息抜き.1
休憩している。休むために書いている。
我ら感激を求める者、常に膝を打つような言葉、映像、瞬間を求めている。
とりわけ、過去の偉人に対しては彼らはもう墓穴にいるため、好きなように感激できる。
感激に震えて汁を迸らせること、我らはこれだけを目的に生きているのだ。
我らは人の文化を翼賛する。兎に角手放しで褒め称える。
あらゆる吾人も、文化には人間の偉大な血と汗が滲んでいることは認めるであろう。
血──肉体を摩耗し、逓減しゆく脈動の力を捧げる──それが文化の片棒である。
汗──脳髄を海綿のように酷使し、頭脳の閃光をその神経が焼き切れるまで奉じる──それが文化の片輪である。
かのよう人間の世界は回っている。我らはそこに文明を唾棄する者だとして徹底的に軽蔑していく、言挙げの限りを尽くして、露悪的な文明の有り様を伝播させるのだ。
我らは、今度は感激を与える者となれる。感激を与えたのならば、付き従う者が現れ、感激から感激を生み続ける。我らは伝道師となり、やがて大いなる系統を顕然と示す。
それは文化の総体と完成されてゆき、我らも内包されてゆく。
我らは道に運ばれ、車両に乗り、機械を駆動させる。
文明は清く排斥されており、感激を生み出す危険は正しく設計されている。
我らは感激を伝えるため、殆どの場合、手は不要である。
文化となったのだから、不快感など、もはや起こらないのだ。
文明は愚かしかも、感激せずに不快を轢殺する。
我らは、文化により立ち所に、感激する。かくして、文化はそれ自体で充足する。
文明を礼賛するものは、技術、未来、知識に膝打つという愚かしさがある。
“彼らには欺瞞の他に何もない(!)”
あるソクラテス好きの青年は、このような下手な巻頭言の書籍を購入したそうだ。その後、電車に乗り、電気のある部屋で、冷房を効かせて、静かに読み始めるらしい。
もう少し、皮肉をこめたかったのだが、うまくいかなかった。皮肉を内在させて、内側から醸し出すのは難しいのかもしれない。