番外・悪戯王子とど根性皇妃。
エルドレッドにイサナに送り込まれたアデルはどんな人だったのか、というお話。
アデル視点です。
エルドレッド殿下を初めて見た時の印象は「いかにも品の良さそうなお坊ちゃん」だった。
私の母は公爵家の使用人で、公爵と「禁断の恋」とやらに落ちて。妊娠すると旦那様に迷惑がかかってはいけないから、という理由で屋敷を辞めて実家に戻った。
でも、下級とはいえ貴族の娘が父親もわからない子を身ごもって帰ってきたとなれば醜聞になるからと母は実家から締め出されて。行く宛てのなくなった母は宿場町の宿屋で住み込みで働き始めた。
お前の父親は高貴なお方なのよ、と母は口癖のように言っていた。今は平民でも貴族の血を引く女なのだから、己の血に恥じない気高い女でありなさいと言い聞かされて育った。
馬鹿じゃねーの、と思っていた。
旦那様のためなんていい子ぶって身を引かないで、養育費をぶんどって家を出ればよかったのに母はそれをしなかった。健気な自分に酔うばかりで見通しが甘くって、そのせいで散々苦労しているのに夢見がちなところはちっとも直っていない馬鹿な女が私の母親だった。
私が十三歳になったある日、馬車に乗ってやってきたお貴族様が宿の前の掃き掃除をしている私を見て馬車を停めた。
年齢やら母の名前やらを聞かれて、何のこっちゃと思いながら適当にかわしていたら宿から出てきた母が顔色を変えて飛びついてきた。なんでもお貴族様が私の父——母がかつて恋焦がれた「公爵様」だったらしい。
公爵様はずっといなくなった母を気にかけていて、苦労をかけた詫びに母と私の生活を保証すると約束した。
母が妾として囲われて以降の二年間は、宿場町で過ごした十三年と比べて窮屈で仕方なかった。それまで平民だったのに急に貴族として扱われて、マナーだの教養だのを詰め込まれて。
おまけに正妻とその子供からは白い目を向けられて、こそこそと陰口まで叩かれた。お貴族様の陰口なんて宿で聞いた酔っぱらいの下卑た野次よりはずっとかわいいもんだったから耐えられたけど、私も好きでここにいるんじゃないんだってぶん殴ってやりたい気持ちはあった。
だから、実の娘だからといういらぬ温情をかけて貴族学院に送り込まれた時はいい夫を見つけて見返してやろうと思った。腐っても公爵家だからそれに負けないくらい家格の高い家を探すのは難しいだろうけど、メイドに手をつけないような立派で優しい夫を見つけて、お前達よりずっと幸せになったんだぞって胸を張ってやりたかった。
そんな矢先に出会ったのが、エルドレッド殿下だった。
「君、シャルツ公爵家なんだろ? それじゃ僕とは遠い親戚だね」
一足先に入学しているはずのシャルツの次男坊様には目もくれないで、よりによって私に話しかけて「エルドレッドと呼んでいいよ」なんて言うもんだから、正直気味が悪かった。どうせ公爵様みたいに顔がいいから愛人にしよう、なんて下心ありきで近寄ってきてるんじゃないかと疑っていた。
でも、実情はもっと不気味だった。
「君、いい婚約者が欲しいんだろう? それなら君にぴったりの相手がいるよ。この国じゃなく隣のイサナ皇国なんだけど」
あろうことか殿下は、私にイサナの皇妃になることを勧めてきた。それも国ぐるみの縁談じゃなく、市井から皇太子に見初められて妃になれと。
当然、そんなのムチャクチャだと断った。イサナの皇族にルヴィルカリアの血を混ぜてイサナを内から牛耳ろうなんて大それた計画は平民上がりの自分には荷が重かったし、たかだか一平民という身分で皇太子を落とせるはずもない。
だけどエルドレッド殿下は、天使のように美しく微笑んで悪魔めいた囁きを私に聞かせた。
「君の母君だってたかだかメイドから公爵のハートを射止めた実績があるじゃないか。それに貴族学院でも下級貴族の庶子が公爵令息に見初められる例は少なくない。君ほどの美貌があれば難しくはないと思うけどなあ」
「でも、成功するとは限りませんよ」
「成功しなくてもいいんだよ。ダメだったら次の誰かを送ればいい話だ。それに君にとっては実家を見返すいいチャンスになる。イサナの皇妃なんてとんでもない玉の輿だろう?」
エルドレッド殿下の囁きはあまりにも魅力的だった。学園内に公爵令息はあまりいないし、侯爵以下だって私の理想とする「妻以外に手をつけない誠実な男性」がどのくらいいるかわからない。いたとして、私になびいてくれるかどうかも賭けなのだ。
どうせ賭けならエルドレッド殿下の提案に乗っても同じではないか。少しだけ心が揺らぎ始めていたところに、殿下から駄目押しの殺し文句が発せられた。
「ああ、でも隣国に突然渡るのが怖いなら無理強いはしないよ。君もやっぱりご令嬢だからね、見知らぬ土地は心細いだろう」
それを聞いて、私の中で「なめんじゃねえ」という反骨心がむくむくと膨れ上がった。こちとら宿場町で行儀の悪い酔っぱらいに絡まれて育ち、公爵家ではなめられてたまるかという一心で数年分の教育を二年弱で終えた女である。そこいらのやわな貴族令嬢と一緒にされたくはない。平民上がりの女はタフなのだ。
やるだけやってみる、と約束して、卒業の数年後に私はイサナへ発った。どうせ庶子ですから平民として生きます、と公爵家から籍を抜いた上でだ。
