幻想風味。骨
今書いているもので少し使うかもしれないモチーフの練習をするつもりで書く。
女は骨しかなかった。もし、彼女が骨盤だけだったならば、僕でさえ何の曇りも屈託もなく、世界のあり方を信じていられただろう。休暇中、別荘で気儘に過ごしていたある日、海岸で骨を見つけたのだ。僕はその骨を持ち帰り、家に置いていた。
骨はしばらくすると、立ち上がって、カラカラと顎を鳴らして、何かを言った。そして、僕の肩を掴んで、迫る。しかし、その眼底は本当に節穴だ。凡その感情すらわからない。空洞だからといって、蝉のように鳴いてくれるわけでもない。全きの無機質が、恰も命を騙るように動くものだから、仕様がない。
さて、骨子は項垂れて、外を眺めている(便宜的に名付けた)。いや、正確を期すならば、山間からぼやけて見える海の方を向いている。背骨は綺麗にS字を描いていた。筋肉がないというのに、一体何が彼女を支えているのだろうか。そして、可笑しいことに、彼女は「裸体」でいることを恥ずかしがるようだ。少なくとも僕が彼女の肋骨の中程や、恥骨や坐骨を見ると、怒るのである。僕のことを骨で叩いて主張してくることから、やはり感情めいたものはあるようだ。そして裸を恥ずかしがるという文化もある。しかし、冷たく鋭い骨で突かれたり叩かれるのは好まない。そこで僕は骨子に一応の服を与えてやった。死んでいるのだから、喪服にしてやった。僕の別荘での隠遁も、程よい暗さに包まれて、目指しているのもがより手に入りそうだ。それは何と言っても、諦念とともに死を眺むこと。そしてそのまま、ゆっくりと朽ちてゆく美を堪能することである。動く女の骨は、僕をより楽しませるのだ。
喪服に身を包んだ(骨を包んだの方が正鵠を射ているか?)骨子は、不服そうながらも、それなりの対応に満足したようで大人しくなった。しばらくすると、一面ガラス張りの広い居間にいき、不気味にパヴァーヌを、片割れのまま踊り始めた。広い窓の前で、曇り空の薄暗い日の下で、舞っている。僕は文字通りの「死の舞踏」に快さを覚えるとともに、外から入ってきた、潮のかおりに惑う。
その薫りが、ぼんやりとした輪郭とともに、視野に入り込んできた。まるで透明な天の川があたりに出てきたようだ。その天の川は、スモッグや大気汚染のせいなのか、はたまた僕の近眼のせいなのか、幾重にも希釈されたように薄く、透けている。すると、その天の川から透かして骨子を見ると、朧げに、彼女の四肢が、つまり肉体と顔が現れた。もちろん、それを通さねばただの骨なのだが、確かに豊麗な女が見え隠れしている。ちなみに僕は何かいかがわしい薬でトランスしているのではない、もし仮に僕がトランスしているならば、それはこの骨子かあるいは潮のかおりによるものだ。しかし、葬儀屋は骨で忘我しないし人骨は砕いて粉状にしても見かけだけである。また潮のかおりでそうなるならば、サーファーの方々は毎度毎度、運動と関係なしに恍惚としていることになる。つまり、僕は至って正常であるし、尋常の僕が信じ難いものを見ているのだ。
──
その日の夜、骨子は客室のベッドで、寝ているらしかった。食事は必要としておらず、水も飲まない。踊りを終えたあとは、また茫然と海の方を向いて、大人しくしていた。日が沈んでからは、ソファでくつろぎ、勝手に映画を見ていた。しかもそれはゼイリブであった。僕個人としては、あの宇宙人より、この骨の方がよっぽど奇怪で奇妙であると思うが、口に出せなかった。
彼女が寝室で大人しくなったことを確認して、僕は居間でニュースを見ていた。晩酌をしたかったが、あてがなかった。外を見ると、全くの暗闇であるが、幾つか木々が揺れているのを認めた。どうやら、風が出ているらしい。立ち上がり、僕は冷蔵庫を開けてチーズを探す。安物のプロセスチーズを見つけた。これは美味しいのかそうでないのか曖昧な代物で、その煮え切らない風味が癖になる。ソファに座って、テレビをみる。退屈と倦怠とともに、いつも通りのパターンが放映されている。また遠くから見る限り、極めてくだらない理由で他人を毀損したり、傷つけたりしている。全く恐ろしいことである。斯様に義憤を装って対岸の火事の映える様を茫と見ていると、こんなことを思う。もしニュースに対する僕の態度を広く適応して、自身のことも吊るされた人形として眺めたならば、人生の行路の悲劇も楽に感じられるのだろうか。しかし、多分それは根本的に間違いであろう。この行路から悲劇を取り除いてしまったら、それは氷山に衝突しないタイタニック号と同じある。お客さん達は全くつまらなくて、途中で帰ってしまうだろう。もちろん、その映画館からは出られないのが肝であるが。
とかく、贄となりたくないから、僕はこの別荘へ遁走したのだ。ニュースを見て虚無な人生観を考えては本末転倒である。
