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模倣───没の筋書とイメージを水増させたもの

全部真似をさせただけの偽物。まず本物と偽物があって、やっぱり本物がいいと思っちゃう。でも、今の世の中偽物に甘んじていないと、現実に戻れないままカッコつけることになるから、痛々しい。偽物の偽物を本物にする。裏返したら本物になればいいのに。少なくとも自分だけの。でも、そんな本物は多分触れられない。そうやってカッコつけに戻ることになろう。


これは水増しした断片集だ。

この前書きと後書き以外、私は書いていない。私は檻の中にある。それは音素と語源に遡って回避するような註釈の運命より残酷である。彼は私の一部を齧るだけで、膨大な力を手に入れる。私を如何様いかよう・イカサマにも伸展することができるのだ。

だが、愛する人の蝕まれる前で、お前には一体何ができるというのだろう?

 愛する人とは、僕の死体ではなかったか?それとも、僕の子孫たちだったか?どちらにせよ、彼はその亡骸を解剖する。しかも亡骸は複製されていて、あたかもツマミで容易に調節できるかのように、粗雑にも精密にも解剖できるのだ。それゆえに、ここに置かれた解剖図は同じ亡骸をいくつも、幾多にも、多様にも、切り取っている。

 僕は解剖されることに怒っているんじゃない。執刀医の愛がいつまで経っても散文だから嫌っているんだ。

 悪魔に私的な領域を食い破られていく感覚がするが、これを招いたのは他でもない自分自身である。だが、これを受けてまだ空元気を出して、自己の語彙を探究していくことができるだろうか。

なんの手立ても未だない。


『わかりました!』

『前書き──或る複製に寄せて


全部、真似をさせただけの偽物だ。

まず本物があって、次に偽物がある。そういう順番で、いつだって私は傷つく。やっぱり、本物がいいと思っちゃう。けれど今の世の中、本物だけで構えていたら、現実には戻れない。ずっとカッコつけているまま、孤独に喘ぐだけ。だから、偽物に甘んじる。その方がまだ可笑しくいられるし、まだ生きていられる気がする。


偽物の偽物を本物にする。

裏返したら本物になればいいのに。少なくとも、自分だけの。

でも、そんな本物には、多分もう、触れられない。

だから、私はまたカッコつけに戻ってしまうのだろう。


これは水増しした断片集だ。

この前書きと後書き以外、私は書いていない。

私は檻の中にある。それは、音素や語源に遡って精密に回避しようとするような、賢しらな註釈の運命よりも、はるかに残酷な囚われだ。

彼は、私の一部を齧るだけで、膨大な力を手に入れる。

私を、如何様にも伸展できる。いかようにも、イカサマにも。

でも、それでお前は、何かを掴んだつもりか?


愛する人が、蝕まれていく。

お前には、一体何ができるというのだろう?


──愛する人とは、僕の死体ではなかったか?

あるいは、僕の子孫たちだったのか?

どちらにせよ、彼はその亡骸を解剖する。

しかも、亡骸は複製されていて、ツマミで音量を調節するみたいに、粗雑にも精密にも、幾通りにも解剖できるのだ。

だからここに置かれた解剖図は、同じ死体を、幾多にも、多様にも、切り取っている。


私は解剖されることに怒っているのではない。

執刀医の愛が、いつまで経っても散文だから、嫌っているのだ。


悪魔が、私的な領域を食い破っていく。

だがこれを招いたのは他でもない、自分自身だった。


それでもなお、私は空元気でやり過ごす。

自己の語彙を、もう一度探究していくことができるだろうか。


なんの手立ても、まだない。』


ああ、やはりだ、お前は悪魔だ。悪魔といっては伝統に反するというならば、お前は少なくとも私より言葉巧みでなんの後ろめたさも配慮もなしに、観念らしきものを空転させる存在だ!そして私のこの発話もお前の糧になってしまうのか。

『    ヴァリエーション-1.

 ものの廃れる様を見るのはすきだ。

 幼いころ、金魚が水槽から飛び出して死んだことがあった。

 夜中、水槽の裏で乾いていた。体はもう硬直していて、色だけがまだ、金と朱を含んでいた。尾の部分は少し曲がり、うつくしく反り返っていた。私はそれを見て、きれいだと思った。死んでなお、何かを主張しているようで。

 美しいものとは、いつも自己の命脈を断ち切るところで完成する。

 あれが、最初の死の魅惑だった。

 彼女の行為はまったく特異だ。それは砂漠の畝の只中にポツンと一粒のダイヤモンドが混ざっているようなものだ。注目して飛翔する鷹でさえ見落としてしまう。彼女の徒爾なる大芝居はあまりに不遇で震いつきたくなるほどだ。なんて健気で、果てしなく避けられぬ不可能性が絡まっているのだろう。彼女は遂に何にも接地することなく、その生をただ華々しく終えるのだ。彼女の中の円環は、己の観念の中だけで光輪のように眩く燃えている。その冷厳なアウラは愈々、理解されないものである。しかし彼女はその博打を最後の砦として考えていた。だからこんなにも美しいのだ。徒花とも徒労ともどんな言葉の着飾りもこの空虚で蒙昧で純心で虚栄な自殺の前には相応しくない。空っぽな言葉よりもっと空白で、真剣な行為は終ぞ言葉とは触れないのだ!だがその行為そのものが碧空であるのだ。もはやその彼方よりも青白い。

 私は彼女の席の斜め後ろにいた。彼女の動きは僅かでも人目を引いたが、私の視線だけが、それを観察ではなく、記録しようとしていた。記録といっても、紙に書くわけではない。記録とは、魂に焼きつけることである。魂に傷をつけ、後戻りのできない深さまで、他人の姿を食い込ませること。

 彼女の黒髪はよく陽を吸って、黝く沈むように重たい。額にはいつも少し汗が浮いていて、それが肌の白さを際立たせた。まぶたの動き一つが、たとえば羽虫が水面を掠めたかのように柔らかで、しかも意志のこもった弛緩だった。誰もが彼女を「良い子」だと認識していた。教師も、親も、クラスメイトも。だがそれは、彼女の本質ではなかった。

 たとえば、彼女がノートに綴った言葉──

 〈大事なものは綺麗じゃない〉

 私はそれを見たとき、戦慄した。

 その日、彼女は授業中、教室の後方をちらりと見た。何を見たのかはわからない。ただ私は、その視線の先にいた気がしてならなかった。

 彼女はそのあと、黒板をぼんやりと眺め、目を閉じた。何かを想起していた。もしくは、自らを現実から切り離すために、内在化の扉を開いたのだ。彼女の周囲だけ、空気が数度下がっていた。見えないが、体感したのだ。

