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鈍痛がしている時に書く。

 鏡に映る私を写真に撮った。あの時は気分も優れていて、顔色も良かった。あの何も知らなそうな顔をしている自分にならば、現在の私がいかに口汚く罵っても、罪はない。無論、音声の場合と文章の場合に分けられるだろうが。つまり、この二つの共通点は伝達性を持つことであるが、罵っている様はその字面と声色の時点で、好かれない。ただ、その伝わってしまう蓋然性の差異というのは、ちょうど無差別テロと地雷原程度のものである。また、この比喩は性質もあらわしてくれる。

 さて、私は気分が悪い。過去のいい気になっている自分の顔を見ても、何の慰めにもならない。今の青白い気色と見比べて、単に辟易して終わる。

 今日は胃痛である。残り物を処理するため、多めに摂ったのが仇となった。月並みだが、火傷を負った感覚である。それは単に表面がほんの少し損傷したに過ぎないのであるが、鈍痛は認識に対しても足枷になる。そして、色眼鏡は曇るし、コンタクトレンズがあろうが近視になってしまう。ものが見えないというのは、腹立たしいものである。また、自身の内奥を急かすようでもある。こういう時にものを考えると、大抵能率と成果が落ちる。推論の跳躍と前提の見落とし、さらには理解の短略が起こってしまう。しかし、この程度の弊害は本質的でないし、大したことではない。合理性の仮面を被り、明晰を気取ったとしても、理解の営みは、いつも終わらない塗り直し、水彩画を汚泥の色になるまで何度も塗り潰す、あるいはペンキを幾重にも重ね塗りすることを、これらの徒労感を、ほとんど拭えない。鋭い直観が訪れた時は、官能が歓喜するようであるが、ちょうど私が書こうと思っていた一文を今忘れてしまったように、自分の身体の無惨さが為に、興醒める。

 無惨さをほとんど自覚しない、あるいは生得の健康さゆえに無視できる人もいる。これは決して、脚のないストローマンではない。むしろ、幽霊と揶揄されるのは無惨なものたちである。偉大なる事柄、つまり、実際に力をもって何かを能動的に成し得させた者は、大半は幽霊など見なかった。彼らは都市伝説や幽霊存在を「非科学的」だとか「陰謀論的」だとかいって切り捨てるのではない。むしろ、「おっかない、おっかない」と一通り楽しんだ上で、心底信じていないのだ。黙して切り捨てるのだ。目くじらを立てている時、既にその人の認識は青白く、鏡に映る顔面は蒼白だ。病弱な腕は、限界をすぐに迎える。喚き立てる胃腸は、食欲に吠えているのではない、ただボイコットをしたいのだ。炎症を起こした時の器官は、自身の置かれた職場を恨んで、打ち壊し、投げ遣り、掃き捨てる。その根性は、苦痛に歪んだ面持ちのその人にも伝播する。むしろ、推論の向きが逆だったかもしれない。初めから、そう紐付けされてかのようだ。

 目が見えなくなってくると、予測に頼るしかない。先天的に見えないのならば、予測する経験の積み重ねが皆無だが、生まれてから視力が低下すると、貧相な経験が残る。そもそも経験がない場合は、五感の玄関口を広く開港してゆくのだろうが、失ったと思っている者、あるいは与えられて然るべきものを与えられなかったと感じた者は、経験の残滓を煮詰めて凝縮させる。我が人生にバラ色があり得るのならば、もしその可能性があるならば、灰色を理想にかなうまで、加熱するのだ。

 ただし、不幸を強調していっても、赤字額を自慢しても、そこにすら虚しさのにおいが侵入してくる。所詮、不幸といえども、脊椎麻痺ならそれだけ、片腕欠損ならそれだけ、胃潰瘍ならそれだけ、クーロン病ならそれだけ、糖尿病ならそれだけ、と、動く病痾の博物館にならない限り、終わらないのだ。様々な合併症が起こったとしても、高々病気の大富豪にしかならないのだ。これが意味する悲哀はこうだ。つまり、長雨のような鈍痛と、俄かに襲う激痛は、訳のわからぬ理屈でもない何かで無為に仕組まれていると伝えられることだ。

 そうして、不自由を多少なりとも、携えると、にっちもさっちもいかなくなる。不幸のでっち上げは、終わらない。だけれど、それをするほかなくなる。その人のしているでっち上げを丸っ切り裏返したのが、日々動いている社会である。少なくとも、そう見えずにはいられない。既に、科学の営みは、病により忘れ去られてしまった。何か、素朴で原始的な、静謐か、裏返しの釜茹での熱狂しか、のぞみたくもないのだろう。

 見えてしまう経験は、恐ろしい。醜いのだ。それは、酸っぱくて吐き気を催す作動音なのだ。この粟立つような形容詞を付与して、言い訳しておかないわけにはいかない。今より、痛みが鋭く、頻繁に現れたらと思うと、ゾッとする。そうなっていたならば、私はおそらく、意味が取れて、一貫したものを軽蔑しただろう。また、人生の物語に、他人を寸分たりとも登場させないだろう。ただ、自身が承認した周辺の装飾品だけが、迎え入れられる。有効、実用、便利、効率、目的、これらの言葉を生理的に毛嫌いし、口にするのも憚るだろう。自分の臭い以外受け入れず、自分が悪臭を放った時は、アスファルトや雨や他人のせいであると断定するのを厭わないだろう。目にする風景、鑑賞にたえる絵画、嗅ぐべき芳香、耳にするべき発話、聴ける音楽、傾聴に値する展望、信奉するべき認識……そうしていくと、洗練された自分が生まれたことになる。少なくとも、許可したものだけを侍らすのだ。

 それらは、ベッドに連れて行かなくてはならない。何故なら、病はその人に、寝そべることを要求する。ただし、娼婦のような下品な女、否、女という実体は恐らく所望されない。男という現象も、同様に必要ではない。…………たしかに、人々の嗜好は多様だ。ただ、根が繋がっていてもおかしくはない。だが、それを絶対に認めることはしないだろう。せめて、遣る瀬無い不幸だけは、特殊であって欲しいし、またそうでなければならないからだ。


 誰も笑うことができない。我々が笑えるのは、鏡の自分だけだ。いや、ひょっとすると、これも笑えないかもしれない。だが、特殊への意志があると、他人は高々その辺の鋳型程度にして落とさなければいけない。それは戦略的に正しいとされるが、笑い合っているに過ぎない。哄笑は、楽しい者でも何でもない。必死に笑っている。追い出すために。

 背中を摩ってやろうとするお節介も、ほとんど嫌味に埋没し、圧死したのではないだろうか。

 実際に、寝ていたばかりだと、起き上がった際に、酷い立ちくらみに襲われる。一度、人生をそのように作り上げてしまったら、逃げられないし、笑うしかない。

 構築した上で、笑わない選択を取る、への字口の仏頂面が、かえって幸福になるのかもしれない。ただ、それは風当たり強く否定されるだろうが。

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