第二話
泉美ははっとして目を開けた。
(私、生きてる……?)
ぼんやりとする思考で、ここはどこだろうと考える。いつもの自分の粗末な部屋ではない。だってぬくぬくとした布団が心地よく身体をやさしく包んでいる。
(ここ、どこ?)
起き上がろうとしても身体は重く、手足の先まで鉛をくくりつけられているかのよう。
「お目覚めになりましたか?」
不意に聞こえてきた声に、視線を向ける。落ち着いた着物姿の見知らぬ女性が、泉美の顔をのぞき込むようにして上品に声をかけてきた。
「あっ」
何か言わなければと思うのに、不安と緊張に襲われて言葉が出てこない。
「ゆっくりでいいですよ。ここは、火宮公爵家のお屋敷でございます」
火宮公爵――火竜華族の筆頭にして、その名を知らぬ者はいないほどの名門。泉美の赤沼伯爵家も同じ火竜華族ではあるが、身分や格がまるで違う。
それよりも、泉美はなぜ自分がここにいるのか、その理由がまったくわからなかった。戸惑いを隠せない様子の泉美に、女性は柔和な笑みを浮かべながら続ける。
「もう少しお休みください。あと一時間ほどで若様が来られますから」
若様という聞き慣れぬ言葉に更に混乱が深まる。泉美はどうしても説明を求めたかったが、喉がカラカラに渇いて声がうまく出ない。そのため、ようやくかすれた声で言葉を紡いだ。
「あの……お水をいただけませんか?」
「もちろんでございます。身体を起こすことはできますか?」
「はい……」
促されて感じたのは、身体に少しずつ感覚が戻りつつあること。手足も徐々に動かせるようになってきた。
「どうぞ」
渡されたグラスを受け取り、泉美は一口飲むつもりが、身体が思っていた以上に水分を欲していたらしく、一気に飲み干してしまった。
呑み終えた泉美は、混乱が晴れないまま、グラスを握りしめていた。
「では、もう少しお休みください。お水はこちらに置いておきますので」
泉美のグラスを受け取った女性は、小さなテーブルの上にそれを戻して部屋を出ていった。
一人残された泉美は、背中をベッドのヘッドボードに預け、ぼんやりと思いに耽る。
昨夜、姉の百合が発熱したと母から告げられた。泉美が様子を見に行くと、顔を真っ赤にして苦しそうに呼吸する百合の姿が目に飛び込んできた。
すぐに医師の診察を受けた結果、百合の異能が体内で暴走していることがわかった。竜華族の異能は、特に強い力を持つ場合、稀に制御を失い暴走することがあるのだと言う。
それを鎮めるために必要なのが『月光草』と呼ばれる特別な花だった。月光草は竜尾山に咲くものの、夜しか咲かないという性質を持っている。そのため、竜華族の中でも能力の強い者は、普段から月光草を切らさないように備えているのだが、百合が異能を暴走させたのは昨夜が初めてだった。
――あなたは百合が死んでもいいと言うの? この恩知らずが!
今でも母親の金切り声が頭の中に響いている。
それゆえ泉美は掟を破り、オイルランプ片手に新月の夜の竜尾山へ足を踏み入れた。竜華族の教えでは、新月の夜に竜尾山に入ることは禁じられている。それはこの夜が異形の力がもっとも強まる時だから。
とはいえ、山の中は思ったよりも明るかった。星の光が闇を照らし、泉美の視界をかろうじて守ってくれた。月光草の花は、咲いたときにきらきらと輝き、まるで月明かりのような光を放つと言われている。泉美はその特徴を頼りに、目的の花を探すのは容易だった。
しかし、花を見つけた直後、泉美は異形に襲われた。新月の夜は異形たちがその力を最大限に発揮する時期。だからこそ、この夜に竜尾山に足を踏み入れる者は、竜華族の中でも特別な事情を抱えた者だけ。
一方で泉美の父は、この特別な夜に「付き合いだ」と言って花街に足を運んでいた。新月の夜には普通の客は外出せず、家で静かに過ごしているため、竜華族は花街の者たちにとっても貴重な存在となる。父も以前、母に「竜華族が花街に行かないと、あいつらも困るだろう」と話していたのを、ふと思い出した。
(お姉様はどうされたかしら……)
父が不在。そして月光草を取りにいったはずの泉美は、その月光草を姉に渡せていない。となれば、百合がどうなったかが心配だった。
コツコツ、コツコツ――
扉がノックされ、三人の人が部屋に入ってきた。男性が二人、そして先ほどの女性だ。
「目覚めたようだな」
そう声をかけてきたのは、昨夜も会った男性だった。
「おまえ、名前は?」
「赤沼……泉美と申します」
威圧的に訪ねられ、答えた泉美の声は少し震えていた。
「赤沼? 赤沼伯爵家の?」
「娘です」
「のわりには、みすぼらしい姿をしていたな」