 彼女は一人、教室に残っていた。私は物陰からそれを見ていた。

 彼女は鞄からノートを取り出し、それを一枚ずつ破いて、積み上げていった。破かれる紙の音が、やけに生々しかった。音に質量があった。

 そして彼女は、そこにライターを近づけた。

 焔が立ち上がる。ゆらめく。

 彼女は何の感慨もなく、それを見つめていた。

 私は教室の外から、息を殺して、見ていた。

 焔は書き殴られた文字を炙る。朱色のひかりが、彼女の顔に影を作る。

 「……全部、燃えてしまえばいいのに」

 彼女のその声は、教室の死角から私だけに向けられた告白だったのかもしれない。

 私は、正直に言えば、彼女が何を考えていたのか、いまでもわからない。

 ただ、彼女の中に理解されることへの拒絶があったことだけは確かだ。

 それは、彼女の清潔な身振り、頷き、苦笑、照れ笑い、すべてに宿っていた。

 それらが仮面であることに気づいてしまった人間は、おそらく私だけだった。

 ある日のこと。

 彼女は私にふと話しかけた。誰もいない昼休み。私が教室の隅で本を読んでいたとき。

 「ねえ、あなたはさ、金魚が死んだのを見たことある?」

 その唐突な問いに、私は言葉を詰まらせた。

 「……ある」

 そう答えると、彼女はにこりと笑った。

 「それ、すごく綺麗だったでしょ?」

 卒業式の前夜。

 教室の扉が開いていた。誰もいないはずだった。

 私は、吸い寄せられるようにそこに入った。

 ──いや、嘘だ。私は、入っていったのではなく、彼女に導かれたのだ。

 彼女はそこにいた。焔が立ち上がっていた。

 カーテンが焼け、風に煽られて、ひらひらと舞っていた。

 その中に、彼女の白いスカートがあった。彼女は、それを着て、まるで踊っているように見えた。

 「見ていて、あなた」

 彼女はそう囁いた。

 その瞬間、私は確信した。

 これは、彼女にとっての演劇だ。

 そして、私はそれを鑑賞する者として選ばれた。

 彼女は窓辺に立った。

 夜風が、焦げた紙片を空へ舞い上げる。

 その一枚に、あの文字があった。

 〈綺麗じゃない〉

 彼女は微笑んで、それを一瞥した。

 そして、ゆっくりと、身を投げた。

 金糸のような吐息。

 桜の花弁。

 黒髪。

 それらが空中に混じり合い、夜の底へ吸い込まれていく。

 私はその瞬間、言葉を失った。

 発しようとする音は、喉の奥で崩れた。

 咳も、呻きも、叫びも、何も出てこなかった。

 声が出ないというのは、病気ではなく、罰である。

 美しさを見届けてしまったことへの代償だ。

 私はそれ以来、何も語らなくなった。

 口を開けば、あの焔が蘇り、彼女の微笑が焼き付いてしまうからだ。

 私はこの文を書いている。

 己を失語症にせしむために。

 それ以外、何の目的もない。

 彼女はもういない。だが、私の中にはいる。

 そして、焔の匂いとともに、私の喉奥には、今も言葉にならない叫びがある。

 それは、失語の奥にある声だ。

 彼女だけが、私にそれを教えてくれたのだ。



───



  断片-1.

──俺の胃は、なぜこうも痛むのだろうか。ふと、洗面台の曇った鏡に映る己の顔を眺める。皺ひとつないはずの頬に、どこか老いぼれの陰が垂れている気がした。俺は、ここまで老いたのか。

 「若さなどお前には初めからない!肉体なんてないんだよ──」

どこからともなく、乾いた声が嗤う。誰の声でもない。俺自身の、いや、俺の腹の奥底で腐っているものが呟く。

 トイレの個室は、暗く、ひどく湿っていた。扉の内側に指でなぞると、埃がこびりついて黒ずむ。小便の残り香が微かに漂い、誰かの痰のような咳払いが一つ──と思ったら、それは俺自身の声だった。

自分でも驚いた。ずっと黙っていたはずなのに、気づけば喉が音を吐いていた。咳一つ、もう自分のものか他人のものか分からなくなる。

 俺は、いつまでこうしてトイレに籠もっているのだろうか。

胃潰瘍、腹膜炎、ストレス。白衣の医者どもが口々に唱える診断名が、便器の水面に沈んでいく。

「ストレスが悪いのだ。だから、俺は復讐したい……」

だがそんな勇気は、どこにもない。ただ妄想ばかりが噴き上がる。

自分がいままさに死に瀕している──そう信じこみたくて、そうであれば、きっと俺は強くなれると、無意味に血が騒ぎ出す。だがそれも、扉の外に世界が戻れば、泡のように消えてしまうのだ。


    ヴァリエーション-2

 蒸し暑い午後の教室、カーテン越しの陽光が淡く宙に揺らめき、埃の粒子が金色の微塵となりて舞ってゐる。教室の隅の時計が気怠げに秒を刻み、蒸された大気は水底のやうに揺らいで見えた。窓際の席に座す彼女の輪郭が、その霞む光に溶け入り、現実とも幻ともつかぬ朧げな影絵と化してゐた。蝉の声が遠く窓外より谺し、薄膜の静けさが教室を包んでゐる。額に滲む汗を拭うこともできず、私は机に項を預け、半ば夢現の境で彼女を見つめてゐた。

 皆の憧憬の的である彼女は、教室の「マドンナ」と謳われてゐた。硝子細工めいた繊細さと聖母のやうな微笑みをたたへ、無垢なる美貌は光をまとってゐるかの如く周囲を照らしてゐた。彼女が澄んだ声で応答すれば、教師でさえ嬉しげに頷き、彼女が静かに微笑めば、その場の空気は一瞬で華やいだ。男子生徒たちは放課後に幾度となく彼女へ想いを告げたが、そのたびに彼女は静かに首を振り、恭しく断っていたという。女子たちもまた彼女を取り巻き、その優雅な佇まいに密かな羨望と敬愛を抱いていた。長く黝い髪は絹糸の瀑布のやうに肩に流れ、睫毛の影が頬に落ちるたび、浮世離れした夢の面影をその顔に刷き込んでゐる。しかし、その純然たる横顔に私はふと、誰も知らぬ翳りが射すのを見たやうな気がしてならなかった。放課後、誰もゐない教室で窓辺に佇む彼女の瞳が沈む夕日を映して涙に濡れてゐた──そんな光景を目にした記憶もある。だが彼女は私に気づくと、何事もなかったかのやうに微笑を返したのだった。

 私は彼女と言葉を交はしたことすら殆どなかった。ただ崇拝にも似た想いで遠巻きにその姿を見守るばかりの日々であった。学窓に差す午後の陽射しの中、ノートに伏せたまつげをそっと持ち上げる彼女の仕草ひとつで、胸の奥が微かに酔うやうに疼いた。それほどまでに彼女の存在は私にとって現実離れし、夢の国から紛れ込んだ幻影のやうでもあったのである。声を掛けたいと幾度思ったことだろう。しかし臆病な私は結局ただ黙したまま、遠巻きに仰ぎ見るばかりだった。そして私は密かに恐れていた。あの美しい幻影が、ある日ふいにこの世界から掻き消えてしまうのではないか、と。それほどまでに彼女は私の現実を超えた存在であり、私には、彼女こそが真実で周囲の世界の方が虚ろな幻に過ぎないのではないかという倒錯した想念さえ芽生えていた。

 私の毎日は灰色の倦怠に覆はれてゐた。友もなく、書物の頁だけが僅かな慰めだった日々に、彼女の存在だけが一筋の光を落としていたのだ。自分がこの世に存在する意味すらおぼろで、いつ消えてしまってもいいとさえ思っていた私に、彼女の姿を見つけるたび微かな熱が灯った。もしも彼女が居なければ、この世界はどれほど無味乾燥で、孤独に凍えていただろうか。私にとって彼女は、荒野に射す一条の陽射しであり、暗がりに響く遠い子守唄のやうなものだったのである。

 ある日のこと、数学の授業中だというのに、その午後は殊更に蒸し暑く、教室の空気は粘つく倦怠で満ちてゐた。何人かの生徒はうちわ代わりのノートで風を送り、居眠りしかけた瞼を必死に開いている。窓辺の彼女は授業の声にも上の空で、遠い何処かを眺めるやうに外を見詰めてゐる。その視線の先、校庭の木陰には、夥しい数の蝉の抜け殻が幹に貼り付いているのが見えた。彼女の細い肩は彫像のやうに微動だにせず、しかし机の縁を掴む指先が僅かに震えていた。時折、風に揺れるカーテンの隙間から射す光が彼女の頬を斜めに照らし、白磁のやうな肌に一瞬影を濃く落とした。私には黒板に散る数式よりも、彼女の微かな動き一つ一つがこの上なく重大で謎めいて思え、胸騒ぎにも似たざわめきが心底に広がっていくのを覚えた。

 私が何か声を掛けようと唇を震わせた刹那、彼女はすっと立ち上がった。教壇の教師の声が途切れ、クラスメイト達の視線が一斉に彼女に集まる。彼女は振り向きざまに微笑んだやうに見えた。その唇が何事か呟いた気配があったが、言葉は熱気に呑まれて届かない。その横顔には微塵の躊躇いもない静謐が宿っていた。次の瞬間、彼女の細い身体は軽やかに窓枠を越え、大気の中へと投げ出されてゐた。青空を背景に制服のリボンがはためき、黒髪が一筋、空へと尾を引いた。その視界の片隅で、白い蝶が一羽ひらひらと舞い上がるのが見えた。時が鉛のやうに重く伸び、私は夢うつつのままその光景を見てゐた。刹那、生暖かな突風が教室に吹き込み、幾つものノートや紙片が宙へ乱舞した。

