鍵のかからない扉
早速、想定よりオーバーになってしまった。しかし向こうのものにするほどの文でもない。次は制限に従って書くつもり。
色つき磨りガラスは、陽の光をとおしている。床板はターコイズブルーの被膜を投げつけられたかのように見える。風媒花を愛せるものは、虫媒花も等しく愛でるだろうか。否そのようなことは決してない、有り得ないということは、否定されたのだ。ならば、まるっきり否定されて進化したもの、完全なる上位互換だけが肯定される。低次のものに敢然と賞賛を受けさせても無意味である。それは、唾棄すべき道具を、利器と言い張り使うことと変わりない。過去の利器といった語義矛盾は何一つ涵養しない。進展の極致は即ち、否定の彼岸であり、その一点に運動しつづける。カラカラに涸れた地から水を得るには、舌で舐め続けなければならないと、逡巡せずに信ずることが肝要だ。
鍵のかからない扉には、そのような光景と、晦渋な断片が転がっているだろう。そこには雑駁ゆえに整頓されており、空白ゆえに充足されていることが望まれているし、かのような感激を持つ者だけが、扉に認められ、部屋に招かれる。部屋の者たちは、訳もわからぬ言語で互いを舐るように睦言を繰り返し、その金言を幾度と反芻させる。
「犬馬の労をとる者は、果たして幸せだと思う?」先日は、このようなことを聞いた。隙間風で扉が開いてしまい、いろいろ漏れていたのだ。
彼らは、惰眠や快楽に耽ったあと、いたって平然とこの類の会話をはじめる。そして、曖昧な矢印を放つ言葉を、格調の香水をつけた話ぶりと文体で編んでゆく。その列車に終点はなく、飽きたら放り投げて生理の求めることを満たす。
彼らは何を見ているのだろう。また何が見えているのか。自分こそがもっとも深遠な真理をあなぐる存在と確信しながら一朝一夕で鞍替えするし、敬遠な態度は許さないとしながら訳なく倦厭する。しかも、彼らにはアドホックという脱出口がある。全部大きな円を描いてしまい、そこには寸分のひずみもないらしいのだ。
だが、どうして、彼らは鍵のかからぬ部屋で安易に曝け出すことができるのか。おそらく開かれている状態が、とても好きだからなのであろう。そこで異を唱えると、こちらの悪弊を矢継ぎ早に喝破してくるが、腑に落ちることは一度もありはしない。彼らがいつも寝そべっているからなのか、努めて理解する態度を持った瞬間、横になりたくなるのみだからだ。特に私は彼らの対話が耳に入ることはあれど、ほとんど寄り添うつもりも、彼らの言葉で変化するつもりもない。
が、やはり不思議に思うことはある。それは、ここまで開放しているのに、彼らは部屋からは出ないことだ。窓からさす陽の光には、一言も触れない。彼らは何を食べて生きているのか。それも話さない。扉の奥には様々な言葉がひしめいているが、唯一日記がない。
彼らにそのことを聞くと不要と答える。表象という表現で、現実を黙殺するのが、正しいらしいが、外から来た概念には仰々しいほど反応する。まるで言わなければ殺されてしまうのではないかと思うほどに。そうであるからなのか、部屋に書き出された語数は、夥しい。やはり、あの扉の向こうで暮らしている者たちは、不気味に思えてしまう。
一方、彼らはこちらを雌の蓑虫だと嘲笑しているだろう──気高き此方側とは異なり、常軌を逸し、世界は既倒だというのに、未だ朽木食う連中──酷く大きい目玉と醜い角のある、我々の謹厳さとは限りなく縁遠い、甚だ口の賤しい土人だ──そのような尊大、卑陋、等と耳が疲れるような堅苦しい非難を、ぶつけ続けるだろう。しかし、こちらの何が悪いのか、雲の形の変わるのを、あの静謐を極めていた窓辺で、ただただ眺めているだけなのだ。誹りを受けるいわれはないはずだ。自由が好きなら、誰が無関心なこと、ある程度がそれに傾くことにも何もいえまい。
想像と知ることはやっぱり違う、混ぜてしまうこともできるけど、知っているという狭いところでしか、安静して息が吸えない。私は偶々、この窓の前で空を見上げていると良いだけなんだ。