男がさっと泉美の身体を見回したため、恥ずかしくなり布団を胸元まで引き上げた。それに、身に着けていたものは肌襦袢だけ。さすがに昨日の着物は汚れているだろうから、こんな豪奢なベッドで眠るのにはふさわしくない。
「若様。お嬢様が怯えておいでです。もう少し、やさしく。それよりも若様も名乗ったほうがよろしいのではないですか?」
女性が咎めると、男は「ちっ」と舌打ちをする。
「俺は火宮臣哉」
その名は、泉美も知っている。火宮公爵の嫡男、次期火宮公爵だ。
「そして赤江耕平と朱谷沙織だ。おまえの世話は沙織にまかせてある」
臣哉の声に合わせ、二人が頭を下げた。
「赤沼の娘といえば、緋雨侯爵子息と婚約したな?」
「それは姉です。私ではありません」
「姉? 俺の記憶では、赤沼伯爵に娘は一人しかいない。いつもパーティーで真っ赤な派手なドレスを着ている……そう言われればおまえではないな」
臣哉が顔を寄せてきて、その価値を確認するかのようにじっくりと視線を這わせる。
「それにおまえ……水竜華族の血を引いていないか?」
泉美を真っすぐに射貫く眼差しが怖い。
「わ、わかりません……わ、私はまだ社交デビューもしていないので……」
「なるほどな。とにかくおまえは赤沼泉美。赤沼伯爵の娘ということだな? そんなにいたぶられているのに」
折檻を受けていた事実を知られた羞恥が泉美を襲う。胸元まで引き上げた布団に顔を埋める。
「若様。いたいけなお嬢様をいじめすぎです」
沙織の言葉に臣哉は不満そうに息を吐いた。
「沙織、あとはまかせた。まずは彼女を休ませてやってくれ。腹が減っているようなら食事を」
「御意」
二人分の足音が、泉美から遠ざかっていった。
書斎に戻った臣哉は、背もたれに深く背中を預け椅子に座った。
「耕平。あの女、どう思う?」
臣哉が問いかけると、耕平は静かに眉をひそめた。
「あの女、ではなく赤沼泉美です。そうやってすぐに女性を見下す癖をやめたほうがよろしいかと?」
耕平の指摘は鋭い。臣哉は昔から女性に嫌悪感を抱いていた。それは学習院時代の出来事が原因で、なるべく女性とはかかわりたくないという想いが根底にある。
ただし、臣哉の再従姉妹である沙織は例外であった。親族ということもあり、沙織は臣哉との距離感を心得ている女性だ。
女学校を卒業した後、彼女は火宮家に行儀見習いとして通うことになった。それは彼女の経歴に箔をつけるためだったが、すでに箔は十分についているにもかかわらず、生涯の伴侶となる男性に恵まれていない。むしろ火宮家での仕事を楽しんでいるようで『職業婦人としてここに居座ろうかしら』と言い出す始末。
臣哉が冗談で『状況によっては結婚してやろうか』と提案したところ、『結構です』ときっぱり断られた。
だから、沙織は臣哉が側においている唯一の女性でもある。
「とにかく、赤沼の娘だ。俺が記憶している限りは、赤沼伯爵には娘が一人しかいない。そのため爵位を継がせるために、緋雨侯爵家の次男と婚約したはずだ」
「そのとおりです。しかし泉美さんは自分が赤沼伯爵の娘であると信じているようですね。嘘をつけるような娘ではありません」
「おまえもそう思うか……」
赤沼伯爵の娘だと名乗った泉美の真剣な顔が脳裏にちらつく。
「念のため、戸籍を調べるか」
今では戸籍も役場が管理しているため、閲覧も容易になった。
「万が一、赤沼の娘でないとしたら、どこの娘か調べる必要があるからな」
臣哉の第六感が告げていた。泉美は赤沼伯爵の娘ではない。
「あの女は『器』だ」
耕平が目を細くしたのは、臣哉が泉美を「あの女」と呼んだからか、それとも『器』に反応したかはわからない。
「『器』というのは、一族を超えた愛の結晶と呼ばれる、あの伝説の存在ですか?」
竜華族は同族内での結婚が絶対条件である。それは、異族間の子どもには異能が発現しないからだ。異能を持たない者は、血縁に関係なく竜華族としての資格を失い、親もそれと同様になる。そのため、竜華族として存続するためには同族婚が絶対とされていた。
しかし、その掟を超えた愛が結ばれた場合、奇跡のような存在として生まれるのが『器』と呼ばれる存在だ。
「あぁ……赤沼伯爵の娘と言ったが……あの女から水竜の力を感じた」
「臣哉さん。いい加減、あの女はやめましょう。『器』かもしれない女性ですよね?」
耕平は深く息をつきながら答えた。
「かもしれないではなく、間違いなく『器』だ。俺の竜刀は今、あの女の中にある」
「うわ。てことは、泉美さんは臣哉さんの運命じゃないですか! あの女呼ばわりはやめてくださいね。きちんと名前で呼ぶんですよ。『おい』とか『おまえ』も禁止です」
冷静を装っている臣哉ではあるが、泉美に竜刀を呑まれたその瞬間から、どうすべきか頭を悩ませていた。