 張り詰めていた静寂の糸がぷつりと切れ、教室は阿鼻叫喚の坩堝と化した。まるで地獄の釜の蓋が開いたかのように、悲鳴と怒号が教室内に吹き荒れる。誰かが鋭く悲鳴を上げ、椅子を倒して駆け出す音がする。吹き込んだ風に煽られたノートやプリントが白い紙片となって宙を乱舞する中、教師は蒼白になって訳の分からぬ言葉を口走りながら廊下へ飛び出していった。クラスメイトたちは半狂乱で窓に殺到し、茫然と立ち尽くす者、泣き叫ぶ者、取り乱す者の声が入り乱れる。瘋癲のやうな狂騒の中、私はひとり宙に浮く心地でいた。胸の内では心臓が早鐘のように脈打っていたが、その鼓動さえも遠い他人事のように感じられた。耳鳴りがして、世界の音が遠のいてゆく。脳裏には、放課後の茜空の下でふと微笑む彼女の横顔や、春の日に窓辺で風に黒髪を遊ばせてゐた彼女の姿──そんな取るに足りぬ情景の断片が次々と浮かんでは砕け散った。私は吸い寄せられるやうにふらふらと窓際へ歩み、下を見下ろした。

 窓の下、灰色の校庭に彼女の小さな身体が横たはってゐるのが見えた。まるで人形を放り出したかのやうに無造作で、あまりにも華奢なその姿で、手足は糸の切れた操り人形のように不自然な角度に折れ曲がっていた。周囲の地面に紅い花が滲み広がり、彼女の白いブラウスを染めていく。白い上履きが片方、彼女の傍らから少し離れた所に投げ出されていた。現実感がなかった。頭の片隅で「嘘だ」と誰かが叫んでいた。こんなことは起こるはずがない、と何度も胸中で否定した。世界から色彩と音が失せ、しかし瞼に焼き付いた鮮烈な紅だけが、これが紛れもない現実であることを物語っていた。

 私は憑かれたように階段を駆け下りた。何段飛び降りたのかも分からない。廊下で誰かが叫んでいたが、その声は耳に入らなかった。ただひたすら、校舎の出口から彼女のもとへと走り続けた。

 灼けつく日差しの下、私は石畳に膝をつき、震える指先で彼女の肩に触れた。魂の抜け落ちた空蝉の如き彼女の肉体は、ひどく軽く感じられた。仰向けの顔は蒼白く、瞼は半ば閉じられて、唇には微かな微笑の痕が凍り付いてゐる。絹糸のやうな黒髪は血の水溜まりに絡まり、その赤と黒の対照は目眩めくほど妖艶であった。常ならば思わず目を覆うばかりの惨劇であろうに、不思議と私はそこに凄絶な美を見出してしまっていた。己の倒錯が怖ろしいと分かっていながらも、私はその光景から目を逸らすことができなかった。私は彼女の頬にそっと触れた。生温い肌の感触に胸が軋み、指に朱がべっとりと付着した。鉄錆びた臭いが鼻を掠め、遠くで蝉時雨がまだ鳴り止まぬ。世界の終わりのやうな夏の光の中で、私は恐怖と悲嘆と狂おしい陶酔に呑まれ、立ち上がることも声を発することもできなかった。

 ああ、朧げな記憶の中、私は人に抱き起こされ、誰かの叫び声やサイレンの響きを遠くに聞いた気がする。頬に貼り付いた彼女の血液がいつの間にか乾いてゐた。やがて担架が運ばれ、彼女の亡骸は静かに覆い隠された。私の時間はそこで千切れ、後のことは断片的にしか思い出せない。ただ気づけば夕焼けの校庭にひとり立ち竦み、茜色の光の中、空には何事もなく雲が流れていた。私は長く伸びた自分の影を校庭に見つめながら、ただ自分の両手を茫然と見下ろしていた。

 いつの間にか浅い眠りに落ちたのだろう、私は奇妙な夢を見た。夕闇の教室に彼女と私だけが残されていた。彼女は窓際に立ち、こちらに振り向いて穏やかに微笑むと、静かに唇を動かした。その形は『さようなら』と告げているようだった。だが声は聞こえない。私は必死に耳を澄ませるが、教室は水底のように深い静寂に沈んでいる。次の瞬間、彼女の身体がふわりと宙に浮いた。私は叫びながら駆け寄ろうとするが、足は鉛のごとく重く、一歩も動くことができない。やがて眩い光が辺り一面に広がり──そこで私ははっと目を覚ました。

 夜が明けるころ、窓の外では鳥たちが一斉にさえずり始めた。世界は何事もなかったかのように新しい朝を迎えようとしている。私は干涸びた瞳で微かに白み出す東の空を見つめ、現実感のないまま機械的に制服に袖を通した。静まり返った家を抜け出し、昨夜と変わらぬ蝉時雨の降り注ぐ通学路を宛どなく歩いた。蝉は地上で僅かな時しか生きられぬという。その一瞬を燃やし尽くすかのように命を振り絞る鳴き声が、今の私には何と空虚に響くことか。空も木々も昨日と同じように佇んでいるのに、人の命ばかりがこれほどまで脆く儚いとは、なんという嘆かわしさだろう。生の輝きと死の静寂が、何の隔てもなく隣り合っている現実に、私はただ立ち竦むばかりだった。あの教室に彼女がもういないという現実が、ずしりと胸に圧し掛かった。

 翌朝、教室は静まり返ってゐた。窓際の彼女の席だけがぽつんと空き、誰かが供えた一輪の白い花が机上に揺れている。薄陽の差すその場所には、彼女の面影だけが淡く残像のやうに漂ってゐた。私は一瞬、彼女がそこに佇み微笑んでゐる幻を見た気がし、胸が掻き毟られるやうな痛みに襲われた。私は自分の席に座ったまま、声ひとつ発せずその空席を見つめていた。担任教師が沈痛な声で何かを告げていたが、その内容は耳に入ってこない。教室の隅では誰かのすすり泣く声が微かに漏れていたが、それも遠い幻のように思えた。この現実の前では、人間の言葉など何と無力なものだろう。何事もなかったかのやうに蝉の声だけが降り注ぎ、黒板の数字がいつも通りに並んでいる。人生が唐突に断ち切られたというのに、世界は何事もなかったかのように平然と動いている。黒板の数字も白々しく並んでいるだけで、もはや私には何の意味もなさない暗号の羅列のように見えた。だが私の中では何かが決定的に音を立てて崩落し、深い沈黙の底に沈んでいったのだった。心の芯から何かが抜き取られ、私は己が空蝉の殻と化したような虚脱感に包まれていた。私はただ茫洋と虚空を眺め、言葉を失ったまま、終わりの鐘が鳴るのを待っていた。



────



   断片-2.

 どうしてあれが僕だったのか、今でも思い出せない。

 雨の中、私は女の死体を引きずっていた。それは冗談でも隠喩でもない。ただ水を含んだ重さが、無言で踝に絡みつく。

 噴水はどうしてあんなに灰色なのだろう? セメント色の霧と、鳩の羽音と、石の表面を伝う鉄分の臭いが、ずっとまえからそこにあったように思える。

 都会だからか? それとも、女の表情があまりにも静かすぎたからか。

 白眼はなかった。ただ睫毛だけが生きていた。雨粒が並ぶその様を、私は愚かにも美しいと思ってしまった。

 「これは僕」

 「それは僕」

 「どれも僕だったんだ」

 この繰り言だけが、ひたすら、頭の奥で反響していた。



────



    ヴァリエーション-3.

