第一話
政権が幕府から朝廷に返還されて十数年。急速な近代化が進む中、なおも魑魅魍魎が跋扈する世情は変わらない。
そうした化け物から人々の暮らしを守るため、千年以上も前に、竜による結界――竜結界が築かれた。五芒星の中心に朝廷を据え、木竜、火竜、土竜、金竜、水竜という五柱が結界を維持し続けている。しかし結界とて万能ではない。結界のほころびを見つけては、人々を襲おうとする異形――魔魅がいる。
そのため、これらの竜結界維持のため、竜を世話する役割を担う一族は華族として認められており、他の華族と区別するため『竜華族』と呼ばれる。
火竜華族、赤沼伯爵家――。
その屋敷の渡り廊下で、泉美はせっせと雑巾がけに励んでいた。少しずつ花の蕾がほころぶ季節とはいえ、水はまだ冷たく、泉美の手はしもやけとあかぎれで赤くなり、痛痒さに悩まされる。特に雑巾を冷たい水で揉み出すときは、ピリッと鋭い痛みが走る。
「みじめなものねぇ……」
女中として働く一人が、通りすがりに泉美を見下ろし、冷ややかに呟きながら足早に去って行く。
それでもこうして赤沼家で雑務をこなす日々に、泉美は慣れていた。だから、自分ではみじめでもなんでもないと思っているのに、彼女たちがそう口にするのは、それなりの理由があった。
そもそも泉美は女中ではない。
赤沼伯爵家の令嬢、赤沼泉美。そう名乗ることを許された身である。
まもなく十八歳を迎える泉美は、本来であれば華やかに着飾り、将来の伴侶との出会いを求め、社交の場に顔を出しても不思議ではないはずだった。
しかし、それを拒んでいるのは泉美の両親と姉。理由は、泉美に竜華族の証である異能が発現しないからだ。
異能とは竜華族が持つ不思議な力。竜を世話し、異形を祓うために必要な力とされている。
その力が泉美にはない。だから赤沼家の落ちこぼれ。いや、無能として蔑まれていた。異能を持たぬ子を生んだ親は華族の資格を奪われるともいうが、それは姉の百合が異能を持つため、免れているようだ。
結果として、泉美は令嬢ではなく、女中と同等、あるいはそれ以下の扱いを受けていた。
「ちょっと、あんた。百合お嬢様が探していたよ。約束があったんじゃないのかい?」
女中たちも泉美の名前を口にすることはない。「ちょっと」や「あんた」といった呼び方が定着している。
これは蔑みの対象となった泉美が、他の人と楽しそうに談笑するのを、姉の百合が許さないからだ。場合によっては泉美だけでなく、その相手にも鞭が飛んでくる。
だから泉美は、彼女たちからなんて呼ばれようと、気にしてはいけない。
「ありがとうございます」
そう言ってバケツを手に立ち上がったが、内心は焦っていた。すっかり忘れていた。百合からは着物を整えるようにと、頼まれていたのだ。朝食の時間に、彼女がそんなことをぼそりと言ったような気がする。もちろん、朝食は一緒にとることはないから、泉美が白飯を配膳したときにそう言った。
バケツの水を庭に捨て、空になったバケツを洗場に置いてすぐに百合の部屋へと向かった。身につけているお仕着せの着物は、数年前に与えられたもので、すり切れ、丈も短くなっている。百合の身の回りの世話をするのにふさわしい姿とはいえないが、新しい着物をもらえないのだから仕方ない。
赤沼邸は、近頃流行の擬洋風様式で建てられた屋敷だ。百合の部屋は二階の洋間にある。扉をノックしたとたん、鋭い怒声が飛んできた。
「遅い! いつまで私を待たせれば気がすむの?」
肌襦袢姿の百合が、怒りに満ちた表情で泉美を睨みつける。黒く真っすぐな髪を背中に流し、猫のようにつり上がった漆黒の目が恐ろしい。
室内には着物が散らかっていた。百合はこれから、婚約者である緋雨侯爵子息とデートらしい。だから朝、泉美に着付けをするよう命じたのだが、それをすっかり失念していた。
「あんたにはそれしかないんだから。しっかりやりなさいよ」
皮肉めいた言葉に少し胸が痛むが、着付けの腕だけは泉美の長所だった。彼女が着付けをする着物は、どれだけ動いても崩れることがない。それはドレスにも応用できる技術であったため、改まった式やパーティーに出席する際、泉美が着付け係に指名されることが少なくなかった。
数年前に百合が招待されたパーティーで着物が崩れ、恥をかいたことがあったという話を耳にしている。それがきっかけだろうか。
