竜華族は同族結婚が絶対条件だ。火竜華族であれば相手にも火竜華族を望む」
そう言われると、母親も火竜子爵家の出だと聞いている。
「だが、たまに異族間で結婚する者もいる。その間に生まれる子は異能をもたない」
そこで泉美は腑に落ちた。
「父が、母以外の誰かに生ませた子が私だと。そういうことですね? だから母とは血がつながっていない」
泉美は自分の境遇にある程度の説明がつくことを感じた。しかし臣哉は静かに首を振った。
「それは、半分当たりで半分外れだ」
「半分当たり?」
「おまえが伯爵夫人と血がつながっていない。それは当たり。外れの部分は、伯爵が外で生ませた子ではない。伯爵もおまえとは血がつながっていない」
目を見開いた泉美の中を、言葉が通り過ぎていく。
父とも母とも血がつながっていない。つまり二人の子ではない。となれば。
「私の両親は……誰?」
必然的にその疑問にいきついた。
「それを今、調べている。だからおまえの出自がはっきりするまで、ここにいてくれないか?」
臣哉の言葉に驚きつつも、泉美は反発する。
「そんな! 私のようなものがここにいたらご迷惑をおかけするだけです。だから赤沼家に帰してください」
「それはできない!」
臣哉が声を荒らげ、泉美はビクッと身体を大きく震わせた。
「若様、落ち着いてください」
沙織が穏やかな声で割って入る。その言葉が、まるで泉美の怯えをかばうかのように響いた。
「今、この場で誰よりも不安になっているのは、泉美様です」
沙織の言葉に、臣哉はしばし黙り込み、大きく息を吐く。
「ああ、そうだな」
そう言いながら臣哉は冷静さを取り戻し、あらためて泉美へ言葉を紡ぐ。
「おまえが赤沼伯爵家で受けている仕打ち、それを考えたら帰すことはできない。今戻ったところで、今まで以上、折檻されるのが目に見えている」
その言葉に泉美は息を呑んだ。
月光草を採りに出かけたきり家に戻らず、百合や家族がどうなっているかもわからない。父は以前から泉美が家の外に出ることを厳しく禁止していた。
「それに、おまえは俺の『器』だ」
聞き慣れぬ言葉に泉美は目を丸くする。
「おまえの両親は異族間結婚をしたが、それは二人が熱い絆で結ばれたからだ。だからおまえが『器』として生まれた」
臣哉の説明は抽象的で、泉美には理解のしようがなかった。
そんな泉美の表情を見て、沙織が笑みを浮かべながら口を開いた。
「若様は愛するだの好きだの惚れただの。そういった言葉を口にするのが苦手でいらっしゃいますから」
そう前置きしたうえで、泉美にも伝わるよう丁寧に言葉を紡いでくれた。
泉美の実の両親は互いに深く愛し合い、結婚した夫婦だった。その二人の間に生まれたのが泉美であると、沙織ははっきりと語った。さらに泉美が器、正確には『竜の器』として竜公爵家にとって重要な存在である理由についても触れた。
だから赤沼伯爵が欲望のために抱いた女性との子ではないと明確に示してくれたのだ。
その話を聞いた泉美は、心の底から救われる気持ちになった。
「ありがとうございます」
沙織に向けて、自然と感謝の言葉を口にした。
ずっと両親から疎まれていると思い込んでいた泉美にとって、実の両親がそうではなかったことを知れたのは、予想外の喜びだった。
「今夜、両親が帰宅する。父であれば、おまえの出自について何か知っているかも知れない。それに、おまえが俺の『器』だと紹介したい」
臣哉の父となれば、火竜公爵だ。どうやら公爵は、結界を支える五柱のうちの一つである火竜の柱のほころびを確認するため、公爵領に滞在していたらしい。
竜華族は華族院として議会に参加するため、議会が開かれる間は主に帝都で暮らしている。議会が終了すると、領地に戻る者も多いが、帝都で暮らしながら必要に応じて領地に赴く者もいる。火竜公爵はまさにその後者にあたる。
「それまでここで自由に過ごせ」
そう告げられ、臣哉との話は終わった。
泉美は彼の言葉を胸に抱えながら、静かにその場を後にした。
* * *
彼女の姿を初めて見たとき、心の奥底が震えた。
(この女性が欲しい――)
赤沼伯爵家の跡取りである誠一にとって、結婚相手を見つけるのは容易なはずだった。まして相手が子爵家の娘なら、断られるはずがないと高を括っていた。
しかし、その期待はあっけなく裏切られる。
『お気持ちは嬉しいのですが、結婚を約束している方がおりますので……』
彼女が誠一に告げた言葉は拒絶だ。
竜華族において、誰と誰が結婚した、あるいは婚約したという話はすぐに耳に届く。しかし、彼女にはそうした噂が一切なかった。それならば受け入れられるはずだと確信し、求婚したというのに。
相手を聞けば、彼女の婚約者は水竜男爵家、黒江家の三男だという。
『異族間で結婚しては、あなたは幸せになれません』
誠一は厳しくそう伝えた。
異族間の子どもは異能を持たない。異能を持たない子が生まれることは、親子ともに竜華族の資格を失うことを意味する。そんな結婚がどうして幸せだと言えるのか。
しかし、彼女は誠一の言葉に動じることもなく、穏やかに微笑みながら答えた。
『それでもいいと、お互いに決めたのです。両親も納得してくれましたから』
その幸せそうな笑顔を見た誠一は、彼女への想いが憎しみに変わるのを感じた。
それでも誠一に転機が訪れたのは、それから二年後のことだった。
旧藩主の屋敷から出火し、千戸を超える家屋が焼失する大火が起きた。それに巻き込まれたのが、彼女とその夫。たまたま友人の屋敷へ足を運び、その帰り道、大火に巻き込まれたのだ。
竜華族は異能を使い、災害を食い止める役割を持っている。
誠一もその場に立ち合い、炎の中で救助を行っていた。そして彼女と夫、その娘を見つけてしまった。
炎に呑まれ息も絶え絶えになっていた彼女は、最後の力で腕に抱えていた娘を守ろうとしていた。娘はぼんやりとした瞳で、周囲を見つめているだけだった。
『私がこの娘を責任持って育てますから』
誠一の言葉に、彼女とその夫は安心したかのように静かに目を閉じ、永遠の眠りについた。
(やっと手に入れた――)
誠一の胸に満足感が広がった。
愛する女性を手に入れた。いや、違う。彼女の生まれ変わりが目の前にいる。この娘を見守り、育てれば、やがて彼女が手元に戻ってくる。
今度こそ、誰にも奪わせない。成人したらすぐに、自分のものにすればいい。
そう決意し、誠一は娘を大切に育て始めた――