8.5 アールシュ・アミン
アールシュ・アミンはニューヨーク州ハドソンで生まれた。祖父が南アジアの大国から移住して間もない頃に見た、ウェストチェスターからオールバニーにかけて広がるハドソン川渓谷の自然を気に入り、定住した。アールシュはここで暮らすアミン家の3世にあたる。アールシュの祖父はソフトウェアエンジニアとしてキャリアを積み、自身の会社を立ち上げ、バイアウトして資産を築いた。アールシュの父親も同じ道を歩んでいる。そして、アールシュもそれが当たり前だと考えていた。アールシュもいつか自分の事業を持ちたいと考えていた。
アールシュが18歳の時にプロセッサが一般販売された。祖父も両親も、もちろんアールシュも初期ロットを購入した。周囲の友人もその家族も皆その年か翌年の第2ロットでプロセッサを導入していた。シンタロウに初めて会った時、周りで誰もプロセッサを接種した人間がいないという彼の話を聞き、別の国の話を聞いているようだと感じた。
アールシュは何不自由ない暮らしを送り、東海岸の伝統ある名門大学に進んだ。そこで、エヴァンズ教授が立ち上げたエミュレータ計画に出会った。エミュレータはアールシュが常々感じていた現実社会への不満を解消することが出来るポテンシャルを持っていた。それを知ってアールシュは気分が高揚し、人生が開けるような気がした。
それに比べて現実世界は危険に満ち溢れている。どんなことで自分が命を失ってしまうか分からない。それは自分だけではなく自分の大切な人も同じだ。エミュレータは制御をかければ不慮の死を防ぐことが出来る。当然、貧困や不衛生で死ぬことも防げる。それどころか理論上は死んでしまった人間でさえ生き返らせることが可能だ。しかし、矛盾なく整合性を取りながらそれらを処理するためにはまだ越えなければならない課題がいくつもあった。
アールシュは大学院にいる間に、エミュレータのプロトタイプの基礎理論を完成させ、エヴァンズ教授に実装を託された。それからオプシロン社に就職して5年の内に正式稼働までこぎつけた。今はUCL所属ということになっているが、それはエミュレータ事業がいずれ公共セクターの事業になることを予期したものだった。その時のためにすでにエヴァンズ教授が手をまわしている。
アールシュはティア2から持ち帰った文献を使って、メサDCに新たにインターコネクタのプロトタイプを構築していた。正確に言えば、そうしようと考えていたアールシュの代わりにンジェアイが行動を制御している。もうこの3週間、アールシュの代わりにンジェアイがほとんど全ての行動をコントロールしている。その間、アールシュの意識はンジェアイの自我の端でずっと混濁したままだった。
このプロトタイプのインターコネクタをウィルコックスのディフェクトの代わりに据えるつもりだった。アールシュはこのインターコネクタをティア3住居リージョンと接続できるようにしようと考えていた。インターコネクタはティア2現実のUCL研究所内で見たエクスチェンジと物理構造が同じようなものだ。
人が1人通過できる程度の広さで、長さが10フィートのトンネル状のものだ。トンネル内部には電磁波を放射している。エネルギー量が非常に高く、波長の短い電磁波を重ねることでディフェクトを模倣する。アールシュが手配した大規模な装置は、今の技術で可能な極限まで短い波長の電磁波を発生させることが出来る。電磁波は放射線となり、直接浴びれば一瞬で致死量に達するレベルだった。