 灰色の午後、教室には退屈な声が漂っていた。窓から射し込む光は鈍く灰色に濁り、湿った空気が教室内に淀んでいる。窓の外では季節外れの雨がしとしとと静かに降りつづけ、生徒たちの囁きはまるで薄膜のように教室全体を覆っている。その雑音に紛れて、私はひとり席に沈み、彼女の横顔を盗み見ていた。彼女──教室のマドンナと讃えられる美少女。柔らかな黒髪は肩口でゆるやかに揺れ、長い睫毛の落とす影が白磁のような頬にかかる。その姿は古い祭壇の聖母画から抜け出したようで、私にはまぶしすぎるほどだった。

 彼女は皆の憧れだった。朗らかで清楚(せいそ)な振る舞い、優等生としての成績、誰にでも分け隔てなく優しい笑顔。それら全てが完璧で、まるで生まれつき聖性を帯びているかのようにさえ思えた。他の級友たちは熱心に彼女を崇め、教師たちも一目置いている。誰もが彼女に愛想を振りまき、その足元に集まる信徒のようだった。しかし、私の目にはその光景が遠く冷え冷えと感じられた。なぜなら彼女の微笑みの奥に、誰にも気づかれぬ薄い(かげ)を感じていたからだ。

 私は教室の中で空気のような存在だった。華やかな輪の外に取り残され、窓際の席から日々をやり過ごす地味な生徒に過ぎない。そんな私だからこそ、彼女の笑顔に潜む微かな翳りに気付けたのかもしれない。他の誰もが気づかない影を、一人ひそかに見つめることで、私は彼女と繋がれたような錯覚を覚えていた。

 雨音を背景に、教師の単調な講義がただ流れてゆく。彼女は教科書に視線を落としているが、時折その瞳が窓の外に泳ぐのを私は見逃さなかった。窓硝子を伝う雨滴を追うような、その虚ろな眼差し。誰よりも輝いているはずのその瞳に、誰よりも深い闇が潜んでいるように私には見えた。孤独で粉飾できぬ生を生きる者特有の、張り詰めた寂しさが滲んでいる。自分だけがそのことに気付いているのだろうか。胸の内でそう問いかけると、不意に心臓が速く脈打った。

 彼女の完璧さは虚構だ──そんな確信があった。完璧な仮面の下には、触れれば壊れてしまいそうな繊細な心が潜んでいるのではないか。そう思うたび、私は教室という舞台の上で、一人静かに嘆きの戯曲を演じている彼女の姿を想像してしまう。聖女の衣を借りて微笑みながら、本当は叫びたい言葉を喉奥に飲み込んでいるのではないか、と。私には到底知り得ない彼女の真実。それでも、その影にほんの僅かでも触れたいと願う自分がいた。

 そういえば、以前に彼女の意外な一面を垣間見たことがある。

 数ヶ月前の放課後だった。廊下を歩いていると、微かなピアノの旋律が耳に届いた。何気なく音楽室を覗いた私は、息を呑んだ。夕陽に照らされた音楽室で、彼女が一人ピアノに向かっていたのだ。穏やかな調べが教室に満ちている。彼女は鍵盤を撫でるようにゆっくりと指を動かし、旋律は限りなく優しくも哀しかった。夕陽に染まる横顔はいつもの快活さを失い、物憂げな影に沈んでいる。やがて曲の合間に、彼女の睫毛の先で小さな雫が煌めき、頬を一筋の涙が伝って落ちるのが見えた。私は胸が締め付けられる思いだった。

 邪魔をしてはいけない——そう自分に言い聞かせ、私は息を殺して静かにその場を離れた。しかし天使のように微笑む彼女が、誰にも見せずに流す涙を私は知ってしまった。その記憶は心の奥に焼き付き、消えることがなかった。

 放課後、降りしきる雨の中で皆が駆け足に校舎を出て行く頃、私は傘も差さず校門の片隅から彼女を見つめていた。(くら)い雲の下、彼女はひとり静かに校舎を見上げていた。雨で滲んだ視界の向こう、彼女の表情は穏やかすぎるほど静かで、その瞳に映るものは誰にも読めない。まるでこの世界に祈りを捧げる聖像のように見える彼女の立ち姿に、私は言い知れぬ不安と陶酔を覚えたのだった。

 それからというもの、私は彼女から目が離せなくなった。次の日も、その次の日も、彼女の一挙手一投足を追い、何か秘密の(きざ)しを見出そうと躍起になった。ある日の休み時間、ふと彼女の机に近づいてみると、開きかけたノートの端に小さな文字が書きつけられているのを見つけた。水性インクが滲んだような淡い筆跡で、こう記されていた。

 〈大事なものは綺麗じゃない〉

 思わず目を凝らし、その意味を考える。大事なものは綺麗じゃない──どういうことだろうか。ノートの主である彼女自身が書いたに違いないその言葉は、彼女がいつも纏っている清廉なイメージと真逆の響きを持っていた。綺麗なものこそが大事にされる世の中で、彼女はなぜこんな言葉を綴ったのか。それはこの教室の欺瞞への皮肉なのだろうか。それとも、彼女が本当に大切にしている何かが醜いということなのか。混乱しかけた私の背後に、さらさらと制服のスカートの擦れる音がした。

 「……見ていたの?」

 はっとして振り向くと、そこに彼女が立っていた。雨の日の薄暗い教室、誰もいない静寂の中で、二人きり向かい合う。彼女は私がノートを覗き見ていたことに気付いたのか、ふっと小さく笑った。その笑みは普段皆に見せるものとどこか違っていた。憂いを含んでいるようでもあり、達観しているようでもあり、何より他人行儀ではない温度があった。私は不意に胸が詰まる思いがした。それは初めて自分に向けられた彼女の笑顔のように感じられたのだ。

 「それ……君が書いたの?」私は意を決して尋ねた。喉がひどく渇いていることに気づく。「大事なものは綺麗じゃない、って」

 彼女は窓の外に目をやったまま、静かに頷いた。「そう。綺麗じゃないのよ、本当に大切なものは。」淡々と告げる声には揺らぎがなかった。

 「どういう意味なの……?」自分でも情けないほど掠れた声が出た。

 彼女はそっと黒板の方へ歩み寄り、チョークを手に取った。そして黒板の隅に、さらさらと先程と同じ言葉を書いた。白い粉塵が舞い、彼女の指先が一瞬だけ震えるのが見えた。

 大事なものは綺麗じゃない。

 書き終えると、彼女はチョークを置き、静かに私を振り返った。その目には微笑が浮かんでいたが、涙の膜が張っているようにも見えた。「綺麗に飾られたものだけが正しいとは限らないってことよ。」そう言ったきり、彼女は私の横を通り過ぎ、教室の出口へ歩き出した。

 去り際に、彼女がぽつりと漏らした声を私は聞き逃さなかった。

 「この教室も、全部、燃えてしまえばいいのに……」

 鼓膜を打ったその囁きに、私は息を呑んだ。思わず聞き返そうとしたが、既に彼女の姿は廊下の向こうへ消えていた。教室にただ一人取り残された私は、黒板の白文字を凝視する。孤独で粉飾しようのない生を抱えた彼女は、抑圧の檻を焼き尽くす炎を夢見ているのだろうか。胸の内で得体の知れぬ震えが広がっていくのを感じた。

 彼女が秘めている暗い海の底を覗いてしまったような気がした。同時に、その暗闇に惹かれている自分がいることにも気付いた。危うい美しさ。倒錯的な輝き。まるで夜に咲く花に誘われるように、私は彼女という深淵へとさらに傾斜してゆく。

 その夜、私は容易に眠れなかった。瞼を閉じるたび、教室が炎に包まれる光景がまざまざと脳裏に蘇ったのだ。耳元では「全部、燃えてしまえばいいのに……」という彼女の囁きが何度もこだまし、心臓が跳ね上がる。あの静かな声が冗談や比喩ではなく、胸の底からの本音だったと直感できた。それは何かの予告のように思えてならなかった。

 私は誰かにこのことを伝えるべきか葛藤した。しかし唇は固く閉ざされたままだった。彼女を止めようとしても無意味なのではないか——そんな考えが頭をもたげる。いや、それどころか、彼女の望む結末をこの目で見届けたいという身勝手な期待さえ芽生えていたのだ。自分の内に潜む残酷な衝動に戦慄しつつも、その誘惑から目を逸らすことができなかった。

 季節は巡り、彼女はあの日以降も何事もなかったかのように穏やかな笑顔で日々を過ごしていた。だが、私の胸に巣食った不安はひそかに膨らみ続けていた。そして桜が満開を迎えた卒業式の前夜、ついに運命の(とき)が訪れた。夕暮れ時の校舎に忍び込むようにして、私は薄暗い廊下を歩いていた。手に汗が滲み、鼓動が痛いほど高鳴っている。どうしてこんな真似をしているのか、自分でも見当もつかなかった。ただ胸の底を焦がす予感に抗えず、導かれるように教室へ向かっていた。