「こちらのお色の着物はいかがですか?」
相手が侯爵家の人間であれば、あまり派手ではないほうがいい。
「地味ね」
泉美が選んだのは、濃紺の着物だ。金銀糸で細やかに刺繍がしており、地味な色合いでありながらも落ち着いた華やかさがある。
恐らく百合は、手にしていた赤い着物を着たかったに違いない。火竜華族は赤を基調とする装いを好む傾向がある。それでも泉美は帯を工夫することで華やかさを足し、上品な印象を与えられるよう提案した。
「帯をこちらにすればよろしいかと」
「まあ、それでいいわ。とにかく急いでちょうだい」
泉美は、姉が本当に自分の腕を買っているのか、それとも嫌がらせを楽しんでいるのか、未だにわからなかった。
着付けを終えた百合は、慌ただしく屋敷を出ていった。
いつどこに待ち合わせかわからないが、とにかく彼女のデートがうまくいくことを願うしかない。もしも失敗に終われば、その矛先は必ず泉美へと向けられるのだから。
ため息をひとつ吐くと、泉美は雑巾がけの続きをしようと洗場へ向かった。
泉美にとってもっとも苦痛な時間は、昼間の女中としての仕事のときではない。それは、むしろ夜。宴席に呼び出されることもあれば、部屋でひとり静かにくつろいでいるときに突然、訪ねてくることもある。今日は夕食の席に誘いを受けた。
相手は赤沼伯爵、つまり泉美の父だ。
家の主である父は、表向きは立派な人間とみられているが、泉美にとっては苦手な存在だった。
夕食の席に泉美の姿があると、たいてい母と姉はいい顔をしない。それでも姉の機嫌がよかったのは、昼間のデートがうまくいったからに違いない。
「泉美もそろそろ十八になるだろう?」
夕食の席で父がそう声をかけてきた。
「いつまでも、そのようなみすぼらしい格好では、縁も遠のく。着物を準備してあげなさい。」
最後の言葉は泉美に向けられたものではなく母だ。母に、泉美の着物を準備するようにと指示したのだ。
みるみるうちに母の表情が険しくなる。
「泉美だって、新しい着物が欲しいだろう? 呉服店には私のほうから連絡しておこう」
「あっ……」
何か言おうと思って開いた口からは、言葉が喉の奥に詰まって声にならない。父親は終始にこやかに微笑んでいるが、母親の鬼のような形相がちらちらと視界に入る。
母親は、父が泉美の肩を持つのが気に食わないのだ。
いつもはすり切れたお仕着せを着て過ごしている泉美だが、父と食事を共にするときだけ百合のお下がりの着物を着る。これも以前、父が母を咎めた結果によるもの。
だが、父は表向き娘を気遣う素振りを見せながら、本心が透けて見えるような行動を取ることが多い。
彼はたまに泉美だけを呼び出し、『ごめんな。おまえにはどうしても冷たく接さざるを得ない。母さんの機嫌が悪くなるからね』と耳打ちすると、泉美の身体をなで回す。その触れ方は父親としての愛情とは思えない、薄気味悪さを残すもの。
それでも泉美には父に逆らう力がない。この家の家長に逆らえば、追い出される可能性は十分にある。お金もない学力もない泉美が、ここを追い出されたら行く当てもなどどこにもない。
孤児院に入る年齢でもない泉美にとって、唯一の現実的な出口は結婚による家からの独立だ。そのことを考えれば、着物を準備するといった父の言葉に「ありがとうございます」と返すしかなかった。
夕食が終わり、それぞれが部屋へと引き上げた後、泉美はお仕着せ姿に戻り、皿洗いを始めた。食事の片付けをする姿は、令嬢らしさの欠片もなく女中そのものだ。
そんな彼女に父の秘書が近寄り、「旦那様がお呼びです」と告げてきた。
泉美はちらりと周囲の女中たちを見やる。彼女たちは何も言わずに目配せし、「行っておいで」と伝えているようだった。
気が重くなるが、父の呼び出しを無視することなどできない。
泉美は秘書に促されるまま足を向け、赤沼伯爵の執務室へと歩みを進めた。
「おお、泉美か」
部屋に入ってきた泉美を見るなり抱きしめようとした父だが、躊躇いを見せた。それはあまりにもみすぼらしい姿をしていたからだろう。
「なぜ、そんな格好をしている? 先ほどの着物はどうした?」
父の問いかけに、泉美は静かに答えた。
「今、皿洗いの途中でしたので……」
返事に対し父は特に答えることもなく、泉美を見つめ始める。その視線は彼女を値踏みするようにじっくりと絡みついていく。