泉美が臣哉の竜刀を呑み込んだ。それだけでも彼女が特別な存在であることは明白だ。耕平が言うように、泉美は臣哉の運命の女性であり、何よりも『器』なのだ。『器』とは竜刀にとって唯一無二の鞘のような役割を果たす存在だ。
竜刀は魔魅を斬ることができる、特別な力を持つ名刀。しかし、多量の魔魅を斬ることで竜刀自体が魔の力に侵されるのは避けられない。その浄化には時間を要するが『器』があればその時間が大幅に短縮されるだけでなく、竜刀そのものの力が増すと伝えられている。
そのため竜刀を扱う公爵家によって『器』は喉から手が出るほど欲しい存在。
しかし『器』は同族婚では決して生まれてこない。それこそ先ほど耕平が口にした『一族を超えた愛の結晶』という言葉につながっている。
同族婚が絶対社会の竜華族において、一族を超えての結婚は障壁にしかならない。
一族を超え、華族という身分を捨ててでも相手との愛を絶対とし、両者の想いが通じたときにのみ、その愛が結晶となり、生まれる子こそが『器』となる。
そして臣哉が知る限り、ここ数十年『器』の誕生は確認されていない。
「彼女の見た目は十六、七歳といったところか……。その頃に、種族を超えて結婚した者がいないか、確認する必要はあるな」
異族間の結婚は非常に珍しいことだ。そのため、記憶が残っていればすぐに特定できるだろう。
「赤沼伯爵家に彼女を帰すのは……すべてを調べてからのほうがいい。それから沙織に、彼女の着替えを手伝うように言ってくれ。そのとき、彼女の身体の様子を確認するように」
耕平は眉をひくっとあげた。
「身体の様子って……なんだかんだで彼女を気にかけているじゃないですか。胸元は慎ましいですけど、それはこれから……」
臣哉は淡々と答える。
「おまえ、何を言っている? 俺が気にしているのは傷跡だ。恐らく、服で隠れて見えないところに折檻の跡があるはずだ」
その言葉には確信があった。昨夜、泉美をこの屋敷につれて帰る途中、はだけた着物の裾から見えてしまうものがあった。
臣哉の目が捉えたのは、膝より上の部分に刻まれた線のような細かい傷跡。
耕平は顔をしかめた。
「『器』を折檻するって……赤沼伯爵って阿呆なんですかね?」
そんな言葉一つで片づけられるようなものではないだろう。
臣哉の心の奥には違和感がくすぶっている。
泉美が赤沼伯爵家で受けている仕打ち、その背景には何かが隠されている。そう感じずにはいられなかった。
* * *
バシンッ――
頬を平手打ちされた雅代の身体はバランスを崩し、そのまま床に倒れ込んだ。
「おまえ、何をやっているんだ。あれほど泉美を外に出してはならんと……」
顔を真っ赤にして怒りを爆発させているのは、雅代の夫であり赤沼伯爵でもある誠一だ。
「お父様。おやめになってください。お母様も泉美も、私のために……」
百合が慌てて止めに入るが、誠一の怒りは治まる気配を見せない。
「ふん。百合の異能が暴走したなど、嘘だろう? 医師に金を詰んだか?」
その言葉に雅代の顔は恐怖に染まり、百合の顔も青ざめる。
「異能暴走は十歳までに現れる。それにおまえごときの力が暴走するなどあり得るはずがない」
誠一の暴言は冷酷そのものだった。
「泉美をどこにやった」
誠一が雅代を睨みつける。
「それは……竜尾山に入って……」
雅代は息を詰まらせながら答えた。
「昨夜は新月だ。わかっていて泉美を山に追いやったんだろう?」
問い詰める誠一に対し、雅代はぶんぶんと大げさに首を横に振って否定する。
「白々しい」
「お父様!」
百合が声を荒らげた。
「私たちの気持ちもわかってください。どこの子かわからない、異能もない娘を赤沼の娘と言われて……」
百合の訴えにも誠一は冷たく応じる。
「そんなもの。アレを他に奪われないようにするための口実だ。アレは私の娘になどなっていない。戸籍上もな」
その言葉を聞いた雅代の瞳が、一瞬、輝いた。
「つまり、あの娘と私は赤の他人?」
雅代の言葉に誠一は鼻で笑う。
「ふん。娘にしてしまえば抱けないだろう? 私の子を孕ますこともできない。せっかく十八になるまで、大事に囲っていたというのに。おいまえたちがあの娘を痛めつけてくれたのは僥倖だった。だからこそ、私だけがあの娘を誰よりもやさしく癒してやれる」
誠一の表情はまるで蛇そのものだった。獲物を狙い、丸呑みする寸前の不気味な輝きを放つ。
「あの女に目をつけたのは私のほうが先だった。だが、よりによって異族の男と結婚しやがって……だからあの大火の日。助かった娘だけを盗んできたんだよ。私の女にするために!」
目の前の男は、本当に自分の夫なのだろうか――
雅代はそう思わずにはいられなかった。
「泉美を探し出せ。他の者の手に渡る前にな」
誠一は使用人たちに命じ、泉美を捜索するよう指示を出したのだった。