ハイトーン
また長々と書いている。これでは超短編とは言えないが、何も考えていない。
「奴は、やっぱり気合いが足りんな。根性がまるでないんだ」
「それに比べて、彼は素晴らしいね。天賦の才を活かしているね」
彼らの議論は、聞いていてどこかむず痒い。列挙される者は数多く、その難解な言い回しが澱みなくながれる様は、優雅である。 だが、その者たちの評価はいつも二つの典型に分けられる。華々しく扱われるか、こき下ろされるかの、何れかの途を辿るのだ。それだけではない。彼らの物知り顔で、描写される両方の道は、どちらも曖昧にすら見える。ただただ、尊大に誉めそやしているか、強い言葉で非難しているが、一つ一つ細やかに聴いてみると、何が何だか。彼らはそれをわかっているのだろうか。
仮に一つ意見をすると、彼らは尊大にかまえて、こちらをとるに足らない小人と嘲る。しかし、何か彼らの大伽藍が揺らいだような心持ちになるのか、その態度はひどく忙しない。
僕は、気にせぬようにと、彼らを意識の埒外に置くようにと努めて練習をしていた。しかし、知的で優美らしい彼らの会話は、音楽にながれた。
「しかし声楽において、裏返るというのは、情けないと思わないか?」
彼らは、その話題を極めて詰まった、誇張すればモーターのような声で、話すのだ。確かに、文化的な人種は犬が吠えるような声の出し方を決してしないだろう。しかし、こちらの耳にも届くように張って当て擦るのは、少なくとも彼らは容認できるらしい。
「ああ、裏返るのは、ダメだね。ファルセットなど、言語道断だよ」
「もちろん、僕らは文筆の徒であるから、所詮は素人であるが、その耳でもすぐにわかるね。情けなくて、響きがなくて、全く美しくない」
「…先ほどからの、耳に入るものも、情けないさまを呈しているね。往々にして、あのざまになるから、ファルセットはいけないね」
「普通、歌というのは、全身の響きがあり、地声でなければならないだろう。あれならば、全力で叫んでいく方が、美しい」
「全身の響きがないからね。それを欠いた声っていうのは、ひょろひょろして、間が抜けたものだよ。浮いている感じだ。絶対に溶け込めないし、悪目立ちしかしないね」
「軽く柔らかな声なんてものは、まやかしだね。あんな間抜けな声を出して、美しさを体得しようだなんて、まさしく愚の骨頂だ」
「…でも、どうする?もしあんなので硬質で響きのある鉄琴のような発声をしたら?」
「いやいや、無理だね。仮にそんな音が出たとしても、拡声器か何かを使って誤魔化しているか、二人羽織や影武者を使っているよ。あんな腑抜けた声なんだから、美しい高音など出ないでしょう」
「仮に高音が出たとしても、それは噪音の類のものだろうね。喉が貧弱すぎるんだろう」
「…そりゃあね、喉と声帯が歌の全てだろう。そう考えれば、あんな声を出しているなんて、自身の喉の貧弱さを堂々と晒しているようなものだね」
「それはお笑いだね」
「ああ、犬のような喘ぎ喘ぎの呼吸と、鼻声のような声やら、くぐもった醜い声やら、統一感のない練習ばかりしているんだから、世話ないね」哄笑は廊下まで届いたように聞こえた。
僕は表には出さずに、内面で憤慨していた。彼らは、ただ自分の思い通りにならなければ、不機嫌になり、思い通りになれば喜ぶだけだ。根っこのところでは、快と不快以外に判断条件などない。彼らは、判断条件が自分の外にあることを、絶対に認めていなかった。そして、そんな条件などは自分の観念が作った幻で、いくらでも作り変えられるとしている。それで、自分の判断条件と、そこに付けたどうにでもなる論理を、卑怯にも唯一無二として、外のものを嘲笑する。
自分の中にあるものを聖なるものと見做して、外にあるものは常に変化する軸のないものとする。そうすると、外に条件を出そうとする者は、みんな愚か者で小人で、不愉快なものになる。だから、それを笑い、切り捨ててる。もっと姑息な奴なら、別の論理で囲い込んでその認識だけしかできないとするかもしれない。どちらにせよ、自分の揺るぎなさを確かめる。
彼らが欲するのは、知的な会話ではない。自分が、多く快を得て、不快を徹底して正しさのもとに斥けること。そして、征服だ。
さらに卑怯なのは、それに自覚的で変な罪悪感すら感じてしまう者で、彼らは自分を卑下して、許そうとする。そして、一度許してしまえば、平気で独断の席に座って、万物を裁けるようになる。
───
僕は、夜が染み込みはじめた、アスファルトの暗がりを歩いていた。帰路につく間、彼らのことは瑣末事だと思いなおし、すでに忘れかけていた。無知な彼らの小言など、相手にするまでもない。
たしか、一度、裏返ることと張り上げることと、どちらが善いか、考えたことがある。僕は殆ど論を俟たずというか、直接して裏返るほうが幾分かまともであると掴んだ。
ただ僕の思案は、練習から頭だけでも逃げようとするためというより、彼らの嫌らしさと醜さを冷静に処理するためであった。
だが、そのように穏やかでいられたのは、ひとえに夕焼の鮮やかさがその気にさせたのであって、身を置く空間──教室はしんみりと影を増して、窓は一面、橙色の日に占められていた──あの場所にこそ、支配されていたのだが、いずれにせよ、そこで僕はあの結論に至った。
制限を設けても、破ってしまっては、なぜ分けたのかわからない。今後は、適当なものをこっちに投げようと思う。