「いい女になったなぁ」
父の口から漏れたその言葉とともに、肉食獣を思わせるギラギラした視線が泉美に突き刺さる。ねっとりとした視線に、泉美はじわじわと恐怖を感じた。
心の奥底に息苦しさを覚え、自分でも気づかぬうちに、自分自身の身体を抱きしめて震える。
「泉美には悪いと思っているよ。だが、何度も言うように、私がおまえを可愛がると母さんと百合の機嫌を損ねるからね。それに家のことをできるのは悪いことじゃない。どのような家に嫁ぐかはわからないしね」
だから女中の真似事をさせているのだと、そう聞こえる。
「だがおまえだって十八になる。そろそろ社交の場に顔を出してもいいだろう」
泉美の心の中に嬉しさと困惑が広がり始める。今までは異能がないからという理由で遠ざけられていた社交の場。それにいきなり参加となれば、いろいろな意味で不安になる。
「そのために、まず着物を仕立てようと思ったんだ。母さんにはよく言っておくからね」
端から見れば、娘思いの父親に見えるだろう。だが、そうではない。得体の知れない違和感が、先ほどからぐるぐると身体に巻き付いている。
「今日は疲れただろう。ゆっくりと休みなさい」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
父の執務室から出たとき、蛇の巣穴から逃げ出せたような、そんな安堵感に包まれた。
* * *
百合に妹ができたのは、百合が三歳の頃だった。妹の名は泉美。
しかし、泉美は両親にも百合にも似ていない。そして、竜華族なら誰もが持つとされる異能の力も持ち合わせていなかった。
それもそのはず。泉美は父がどこから拾ってきた子だからだ。
『代わりにこれを手に入れた』
父がそう言いながら泉美を抱いたとき、その小さな身体は少し震えていたが、大きな黒目をぱっちりと開け、どこか遠くを見つめていた。
『今日から俺たちの子だ」
いきなり父はそう宣言した。
その言葉を聞いた母の表情は不満と嫉妬に満ちていたが、夫に逆らうことはできず、しぶしぶと泉美を受け入れた。その結果、泉美は百合の妹になった。
しかし、泉美が成長するにつれ、母の中で泉美への不快感が募っていく。
『異能もないのに赤沼家の娘として暮らしているのですから、少しくらいは役に立ってもらいたいものですね』
母があまりにも噛みつき続けたため、父もついに根負けし、泉美に女中の仕事を与えるようになった。
『どうせ外に出せる子ではないからな。ならば家の中でしっかりと奉仕してもらおう』
赤沼家の養女でありながら、異能がない。となれば、父のその言葉も納得がいく。
百合にとっても、泉美の存在は面白くなかった。たとえ両親から向けられる気持ちが愛情とかけ離れているものだとしても、両親の関心を奪う泉美の存在が許せなかったのだ。
とはいえ、百合の目から見ても、泉美は確かに『外に出せない娘』であり、結婚や家庭を築く未来すら望めないように思えた。そう考えるたびに百合と泉美の違いは明らかで、優越感に満たされていく。
泉美が百合の妹になったことはこのうえなく不愉快だったが、何も知らない泉美が家に閉じ込められ、ひたすら家事をこなす姿は滑稽に写った。
だから百合は、両親がいないときにこっそりと泉美をいじめることを覚えた。それはバケツの水をひっくり返したり、洗濯物を地面にたたき付けたりと、そんな些細ないたずらの積み重ね。
ところが母はもっとひどかった。父のいないところで鞭を使い、理由もなく泉美を打った。
『顔が気に食わない』『態度が目障りだ』など、感情的な理由で罵りながら暴力を振るっていたのだ。
だが勢い余って泉美の顔に傷をつけてしまったときには、母は父から叱責を受けた。
『大事な娘なんだ。何をする』
その一言が、母の嫉妬に火をつけた。だから母は、服に隠れて見えない場所を打つようになった。
「悔しいわ……」
そんな母がぽつりと呟く。
「もういい加減、あの娘には出ていってもらいましょう? どうして私があの娘の着物を用意しなければならないの?」
その言葉を聞いた百合が、何かを思いついたようにそっと母に耳打ちをした。
「お母様、でしたらいい方法が……これならきっと、お父様も怒らないと思います」
百合の提案を聞いた母の目が喜び、「それはいい考えね」とにたりと微笑んだ。