イサナに移住し、皇都の酒屋の看板娘になった私はやがてお忍びで街に降りてきていた皇太子と知り合った。身分を隠していても、高貴な身分の男というものはオーラが滲み出ている。学園内で大物釣りをしていた令嬢の見様見真似で男心をくすぐる仕草なり言葉選びなりをすれば、皇太子はコロっと落ちてくれた。
皇太子にはすでに妃がいた。だから側妃という形で迎えられたのだが、正妃はこれがまた嫉妬深く嫌な女だった。
正妃からの嫌がらせの数々には、負けてたまるかという一心でただただ耐えた。どのみち母と同じ妾のような立場に甘んじているのだ、その屈辱に耐えているのだからほかの苦痛に耐えられぬわけがない。
意地と打算だけの婚姻関係を続けるうちに、正妃より後ではあるが男児を授かった。正妃の妨害にも屈せずどうにか守り通して産んだ子には、姫巫女の示したいくつかの候補からエルンストという名を選んでつけた。
エルンストが次期皇帝になれなくとも、自分は皇族の子を産んだのだからそれでよかった。どうだ自分はやってやったぞと、とうに縁を切った家族に心の中で胸を張った。
自分は父より身分の高い相手と契り、母と違ってきちんとその男に面倒を見させて子供を育てているのだ。それだけでも十分に誇らしかったが、エルンストが十二歳になった頃に願ってもないチャンスが転がり込んできた。
皇太子のフィリップは短慮な乱暴者だったので、姫巫女が新たな皇太子としてエルンストを推薦したのだ。それだけでも願ったり叶ったりなのに、フィリップと正妃は姫巫女を咎めて処刑しようとした。
これに難色を示した宰相を、私はあの手この手で口説き落とした。と言っても色を使ったわけではなく、宰相の母君がルヴィルカリアの侯爵令嬢だったのでルヴィルカリアを頼って姫巫女を守りましょうと訴えたのだ。
ルヴィルカリア生まれの母を慕っているとはいえ、イサナに忠誠を誓う宰相を説き伏せるのには苦心した。民あっての国なのだから皇帝に弓を引いてでも民を守ってこそ忠臣というものだ、と説いてやっと宰相は折れてくれた。
姫巫女をルヴィルカリアに逃がして数年、新たな姫巫女の進言はいずれも精彩を欠き、国は徐々に傾いていった。
国民の不満が溜まりに溜まったタイミングで、故国ルヴィルカリアと密かに通じてクーデターを起こした。旗頭はもちろん先代の姫巫女が推したエルンストだ。
実質的に国を牛耳っていた正妃と皇太子は蟄居させ、皇帝には退位を迫ってエルンストの下イサナの新体制が整ったのはエルンストが十八歳になった冬のことだった。
イサナを治めるエルンストも、その臣下も、ルヴィルカリアから戻ってきた姫巫女も、今やイサナの上層部には全てルヴィルカリアの息がかかっている。国家の体裁は保っているとはいえ、イサナはほとんどルヴィルカリアの属国のようなものだ。
(結局、全て彼の思うままになったんだな)
皇宮のバルコニーにて、遠く霞むルヴィルカリアとの国境——フィルカの峰々を眺めながらエルドレッド殿下に想いを馳せる。今は即位しているのでもう陛下か。
ルヴィルカリアから戻ってきた姫巫女は、イサナに戻る前に一度だけエルドレッド陛下に会ったのだという。鷹揚ながら何を考えているかわからない人だと話していた。
(つまり、昔から何も変わっていないわけだ)
なめんじゃねえ、という一心を貫いて太后になった自分と同じで、あの王子様も天使の顔をした悪魔のまま国王の座に収まったのだろう。三つ子の魂百までとはよく言ったもんだと思う。
恐るべき切れ者の陛下やその子が治めるルヴィルカリアは、彼の血が薄れない限りは繁栄するだろう。それに従属するイサナも、また同じ。
(でもなるべく早く薄れたほうがいい気もするなあ、あの知恵者の血は)
善く国を治める分にはいいが、野心をもって国を乱す方向にあの知恵が使われたら恐ろしいことだ。今は遠くなった故国ルヴィルカリアの未来を思って、私は手を合わせて祈った。
どうかグロリア様の血がエルドレッド陛下のいたずら小僧の血を子々孫々に渡って抑え込んでくれますように、と。
◆アデル
イサナ皇帝の側妃、のち太后。
平民上がりのど根性娘。「なめんじゃねえ」がモットー。
王太子の側妃にでもなってやろっかな、でも母親と同じみたいでなんかやだしな、とエルドレッドを見て悶々としていたのを見抜かれてイサナ支配の尖兵として担ぎ出された。
息子にエルンストと名付けたのは、エルドレッドと同じでEから始まるから。
なんだかんだでエルドレッドのことは恩人だと思っているので嫌いではない。けど、半分くらいバケモンだと思っている。
◆エルドレッド・キース・ルヴィルカリア
ルヴィルカリア王国第二王子、のち国王。
全ての黒幕系男子。平民上がりで根性のあるアデルに(同年代なこともあって)おもしれー女だなと思って近付いたら、なかなかのハングリー精神の持ち主だったのでせっかくだし使ってあげよっかなと大役を任せた。
エルンストが即位した後、息子のグレアムをイサナに挨拶に向かわせたら「息子がグロリアに似てほんとによかった」という手紙をアデルからもらった。嬉しいようでちょっと複雑。