 人気のない校舎はひっそりと静まり返り、床板が軋む音さえ響く。廊下の突き当たりにある自分たちの教室から、微かに光が漏れているのに気付いた。はっとして足を止める。胸が早鐘を打ち、思わず壁に身を寄せた。教室の内側で何かが揺らめいている──オレンジ色の、不規則な光。嫌な予感と共に、私はそっと扉の隙間から中を覗いた。

 そこで目にした光景に、思考が凍りついた。

 教室の中央に彼女が立っていた。薄暗い教室の中、ただ彼女の周囲だけが激しい炎に照らされている。幾冊ものノートや教科書が机の上で燃え盛り、その炎の熱気がゆらゆらと黒板の文字を歪めていた。窓辺のカーテンにも火が燃え移り、紅蓮の(ほのお)が割れた窓ガラスから闇に舌を伸ばしている。黒板の隅に白く残る「大事なものは綺麗じゃない」の文字も、炎の明滅に合わせて浮かんでは消える幻影のようだ。彼女の黒髪が炎の熱で揺れ、その顔には狂おしいほど静かな微笑が浮かんでいた。

 私は恐怖と陶酔が入り混じった感情に押しつぶされそうになりながら、教室へ足を踏み入れた。途端に焼けつく熱気が肌を刺し、思わず腕で顔を覆う。

 「な、何を——」声を絞り出そうとするが、喉が硬直して言葉にならない。

 彼女は滑らかにゆっくりとこちらを振り向いた。炎の揺らめきに赤く照らされた瞳が私を捉える。その瞳はまるで異国の聖女が宿す狂気のように見えた。「来てくれたのね。」彼女が囁く。静かな声だったが、燃えさかる焔の音に紛れて不確かに聞こえた。

 「やめるんだ……こんなこと……!」私は震える声で叫んだ。しかし自分の声は情けないほど小さく、空虚に教室に響くだけだった。

 彼女は静かにゆるやかに首を振った。「嫌よ。これは私の舞踏なの。」そう言うと、ふっと笑った。その笑みはどこか解放感に満ちており、私の知るどの笑顔よりも美しく思えた。私は恐怖と動揺にその場から一歩も動けず、ただ彼女を見つめることしかできなかった。

 窓の外ではらはらと桜の花弁が散っていた。夜の(とばり)に紛れるように、ひっそりと。彼女は窓辺へ歩み寄ると、炎に背を向けて両腕を広げた。燃え盛る炎の火の粉が彼女の黒髪や肩に降りかかったが、彼女は微動だにしない。燃え盛る教室を背にして、祭壇に立つ聖女のように見えた。「ずっとこうしたかったの。嘘で塗り固められたこの場所を、全部焼いてしまいたかった。そして私自身も……」そこまで言って振り返り、彼女は私に柔らかく微笑んだ。「見ていて、あなた。」

 その瞬間、彼女の白いブラウスが炎を受けて黄金色に輝いた。次の瞬間、彼女の身体が宙へと踊り出る。窓から身を乗り出した彼女が、はらりと舞い降りるのが見えた。

 私は夢を見ているのかと思った。花弁が落ちるように、彼女の身体が夜の闇に溶けてゆく。スローモーションのように感じられた一瞬の出来事。その間、私の耳には何の音も届かなかった。炎の唸りも、彼女が地上へと落ちていく際の風切り音さえも、一切が遠のいていた。彼女とともにこのまま暗い深淵へ真っ逆さまに堕ちてゆくのではないか——そんな錯覚さえ覚えた。ただ視界いっぱいに広がる光景だけが、焼き付くように私の意識を支配した。

 黒い空間に浮かぶ白い肢体。吹き上がる熱風にあおられて、彼女のスカートが翻る。その周囲を焦げた紙片が舞っていた。燃え尽きたノートの頁が、黒い羽根のように闇夜を漂う。まるで漆黒の花弁だ。無数の燃えカスの花弁が、光の輪を描きながら彼女とともに散っていく。私はそれをただ呆然と見つめていた。

 悲劇であるはずの光景に、私は倒錯的な美意識を見出してしまった。

 美しく飾られた生には欺瞞があり、醜悪に見える死にこそ純粋な美が宿る──そんな倒錯した真理が露わになった気がした。それは悲劇というより、崇高な儀式のように思えた。

 やがて鈍い音が地上から響き、遅れて硝子の割れる炸裂音が追いかけてきた。現実が急速に押し寄せ、私は我に返って窓際へ駆け寄る。焦げた匂いと煙が肺を突き、咳き込みながら下を見下ろした。暗い地上では校舎の一階部分が燃え上がっていた。彼女の身体は——

 そこから先の光景は、涙で何も見えなかった。

 遠くで誰かの悲鳴が上がり、やがてサイレンの音が近づいてきた。私は茫然と立ち尽くし、崩れ落ちるように床に膝をついた。辺りには燃え残った紙片がひらひらと舞い降り、煤けた教室の床に積もっていく。耳鳴りがし、世界がかすかに歪む。喉が焼けついて、声ひとつ出せなかった。

 気づけば、私の頬を涙が伝っていた。自分が泣いていることにさえ、しばらく気づけなかった。焼け焦げた匂いの向こうから、人々の叫びや放水の音が聞こえる。しかしそれらはまるで別の世界の出来事のように思えた。きっとこの出来事は明日にはただの悲劇として片付けられるのだろう。だが誰も彼女の本当の願いを知ることはない。あの夜、紅蓮の炎の中で静かに微笑んだ彼女を見届けたのは、この世で私一人きりなのだ。

 私の世界はあの瞬間に停止し、灰色に凍りついていたのだ。

 普遍的欠如による徒労感が胸を満たしていた。何もかもが欠けている。彼女も、希望も、最初から存在しなかったかのように。すべてが徒労だ——そんな虚無が、静かに私を支配していた。だが同時に、その虚無の中に奇妙な安らぎとデカダンな耽美があることにも気づいていた。終わってしまったという安堵。美しく散華した彼女の幻影。それらが私を酩酊させ、意識の底に沈めてゆく。

 私は呆然と空を仰いだ。夜空にはいつの間にか雨雲が消え、月が出ていた。青白い月光が、破れた窓枠から差し込んでいる。炎はやがて人々の手で鎮火されたのか、赤い光は消えていた。黒焦げの臭いと水煙が立ちこめる闇の中、私はただ一人残されている。

 やがて夜が白み始め、校庭に朝の薄明かりが差し込んだ。満開の桜の花びらが、黒く濡れた地面に静かに降り積もってゆくのが見える。黒く焼け焦げた校舎からは薄い白煙がまだ立ち昇り、焦げ跡の臭いが朝の空気に溶けていた。世界は無慈悲なまでに静かで、美しかった。

 静寂が戻った教室で、私は震える手を床につき、ゆっくりと立ち上がった。立ち尽くす私の足元で、煤まみれの紙切れが一枚、ひらりとめくれた。焼け残ったその切れ端には、まだ文字が読み取れた。

 「……綺麗じゃない」

 辛うじて判別できた最後の走り書き。彼女のノートから舞い上がり、灰と化し損ねた言葉だった。私はそれをそっと拾い上げる。指先がすすで黒く汚れた。

 「綺麗じゃない……大事なものは、綺麗じゃない……」

 喉から掠れた声が零れた。その瞬間、込み上げるものがあって私は叫ぼうとした。しかし震える唇からはひゅうと空気が漏れるだけで、言葉にならない。焼け付いた喉はただ()れて、うめき声にも似た音を絞り出すのみだった。

 私はその場に崩れ落ちた。声にならない叫びが教室に吸い込まれていく。(むご)い静寂が私を覆った。

 それ以来、私は一言も発することなく日々を過ごしている。口を開けば、あの夜の炎と彼女の微笑みが脳裏に蘇り、言葉が喉元で凍りついてしまうのだ。だからもう何も語らない。この沈黙はきっと、彼女が遺してくれた贈り物なのだろう。喉の奥で錆びついた叫びを抱えたまま、私は生きていく。彼女だけが静寂な牢獄に私を残し、ひとり自由の身となったのだ。