細々とした日常から、大局な見通しを立てんとするのは──まるで、闇夜の大洋の只中にあって、顕微鏡で星辰を捉え、航路を定めんとするに等しい。また、この地球上から想像を大気圏の外へ飛躍させ、銀河群を把握し、宇宙の体得を試みながら、尚も一方で、既に掌握した自らの体内の連関を、宇宙との類比により、知悉せんとする企図に似ている。それらは──誤謬を孕み、誘惑に溢れている。
ニュースは終わり、僕も眠ることにした。
──
朝、雨雫の音で目が覚めた。眠りの心地は、あまりよろしくなかった。カーテンから覗く外は、灰色を溶かしたようである。
僕は寝室から出て、驚くべきものを見た。骨子に肉がついているのだ。しなやかな足腰のある、生きている女であった。横顔はしかし窓の外、海の方へ向けられている。彼女は何を思っているのだろうか。その面持ちからは何も読み取れない。無表情というのも違う。憂愁の色も、もの悲しさも感ぜられない。ただ、海の方を向いている。決して眺めているのではない。
すると、彼女はこちらに気づいて、目をやった。僕の驚いた顔を見た彼女は、少し満足げに映った。
「…お…おはよう」
僕は、きまりが悪くて、言い淀んだ。
「おはよう。案外早起きじゃないんだね」
彼女の発音を聞きながら、僕はそそくさとソファに座った。
「…何者なんだ。昨日は確かに骨だったはずだ。そもそも、あんたは一体何でここにいるんだ?」
「あなたが、私を理解する時は、私は透明でないといけないの。でも、あなたが私を考える時は、私は骨じゃないといけない」
彼女は、一体何を言わんとしているのか、毫も理解できなかった。
「世界の全てが書かれたカタログですら、読む時は一つの単語を流麗にみていくでしょう?つまり、だから……貴方は凡百な、“理解”などという言葉に耳を貸しちゃいけないの」
彼女は、僕の邸宅から出てゆく。僕は雨にも構わずついていった。何か、このままでは堪え難い寂寥感に包まれてしまうのではないかと、恐怖していたのかもしれない。ならば、それは利己心からくる卑しいものかと訊かれたら答えに窮するが、とも有れ、逡巡していた。
「ま、待ってくれ。雨が降ってるぞ。それなのに…」
僕の制止は全き徒労であった。手を伸ばしたが、彼女の腕はまるで水心のように僕を透過して、ただ湿らせた。すると、彼女は、僕の内奥を透かすようなことをいった。その時、雨足が俄かに弱まった。
「私は貴方に一つだけ大事な経験を渡したから、水に帰るの。でも、何も問題はない。
たとえ、鋳型と変わらぬ語彙による車輪の再発明であろうとも、ひとえに小さく細やかな矜持の高殿は、貴方の語彙を材として、貴方自身のために建立され、その礎だけは廃れてもとどまり続ける。それで、様式が壮麗でないにしても、あまり関係はない。そして、やはり他の人は誰も参らないけど、貴方には熊手があり、翰藻がある。けれど、貧しいがゆえに肥大した根瘤は、ついに消えてしまう。なぜか。それは、わたしが与えた経験によるの。しかし、清らかに貧しいのではない。……ただただ、貴方は貧して、口惜しいの。蟠りはないけれど、貴方の展望はこんなにも美しいけれど、貴方がいるのは、空っぽの邸宅。
貴方のうちにはきっと、物がわかることについての構造を伴った理解があるでしょう?閃光のように感じて、確信があるのに全然口から出てこない。それでも他人から見れば、言葉として皮層だけは整っているように見えるし、歴史やら時系列やら論理やらも整然……なのに全くわかっていないの。結局、貴方が分かったと感じたものは、物と事と、時間と理屈が綯交ぜになった何かなのに、結局一つの空疎な語彙に集約してしまうの。…わたしの説明だって、貴方は全く分かっていないでしょ?」
僕はくだらない自尊心が傷ついたからなのか、それとも会話を長引かせるという姑息な手段で結末を先延ばしにしたかったからなのか、どちらにせよ素早く反応した。
「それはつまり、経験した事柄は常に数多あるというのに、言葉の上で超越したものに翻してしまう……」
彼女は制するようにいった。
「そうではないの。今、見ておきなさい」
気づけば、海辺まで来ていた。雨はすでに上がっていた。沖の方はすっかり青空が広がっており、山の方の灰色の雲らは敗走するかのように、素早く滑っていた。彼女のほうを見やると、再び骨になっていた。
「ああ!」
勝手に声が漏れた。すると、骨は、海に足を入れた。骨に肉が戻る。しかし、振り向きもせず、喪服の彼女は沈んでゆく。昨日の夕日の沈むのよりゆっくりと、しかし着実に、海洋へと消えていった。
……大海の奥底に、その影を呑まれていった彼女は、いったい何を僕に残したのか。帰ってしばらく倦んでいた。ただひとつわかったことがある。
──濡れた喪服を干して、新たな出会いを探さねばならない。幸い、この海には鮫が出るようで、向こうが骨にしてくれる。一人楽しむ劇にはちょうどよい。
比較的長いモノがあと完成しそうなのだが、行き詰まっており、楽な短文で息抜きをした。