3.2 ソフィア・コールマン②
ソフィア・コールマンはフェニックスのUCL総合病院のベッドに胡坐をかいて座っていた。PAが流す情報チャネルをシークする。どのチャネルも『あの日』の話題ばかりだった。こめかみに親指を当て、湧き上がる怒りを押し殺す。あれからもう3日が経過していた。ソフィアのプロセッサと内耳の損傷は回復しているのでもうすぐに退院できるとオペレータから連絡があった。それを聞いて怒りが少し和らいだ。
この病院は私の感情を逆なでする。特に塩と胡椒すら知らないのかというほど薄い味付けと安全を気にして火を通しすぎて干からびた食事は生きる喜びを奪われるようで早く退院したかった。
ソフィアは『あの日』のことをもう一度確認しようと思い、PAが最後に残したデータを分析したが結局何もわからなかった。情報チャネルで集めた情報から『あの日』に起こった現象は『鐘の音』と『神の使いの言葉』と呼ばれていることを知った。そして、2つの現象は、音も音声も映像やデータに記録として残っていなかった。それは、ソフィアのプロセッサやライフログだけではなく、世界中のどこにも残っていないということだった。
ソフィアは手あたり次第に探したがどこにもその情報ソースが保存できていなかったのだった。しかし、『鐘の音』を聞いたのは間違いのない事実だった。ソフィアには4つ目の『鐘の音』で気を失う直前までの記憶とライフログが確かにあったのだ。しかし、ライフログは私の感じたものや経験したと思っていることであり、それは情報ソースとしては扱われない。情報ソースとはインプットデータをプロセッサやPAを介して蓄積データ化したものでありライフログとは別のデータだ。その蓄積データが何も残っていないというのはどういうことなのだろうか。
アールシュから『あの日』、私のPAをゲストモードで利用したと聞いた時、一瞬凍り付いた。怒りとともに、一瞬どうやって使ったんだろうか、という疑問を感じたが、すぐに理解した。たぶんオプシロン社のコード経由だ。勝手に使うなよ、マジでイラつく。
外部からのPA接続ではなく、オプシロン社のコード経由からもゲストモードの利用をロックして、内部からのアクセスでもブロッカーを挟むようにプロセッサとPAの構成を変更した。一応ディープモードでスキャンもかけておこう。アールシュの奴に何されたかわかんないし。でも一つ腑に落ちないことがある。確かにあの時間のアクセスログが残っているけれど、アールッシュが『神の使いの言葉』をストリームで送ったというデータもデコード結果のデータもどこにもなかったし、消された形跡もない。そもそも、他人のPAに対して、ログ操作なんてできるのだろうか。仮にPAのゲストモードの権限がとられたとしても、その程度の権限でデータを削除することなんてできるわけがない。
釈然としない事象にソフィアは頭を悩ませていた。UCLが昨日行った公式アンケートの結果をみるかぎり、行政利用者の90%以上があの『鐘の音』を聞いたことになっていた。そのうち68%の人間が『神の使いの言葉』を自身が認識可能な言語として聞いている。UCL行政内の人口は中央アジアの湾岸部も含めて8億人程度のはずだ。そうすると5億人が『神の使いの言葉』というメッセージを聞いたことになる。
アールシュが言うには動物はその音を聞いていないのではないかということだった。その根拠はあの『鐘の音』のさなか、エヴァンズの愛犬マックスが何も反応せずにくつろいでいたのを見たという。そして、エヴァンズに聞いたところ、私のように気を失ってしまったという症状はエヴァンズの部下に数人程度いたという。UCLのアンケートにもなかったので一般的な症状ではないのだろう。そして、ENAUの情報チャネルも話題は同じだった。西大陸でもあの現象が起こっていたのであればUCL固有の現象というよりも地球規模の現象だったと考えるのが自然だ。そしてこの人数からプロセッサを接種している、いないは関係がないことがわかる。人間にしか聞こえなかったのではというヒントからプロセッサに直接コードを流されたのかとも考えたが、このことからそれも説明がつかなくなってしまった。
もっと分からないのは『神の使いの言葉』とやらのメッセージ内容が曖昧で意味不明だってことだ。インタビューを受けている人々が話す内容は、どれもニュアンスが少しずつ違って、一貫性がなく同一のメッセージを受け取ったとは考えづらい。複数の言語が同時に流されたことになるのだから、その差異なのかもしれないと考えたが、それだとしても同一の母国語を扱う人々でも理解した内容にあまりにも隔たりがあった。そして、エヴァンズもアールシュも少し整理させてくれと言ったまま、はっきり内容を言わないのでそれもまた気にかかる。
そして、気にかかると言えば、スカイラーだ。私が入院した『あの日』、スカイラーが病院に駆けつけて来てくれた時の彼女の顔は、私のことを心配しているのとは別になんだかとても浮かない顔をしていた。もちろん、スカイラーも『神の使いの言葉』を聞いていた一人だった。
「よくわからないけど、あれはよくないことの予兆だと感じるの。私のただの直感なんだけどね。だけど私、あれからほんとに不安で仕方がないの。どうしちゃったんだろう。『あの日』からずっとおかしいままなの。ソフィアはあれを聞かなかったのだから、きっとこれからも幸せでいられるってことよ。きっとそうよ。」
スカイラーがあんなに真面目で沈みこんだテンションで話をするのを初めて見た。いつもジョークしか言わないし、自分のジョークで大笑いしている彼女がジョークどころか一度も笑いもせずに帰っていった。病室を出る時、振り返って寂しそうに私を見る彼女の表情が頭からずっと離れない。あんなにも、か弱いスカイラーを見るのも初めてだった。