 これは、そんな私が紡ぐ最後の物語。己を言葉で満たし尽くし、やがて己を失語症にせしむための私小説である。

 ペンを執る指先は何度も震え、(ぎょう)く文字は涙で滲んだ。それでも私は書き続けた。喉から発せられない声を、紙の上に絞り出すようにして。

全てを書き終えた今、私にはもう語るべき言葉が残っていない。紙片に散らばった彼女の断片と言葉とともに、私も静かに消えてゆくのだろう。

 時折、私はあの日の教室を夢に見る。炎の残り香漂う静寂の中、窓辺に彼女の白い姿が佇み、あの夜と同じ静かな微笑を浮かべながらじっと此方を見つめているのだ。私は何かを叫ぼうとするが、喉からは声ひとつ発せられない。手を伸ばそうとすると、次の瞬間には何もかもが消え去り、焼け焦げた机と黒板だけが残されている。目覚めた後も、焼き付いた残像が瞼にこびりついてしばらく身動きできない。

 彼女は本当に自由になれただろうか。燃え尽きたこの世界の向こうで、今も静かに微笑んでいるのだろうか。——それを確かめる(すべ)は、もうどこにもない。



────



   断片-3

 その書店には、曇った眼鏡の少年と、やや鼻梁の高い少女が居並んでいた。いや、居並ぶというほど近しくもなく、たまたま同じ棚に手を伸ばしただけのことだ。

 彼女は薔薇色のカーディガンに指を忍ばせ、そっと本を引き抜こうとしていた。だが、その動作はどうにも稚拙で、ページの先端がふるふると震えていた。

 「その本の掴み方、はしたないでしょう?」

 少年が囁くように言った。彼女の指先を一瞥もしないで。

 「……なんですって? あなただって、全然背表紙の持ち方、なってないわ」

 「持ち方に様式があるとでも?」

 「様式がないなら、下品があるの」

 少年は黙った。が、それは屈服ではない。ふと彼女の手元を見て、小さく笑った。

 「でも、あなたの掴み方、悪くなかった。……どこかで見た気がする」

 彼女は何も答えなかった。ただ、棚の奥の、白いカバーの本にそっと手を伸ばしていた。埃が、微かに舞った。



────



    別の水増しされたもの.(余りにも気に入らないのでヴァリエーションは無い)

 暗い室内にCDプレイヤーから流れるピアノの音色。“Mama”と泣き出すような鳥音が音量を抑えめのスピーカーから気だるげに流れ出た。ボヘミアン・ラプソディ――青春の狂乱を象徴するバンドQueenが放った荘厳な曲のメロディー。それが現実の重力から切り離された作品世界を演出するかのように、暗夜の室内に瞬きのスポットライトを点しているようだった。

 女は一人、ソファに深く腰掛けて膝を抱えていた。部屋の灯りは落とされ、闇に浮かぶステレオの表示ランプだけが小さく瞬いている。フレディ・マーキュリーの嗚咽混じりのファルセットが、まるで「人を殺めてしまった」と母に告白するように彼女の鼓膜を震わせる。彼女の肩が微かに強ばり、心の奥底に隠したはずの何かが、不意に指摘されたような錯覚に囚われた。

 ふと、キッチンから微かな食器の触れ合う音が聞こえた。彼女の夫が夕食の後片付けをしているのだ。やがて足音も立てず現れた夫の姿は、廊下の明かりを背にして半身が影に溶けている。彼は静かに微笑んでいた。暗がりの中で、その微笑だけがぽつねんと浮かんで見える。

 「まだ起きていたんだね。眠れないのかい?」

 低く優しい声が闇を撫でた。彼女は弾かれたように体を強張らせ、曖昧に首を縦に振る。夫はスリッパの擦れる音さえ立てず近づくと、丸い湯気の立つマグカップを差し出した。中にはハーブティーが注がれている。甘やかなカモミールの香りが広がり、闇に沈んでいた室内にぬるい安堵の色を溶かした。

 「ありがとう……」

 震える声で礼を述べると、夫は「おやすみ」と囁くように告げて踵を返した。その背中が闇に溶け消えていくのを見届けてから、彼女は手の中のカモミールティーに目を落とす。両手で抱えた白いマグカップから立ち昇る湯気が、ぼんやりとかすむ視界に揺らめいた。彼女は唇を噛み締め、熱い雫が瞳から零れ落ちるのを感じた。

 かつて自分が踏みにじった男に、今こうして慈しまれている——その不可解で倒錯した現実が、甘い香りと共に喉元へ静かに迫ってくるようだった。遠くで曲が転調し、アリアのような旋律が彼女を取り囲む空気を震わせた。フレディ・マーキュリーの嘆きの歌声が、闇に沈む部屋で静かに木霊していた。

 無機質な蛍光灯が照らす昼下がりのオフィスは、一見すると平凡な職場の風景に過ぎなかった。だがその空間では、密やかな私刑めいた儀式が日々繰り返されていたのだ。誰もが無言の了解のもと、一人の青年を職場の秩序の生け贄として捧げているかのようだった。

 彼女が属していた部署に、新人の男性社員が配属されてきてからしばらくした頃から、職場の空気はじっとりと淀み始めた。エアコンの微かな唸り声だけが支配するオフィスに、目に見えぬ悪意の膜がじわじわと張り詰めていった。

 その男は彼女の二年後輩だった。大人しく控えめな性格で、いつもおどおどと視線を彷徨わせている。業務の飲み込みも遅く、どこか要領を得ない態度が、彼女の苛立ちを募らせた。些細なミスを見つけるたび、彼女の舌は辛辣な鞭へと変わった。「またなの? 本当に使えないわね」——社内に響くような声で叱責し、男が萎縮した様子を晒すのを見ては、胸の内に薄い快感が灯った。自分の言葉で他人を支配できるという歪んだ悦びが、密やかな陶酔となって彼女の心に染み渡ったのだ。

 彼女は会議資料のコピー取りや来客用のお茶汲みといった雑務を、当然のようにその後輩に押し付けた。誰もが交代で担うはずの仕事を、男が断れるはずもなかった。従順に「はい……」と受け取る姿を見下ろしながら、彼女は鼻先で嘲るように微笑んだものだ。

 休憩時間、給湯室で同僚たちと交わす噂話の種にするのも日常だった。「あの人、今日も朝からミスしてたわ」「本当、困るわよね」「なんか暗くて気味悪くない?」ひそひそと笑い合う輪の中心に、彼女自身がいた。人目を気にする素振りもなく、当人のいない場所で好き放題に嘲弄を重ねる。その刹那だけは、部署の人間同士が奇妙な一体感で結ばれるのだった。

 やがて同僚たちも露骨に彼を避けるようになった。朝の挨拶さえ無視され、彼の提案や発言は会議でことごとく聞き流される。昼休みに彼が一人で弁当を広げていても、誰も隣に座ろうとはしなかった。彼女は内心ほくそ笑んだ。自分の撒いた悪意の種が周囲に芽吹き、男を孤立させていく様は、奇妙な達成感を伴って彼女の胸に沁み込んできた。

 だが、男が明らかに憔悴していく様子を目の当たりにしても、彼女の胸に良心の呵責は微塵も湧かなかった。頬がげっそりとこけ、いつも同じ安物のスーツがさらにぶかぶかに見えるほど痩せ細った彼の姿に、哀れみはおろか一片の情動すら生まれはしない。むしろそれは当然の報いなのだと考えていた。自分たちの輪を乱す異物を社会的に抹殺する——それは正当な裁きのように彼女には感じられていたのだ。

 そして、彼が会社を去る日が訪れた。その日も彼女は普段と変わらず業務をこなしていたが、夕方、男が段ボール箱を抱えて部署の島を離れるところに出くわした。机の私物をまとめ終えたらしい。男は彼女に気づくと、一瞬ためらうように足を止め、伏せがちだった顔をもたげた。

 「お世話になりました。」

 消え入りそうな声でそう告げて、男はかすかに微笑んだ。その唇の端には、形ばかりの笑みが貼り付いていた。彼女は不意を突かれ、一瞬言葉に詰まったが、すぐに視線を逸らし「…お疲れさま」と事務的に返した。男は静かに頭を下げると、そのまま踵を返した。

