プロローグ
昔から新月の夜に竜尾山に入ってはいけないと教えられていたのは、この理由があったからに違いない。
うっそうと茂った山は草花が豊富で、薬草の宝庫とも言われている。だがそれは昼間の顔。とくに新月の夜、暗闇に沈んだ森は、まるで生き物のように息づき、得体の知れない気配が木々の間を這う。決して足を踏み入れてはならないのだ。
恐ろしさのあまり足がすくみ、もはや逃げることなどできそうになかった。
腰が抜けて地面に尻餅をついたせいで、着物の裾は冷たい泥にまみれている。普段ならその汚れを気にしただろうが、今はそんな些細なことがどうでもよくなるほど、恐怖に心が支配されていた。
突然、目の前に姿を現した異形。それは真っ黒い影で、四つ足の獣のような形をしていた。その巨大な口を開け、こちらへ迫ってくる。
(食べられる――。私、死ぬの?)
両手で頭を覆ってみたものの、それがただの気休めでしかないことはわかっていた。それでも身をすくめて頭や心臓を守ろうとする行動は、恐怖に直面した人間の本能だ。
異形に食べられたらどれほど痛いのだろうか。血はどれくらい出るのだろうか。それとも丸呑みにされて、しばらくは意識が残るのだろうか。
(どうせなら、ひと思いに――)
そう思って目を閉じて覚悟を決めたというのに、来るはずの衝撃は訪れなかった。
「……おい」
代わりに、どこか低く響く人の声が聞こえてきた。
新月の夜にわざわざ竜尾山に入るような物好きなど、自分以外いるはずがない。だからこれは空耳に違いない。
「おまえは死にたいのか?」
今度は、はっきりとした声。空耳どころか、冷酷な響きを宿した男の声だ。
はっとして顔を上げると、星々の微かな光に照らされ、軍服を身にまとう男の姿があった。その右手には、血が滴る一本の刀が握られている。
「だ、だれ……」
震える唇から漏れ出たか細い声で、そう尋ねるのが精一杯だった。
「それは俺の台詞だ。おまえ、こんな新月の夜にこの山に足を踏み入れるとは……何を考えている?」
男の髪は、星の光を受けてどこか赤みを帯びて見えた。鋭い眼光が真っすぐにこちらを捉え、逃げられない。
「わかっています。でも、月光草を摘んで帰らないと……」
「月光草?」
男の視線は彼女の手に注がれた。
「何もこんな日に、わざわざ取りに来る必要はないだろう? 今日は新月だ」
「でも、これがないと姉が……」
その話に興味がないとでも言うかのように、彼はふん、と鼻から息を吐いた。
「それよりも、おまえ……」
一歩こちらに近づいた男は腰を落とし、目線の高さを合わせてきた。
その瞳も髪と同じく赤みを帯びており、まるで燃えるかのよう。
この姿は、彼が火竜の血筋の者であることを物語っている。
それに整った美しい顔立ちをしている。切れ長の目、鼻筋はすっと通っており、唇も艶めかしい。立ち居振る舞いにも気品が漂う。きっと彼は高貴な方。
「魔魅をどこにやった?」
「ま、み?」
「ああ、人を惑わす化け物のことだ。異形とも言うな」
「それは、あなたが倒してくれたわけではなく……? その刀で……」
恐る恐る問い返してみたが、その視線は男の右手に握られた刀へと向けられる。
「そうだ。魔魅を倒せるのはこの竜刀だけ。だからだ。おまえ、魔魅をどこに隠した?」
「隠したも何も……私、何もしていません。アレに食べられると思ったから……」
腰を抜かして動くことすらできない。
「なるほど? だが、魔魅は俺が倒す前に消えたんだ。ここにな」
男は、濡れた刀の先端を胸元に向けてきた。その仕草は威圧的で、思わず恐怖が込み上げる。
「わ、私は、何も……んっ」
突然、男の刀が胸元へ吸い込まれるようにして消えた。
「なっ……! お、おいっ!」
「あぁっ……」
身体に何かが起きていた。全身が熱を帯び、燃えるような感覚が内側から溢れてくる。
耐えがたい熱によって、意識がじわじわと薄れていく。
「くそっ。おまえ、よりによって『器』か!」
意識がすべて闇に呑み込まれそうになる中、慌てふためく男の声が遠くに響いた――