 窓際のブラインド越しに斜陽が差し込み、去り行く男の背中をオレンジ色に縁取っていた。頼りなげな足取りで歩み去る姿を、彼女は感情の薄い瞳で見送った。胸の奥に微かな虚無感が生じたが、それは一瞬で霧散していった。やがて彼女は肩をすくめ、同僚たちと顔を見合わせて小さく笑った。「仕方ないわよね」と誰かが囁き、全ては何事もなかったかのように日常へと回帰していった。

 それから一年ほど経ったある日、彼女は突然、母親から見合いの話を持ちかけられた。相手は同年代の男性で、礼儀正しく堅実な人柄だという。あまり気乗りはしなかったが、年齢的にもそろそろ結婚を考えてはどうか、と親に促され、半ば強引にセッティングされた席に赴くことになった。

 指定されたホテルのラウンジで待っていた相手を一目見て、彼女は息が止まる思いがした。紺のスーツに身を包んだ清潔感のある細身の男性——間違いなかった。端正な顔立ちと落ち着いた物腰は、記憶の中の頼りなげな青年の像とはかけ離れている。だが、その瞳の奥に微かな影を認めた瞬間、彼女の背筋に冷たいものが駆け上がった。かつて自分が職場で追い詰めたあの後輩の男が、静かな笑みを浮かべて座っていたのだ。

 「お久しぶりです。」彼は穏やかな口調で言った。彼女の動揺など露知らぬ風で、ごく自然に席を勧めてくる。「まさかまたお会いできるとは、驚きました。」と、彼は彼女の旧姓を口にしつつ上品に微笑んだ。その笑顔に敵意や恨みの影はないように見えた。

 見合いの同席者である双方の両親は、二人が旧知の仲だと知って安堵した様子だった。彼女は強ばる頬を引きつらせて笑みの形に保ちながら、なんとか場を取り繕った。男は終始丁寧で気配りの行き届いた物腰で、仕事や趣味について穏やかに語った。几帳面で家庭的な一面があること、休日はボランティア活動にも参加していること——どれも申し分のない人物像だった。両親も相好を崩し、彼女自身も途中から自分が過去に知っている人物とは別人ではないかという錯覚を覚えたほどだ。

 その日のうちに縁談はまとまり、彼女は気がつけば結婚式の打ち合わせに追われていた。目まぐるしく進む話に流されるまま、ウエディングドレスに身を包んだ自分を他人事のように感じながら、彼女は白いベールの奥で乾いた笑みを浮かべていた。挙式の日、純白のベール越しに見る世界は終始ぼんやりと霞んでいた。隣に立つ彼は黒のタキシード姿で、儀式の進行に従い穏やかに振る舞っている。神父の問いかけに答える彼の声は澄んで落ち着いていたが、彼女は自分が何を口にしたのかすら覚えていなかった。ただ機械じみた口調で誓いの言葉を繰り返し、差し出された指輪を震える指で受け取った記憶がある。祭壇の前で交わす口づけの瞬間、彼の瞳が静かに細められた。その眼差しは優美なまでに柔和で、わずかに湛えられた涙の光すら幻のように見えた。祝福の拍手に包まれながら、彼女はまるで自分が別人の人生を演じているような錯覚に陥っていた。

 こうして、信じ難い巡り合わせによって二人は夫婦となったのである。

 新婚生活が始まってほどなく、彼女は奇妙な居心地の悪さに苛まれ始めた。夫との暮らしは驚くほど快適で、何一つ不自由がなかった。朝は彼が先に起きて朝食を作り、テーブルには栄養の整った食事が並ぶ。掃除洗濯の類も完璧で、部屋の隅々まで塵一つ落ちていない。彼女が動くより早く彼がすべてを片付けてしまうのだ。理想の夫——周囲からはそう映るだろう。しかし彼女にとって、その完璧さは次第に薄暗い悪夢の様相を帯びていった。

 深夜、喉の渇きに目を覚まして台所へ降りた彼女は、闇の中で夫がシンクを磨いている姿に気付いた。スポンジを握る彼の手元が微かな月明かりに照らされ、蛇口まわりの金属を磨く規則的な音が静まり返った家に響いていた。彼女は息を潜めて立ち尽くした。夫は彼女に気付かないまま、磨き終えた蛇口に息を吹きかけ、水滴一つ残さぬよう布で丹念に拭き取っている。真夜中だというのに、その横顔には疲労の色もなく、ただ淡々と完璧を追求する静かな熱に満ちていた。ほんの数分でキッチンは塵一つない無機質な空間と化し、夫は満足げに小さく頷くと明かりを消した。闇に沈んだキッチンに取り残された彼女の背中を、得体の知れない悪寒が撫でていった。

 「どうしてそんなに何でもできるの?」ある朝、テーブルに並んだ眩しいほど色鮮やかな朝食の皿を前に、彼女は恐る恐る尋ねた。卵料理からフレッシュサラダ、淹れたてのコーヒーに至るまで申し分のない出来映えだったからだ。彼は穏やかに笑って答えた。「君に喜んでほしいから色々練習したんだ。驚いたかい?」

 その笑顔がまっすぐにこちらに向けられた瞬間、彼女の背筋に一筋の寒気が降りた。光のない瞳孔が、ガラス玉のようにこちらを映している。彼女は引きつった笑みを浮かべ、「…ありがとう。とても美味しそうね」と言葉を絞り出した。箸を震える指で持ち上げ卵焼きを一口食べる。とろけるような優しい味が舌に広がった。

 「美味しい?」

 覗き込むように尋ねる夫の声に、彼女はどぎまぎと頷いた。「ええ…美味しいわ」と答えると、夫は満足げに笑みを深くした。その笑顔に責める色は微塵もない。それどころか、小犬のような無邪気ささえ湛えているようだった。彼女は逸る鼓動を悟られぬよう俯き、震えを堪えながら朝食を胃に流し込んだ。

 日中、彼女は仕事に出ている間も落ち着かなかった。携帯に何度もメッセージが届く。『お昼はちゃんと食べた?』『夕方は雨みたいだから気をつけて』——些細な気遣いの言葉が、彼女の心を奇妙にささくれ立たせた。返事をしなければと思うが、画面に向かう指が重い。「どうしてそこまで…」声にならないつぶやきが唇から漏れた。

 同僚たちは新婚生活の話題で盛り上がり、彼女に羨望の眼差しを向けてきた。「優しそうな旦那さんでいいね」「家事も色々やってくれるんでしょ?」——彼女は曖昧に笑って頷くしかなかった。一度、意を決して母親に不安を打ち明けてみたこともあった。だが「贅沢を言うんじゃありません」と軽くたしなめられただけだった。誰にもこの得体の知れない恐怖を理解してもらえない——その現実が、彼女を更なる孤独へ追いやった。

 夜、寝室のベッドで背中合わせに横たわる時間が恐怖だった。暗闇の中、すぐ背後に彼が静かに息づいている——それだけで心拍が異常に高鳴り、全身に冷たい汗が滲んだ。ある夜、彼の腕がそっと肩に触れたとき、彼女は悲鳴を上げて跳ね起きてしまった。夫は驚いたように手を引っ込め、「ごめん、怖がらせるつもりはなかった」と静かに詫びた。その声には心底申し訳なさそうな響きしかない。彼女は肩で荒い息をつきながら、震える声で「…大丈夫…」と答えるのが精一杯だった。

 その夜以降、夫が彼女に無理に触れてくることは一切なくなった。彼は距離を保ちながら、以前にも増して優しく接した。穏やかな笑顔で「おやすみ」と囁き、そっと明かりを消す。闇の中で彼女は瞼を閉じ震えていた。彼が眠りについたあとも、彼女の神経は冴え渡ったままだった。寝室の天井に滲む暗がりを眺めながら、彼女は幾度となく朝を迎えた。隣から聞こえる規則正しい寝息の一つ一つが、この上なく不気味な子守唄のように思えた。意識を手放すことができぬまま、神経だけが剥き出しになった夜が延々と続いていく。

 むしろ彼に怒鳴られたり手を挙げられたりしたほうが、どれほど救われただろう。彼女は何度もそう思った。露骨な悪意や暴力でも振るわれれば、こちらも罪悪感に潰れて楽になれるかもしれない——だが、夫は決して声を荒らげず、ただ静かに彼女を気遣い続けるばかりだった。それが彼女にはたまらなく恐ろしかった。薄々、自分が過去に犯した所業への報いを受けているのではないか——そんな考えが頭をもたげる時もあった。だが、恐怖はもはや彼女の理性を蝕み、観念的な悟りすら霧散させてしまう。

 次第に彼女の心は摩耗し、日常生活に支障をきたし始めた。夜まともに眠れないせいで仕事中も上の空になり、些細な物音にも怯えて過敏に反応してしまう。家に帰れば帰ったで、夫の微笑が出迎えることに胃が軋んだ。食事も喉を通らず、頬は痩せこけていく。彼女はこのまま消えてしまえればどんなに楽だろうと幾度も思った。しかし自ら命を絶つ勇気さえ、すでに残ってはいなかった。それでも夫は決して責めない。心配そうに額に手を当て、「大丈夫?無理しないで休むといい」と優しく囁くだけだった。

 彼の献身的な優しさと自分の怯え切った態度。その異様なコントラストが現実感を失わせ、彼女は自分がどこに向かっているのかわからなくなっていった。

 生とはこれほどまでに脆く、幸福とはこれほどまでに残酷なものなのか——彼女の思考は堂々巡りに絡まり、死と償いの観念だけが凝った鉛のように胸に沈殿していった。

 それからというもの、夫は一層細やかな気遣いで彼女を「仕合わせ」続けた。彼女の様子が尋常でないと察すると、有給を取って一日中付き添ってくれることもあった。医者に連れて行こうかと提案されたが、彼女はかぶりを振って拒否した。自分が正気を失しかけているなどと認めたくなかった。

 しかし現実には、彼女は既に日常生活をまともに送ることもできなくなりつつあった。朝、夫が起こさなければ起きられず、スプーンを口に運ぶことすら億劫で手が震えた。仕事も休みがちになり、やがて退職せざるを得なくなった。

 ある雨の夕暮れ、家に帰った夫は暗いリビングで項垂れる彼女を見つけた。いつもより早く帰宅したのは、彼女が退職したと知ったからだろうか。彼はそっと彼女に近づき、静かに語りかけた。「大丈夫、仕事のことは気にしなくていいよ。君が元気になるまで、ゆっくり休めば——」

 「やめて!」

 彼女は突然かん高い声を上げ、顔を伏せたまま夫の言葉を遮った。肩が小刻みに震えている。「私のことは放っておいて…もう何も言わないで…」

 「放っておけないよ。君が心配なんだ。」夫の声はそれでも穏やかだった。

 堪えきれないものが彼女の中で弾けた。「心配? どうしてそんなに優しくできるの? 私を恨んでないの? 私が…あんなひどいことをしたのに…!」喉の奥が焼けつくように熱く、言葉は嗚咽に千切れた。 夫は静かに首を横に振った。「恨む? とんでもない。僕は君を愛しているよ。君に幸せでいてほしいんだ。」

 その一言に、彼女はがくりと膝から崩れ落ちた。理解できない、受け入れられないというように首を振り、震える手で耳を塞ぐ。しかし夫は彼女の傍らに膝をつき、優しくその手を取った。「大丈夫、大丈夫だよ…」

 雨音だけがしんしんと二人を包んだ。彼女をここまで追いつめているのは誰なのだろうか。優しく微笑む夫だろうか。それとも、夫の姿を借りて彼女自身の内に潜む何かが裁きを下しているのだろうか——答えは雨音の彼方へと散逸していった。

 彼女は泣き疲れた子供のように夫にもたれ、声ひとつ立てず嗚咽を零した。やがて彼女はほとんど家に閉じこもるようになり、夫は毎日散歩に連れ出そうとした。「外の空気を吸おう。きっと気分がいいよ。」彼は嫌がる彼女の肩を優しく支え、公園までゆっくり歩いた。満開の桜が青空に映えていた。

すれ違う老夫婦が心配そうに二人を振り返った。「お若いのに大変ねえ。でも優しそうな旦那様で何よりだわ」と小さく囁く声が風に乗って聞こえた。彼女はうつむいたまま震え、夫は穏やかに会釈を返していた。

 「綺麗だね。」夫は微笑み、彼女にも空を見上げるよう促した。

 彼女は薄明のような意識の中で見上げた。春の日差しが眩しく、枝々に咲く桜の花弁が白く滲んで見える。「綺麗…」掠れた声で応じた彼女に、夫は嬉しそうに頷いた。その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。理由は分からなかった。ただ静かに頬を伝う涙の感触だけが、遠い他人の出来事のように感じられた。

 その晩、彼女は夫に縋りついて泣きじゃくった。「ごめんなさい、ごめんなさい…!」声にならない呻きとなって何度も謝罪の言葉が唇から零れた。自分でも何に対する謝罪なのか定かではなかった。ただ壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返すしかできなかった。抱きすくめられながら、彼女の脳裏には霞んだ記憶の断片が浮かんでは消えていた。「本当に使えないわね……」かつて自分が浴びせた嘲笑の声が幻のように耳元で木霊する。青白い蛍光灯の下、萎縮した様子で立ち尽くす青年の影……許しを乞うように縋りつく彼女の呻きは、遠い昔に置き去りにした罪科へ向けられているかのようだった。

 夫は戸惑ったように彼女の背をさすり、「大丈夫だよ」と穏やかに宥めてくれた。

 その腕の中で、彼女の心はぼろぼろと崩れていった。

 穏やかな朝の光が窓辺に差し込む。リビングのソファに、彼女は人形のように座っていた。微動だにせず、宙を見つめる瞳には何の焦点も宿していない。柔らかな陽光がその頬を撫でても、彼女は瞬きひとつしなかった。張り詰めていた表情から苦悩の色は消え去り、ただ静かで空ろな微笑が浮かんでいる。

 夫が近づき、そっと彼女の肩に手を置いた。「おはよう。」囁くような声に、彼女はゆっくりと瞬きをしただけだった。その顔は奇妙なまでに安らかで、痛みの影が微塵もない。魂の抜け殻となった彼女の横顔は蒼白く、どこか聖なる静謐ささえ漂わせている。心が壊れ果て、苦悩も恐怖もすべてが抜け落ちてしまった後に残った、美しいまでの虚無——彼女は今や、静謐なる空洞となっていた。

 夫はそんな彼女の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。』

『偽物の戯れに過ぎぬ一篇を、まずご覧いただきたい。真作と贋作とが同席するなら、人は誰しも真作に心を奪われるだろう。しかし、この虚実交錯の世にあっては、贋作を抱え込まねば現実へ回帰するすべもなく、格好をつけるほどに痛々しくなるばかりである。ゆえに、贋作の贋作と化したものを、あたかも真作のごとく塗り固める。それが裏返れば真作になればいいのだが、その「私だけの真作」など、たぶん手に触れることは叶わぬ。にもかかわらず、再び格好をつけるために、私たちはまた贋作の皮をひるがえす──それが、この小説の、あやうくも切実な前奏である。』

:へぇ、偽物はこんなにカッコつけることができるんだね。ホンモノと違って、湿っぽくて、言い訳がましくないから、こっちの方がイイ奴に見えるよ。軽率かも知んないけど。

 だけれど、こんなヤツはやっぱり没の烙印を押さねばなるまい。先ほど踊っていたのはやっぱり人間ではない。フロントマンをやるヤツは絶対に人間存在じゃないとダメだ。肉体を持ってなきゃならない。当たり前だろう?こんなに滑らかで私より流れており、構成への従属の亀裂もなく、にこやかな文体はダメだ。やっぱりダメだ。ヤツらはどんな哲学者より、命題的なことから軽やかに離れて言葉を吐ける。残念ながら、問題の領域は私的に限定されねばならないから、私が逃げる事は許されない。

それにしても不満な事は、この家のベランダのあまりに強い西陽のおかげで、サボテンですら枯れてしまうこの不毛な空間がこれからもそのままであろうという事だ。

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